役に立つ妄想と、役に立たない妄想の二種類あると気づいたのは高校生のときでした。
登下校中に自転車を漕いでいると、ふっと浮かんでくる妄想。小説にしたら面白そうなシーンが、イメージとして入ってくる。
一度始まると数日にわたって長く続きます。
場面がめまぐるしく変わるけれど、どうやら大きな話の一部らしい。ぶつ切りにされた場面場面が、時系列もバラバラに、日常生活を漂っていました。
その頃から漫画や小説を書いていたので、こういった妄想は助かりました。考えていることを携帯なんかにメモしておいて、ある程度の量が溜まったら、プロットにして整合性を高めていく。
役に立つ妄想が発生すると見分けられるし、ありがたいです。
問題なのは、役に立たない妄想が持ち上がるとき。
電車で隣の席に座ったおじさんの髪の毛が実は巧妙にできたズラで、次の瞬間に何らかの衝撃がおじさんの頭に直撃して、ズラが吹っ飛んでしまったらわたしはどう立ち振る舞うのか……みたいな、本当にどうしようもない妄想に耽ることが、最近とても多くなった。
もはや「役に立たない妄想」の割合が「役に立つ妄想」の割合を上回っている気すらします。
隣に座ったおじさんのズラが吹っ飛ぼうがどうでもいいし、っていうかおじさんの髪の毛が偽物である確率は低いし、そもそも隣に座っているのは若い女の子でおじさんではないし……ここまでくると非常時に備えた動きをシミュレーションしているのかと思うほどですが、ズラが吹っ飛ぶシチュエーションなんて漫画の世界でしか起こり得ないから妄想するだけ無駄なんですよね。
なんだろう……強いて言うなら、昔は異世界に近い世界観を脳内で体感できていた。しかし今は現実世界から微妙に逸れたパラレルワールド的な見方しかできなくなっているというか。
とにかく、役に立たないことばかり考えているのです。
役に立たない妄想の弊害は、主にこの3点。
①時間の無駄である
②創作物に生かせない(時間の無駄である)
③現実的な対応に生かせない(時間の無駄である)
この由々しき事態の原因はなんだろうか。
真剣に考察してみたら、仮説が2つ立ちました。
仮説1:老化による妄想の幼稚化(イマジネーションの枯渇)
仮説2:ゲームや映画など視覚に訴える芸術に触れていない(インプット不足)
高校生の頃と現在との決定的な違いは、老けたかゲームをしなくなったかくらいしか見つからなかったので、恐らく原因は二つのうちのどちらかだと思う。
個人的には仮説2が原因であって欲しいけれど、体感的に有力なのは仮説1だったりする……職場の同僚(20歳)と話していると、しょうもない親父ギャグで笑っちゃうし。
※同僚(20歳)はもちろん笑っていない。
そう、歳を取るに連れて、日常のささやかなエピソードにバカ笑いできる機会が増えました。
なんかもう道路の白線の上を歩くだけで楽しいし、レシートにミスタードーナツの半額クーポンがついてきて嬉しいし。
日常がどんどん気楽になって、俗に言う「セカイ系」的な、君と僕は明日生きるか死ぬかも分からない感性から離れていくのは、生き方的には楽だけれど、創作に絶対必要な、決定的な重大さを失っているような気がする。
いっそ楽しい方向に振り切って、わたしも周りもハッピーになる物語を作ればいいのか。鬱過ぎる作品は倦厭される傾向にある昨今ですし……、と思うけれど、ポジティブ・シンキング全開で作品を作り続けられるほど躁状態を維持できない。
煮え切らない状態で、創作街道はおろおろしっぱなしですが、今日もかなり楽しそうに白線からはみ出さないゲームをやってしまいました。