田舎の自然のアスレチックで育ちました。身体感覚は鋭い方だと思います。
森の中のキャンプ場にある、でこぼこした足場の悪い部分と良い部分を見分けられます。
ここは石がでこぼこして細かいけど硬いから歩けるとか。
この土は脆いから、端っこには近づけないとか。
感覚なのか。経験則なのか。
鳶職の人たちが場数を踏んで、高所の安全地帯と危険地帯を踏み分ける感じに似ています。彼らは仕事にしているから、わたしなんかよりずっと鋭い感覚を持っているでしょう。
たまに若い男の子たちが、大自然の急場で互いを押し合いながら、
「おい、やめろよ! 押すなよ! マジでやめろっ!」
とはしゃいでいますが、
「もう少し押しても落ちないよ」「そこではしゃぐと普通に落ちるよ」
と思いながら見ています。
洪水の日に川に行って流されたり、
木材の上に乗って足を滑らせ、倒壊した木の下敷きになったり、
テトラポットに飛び乗ってパルクールをしたり(パルクールという言葉も知らないうちから)、
普通に崖から落ちたりもしました。
一度だけテトラポットの乗り継ぎに失敗して、やすりのようなコンクリートを滑り落ち、脚の皮がずたずたになったことがあります(顔面から行かなくてよかった)。
骨折しなかったことが不思議なくらいです。
兄弟の一人は崖から落ちて、何針か縫っていましたが。
自然のスリルを遊びにしていたせいか、
日常生活でも「ああ、これはこうなる……」という怪我の察知を割とします。
基本的に危うさを感じたら踏み込まないけれど、軽傷で済みそうなときはあえて飛び込んで「やっぱこうなったか。いてて」と、正解・不正解を確かめに行ったりします。
良い年こいて「ぼのぼの」の「アライグマくん」と似た実験をしている。
先日、ワイヤレスイヤフォンを買い替えました。
前回はインナーイヤー型。
今回は、コロコロしたカナル型に変えてみました。
装着した瞬間、
「これはランニング中に耳から外れて足元をコロコロと転がり落ち、わたし自身も足がもつれてすっ転ぶだろうな」
と思いました。
すとん、と府に落ちました。
走ってもいないうちから。
どうしよう……。ランニング中にすっ転ぶ未来が見える……。
それでも、せっかく買ったので、一回つけて走ってみようと思いました。
着け心地が悪ければ、親にでもあげればいいし。
まさか、初回ですっ転ぶとは思わなかった。
怪しい兆しは見えていたけれど、新品だし、耳から外れるのは二、三回目くらいだろうと予想していた部分が外れました。
コロコロと転がり落ちたイヤホンで足がもつれたあげく、踏み潰してバキバキに壊し、わたし自身もすっ転んでランニングマシーンに後方へ押しやられました。
「ああ、やはりそうなったか……しかし、一回目か。まあ、そうか」
すっ転んだショックや恥ずかしさよりも、納得感が先立ちました。
とても冷静でした。子供のころの感覚ってすごいな、と思いました。
燃えないゴミ箱にワイヤレスイヤホンを捨てて、
「このまま帰るのも癪だし、2km走ってやめるか」と思い走り始めました。
1.5kmくらいで靴紐がほどけました。
いつもよりほどけ方が盛大でした。
普段なら、結び直して走り続けるところですが、30秒考えてやめました。
セカンドウェーブが来る感じがしたからです。
もう確かめなくていいや。
二度もベルトコンベアーみたく流されるの、恥ずかしいし。
この感覚は、いつ消えるんだろう。
帰り道、ふと思いました。
小学生のときに身につけた身体感覚。
変に鋭いと調子に乗って、いつまでも小学生感覚のまま大怪我しそうでこわいです。身体は年を取るごとに衰えて、頭の感覚だけでやりくりできなくなるから。
「わたしなら大丈夫! こんなのへっちゃら! 落ちないもーん!」
と言いながら、アラフォーやアラフィフが崖から落ちたらシャレになりません。
変な自信に繋がるから、いっそなくなった方が良いのでは?
十年以上前、母が足を滑らせて、浅瀬に足を突っ込みました。
川に置いた石の上を渡りついで、向こう岸へ渡ろうとしたのです。
「昔取った杵柄よ! 小学生のとき良くやってたから簡単!」
と言って、普通に川に落ちていました。
あのとき、母は五十代くらいだったと思います。
その年齢まで、
ちゃーらーへっちゃら〜♪
何が起きても気分は へのへのカッパ〜♪
という気分でいたら、普通に死にそう。もう若くもない。
実家は崖や川が多いから、気をつけたいと思います。
洪水の日に川で遊んだりしないし、テトラポットでパルクールもしない。
普通に死ぬ。