menu

男の子はつらいよ

男だとか女だとかいうくくりで語る話は時代遅れと言われます。

格差はまだ残っているけど、かなり天秤が釣り合ってきた世間です。性別であれこれ言う前に一個人として見ようよ、という風潮にわたしもおおむね同意です。助かることがたくさんあるから。

その前提におおむね同意した上で、あえてジェンダー的に感じたことを今回は書いています。どうぞよろしくね。

男の子って基本的に優しいと思います。

ヨウキャ、インキャ、パリピ、知的、ヤンキー、オタク、いろんなタイプの男の子がいますが、悪意がなく、普通に生きている男の子はたいてい優しいです。

性格ではなく本質的な優しさというのでしょうか。

うまく書けないけど、生まれつき、力関係を見比べていて、女性を助けてあげたり、守ってあげようとする性質が備わっているみたい。

好きとか下心とかいう話ではなく、年齢の上下さえ関係なく、「女性にひどいことをすると自分の格が落ちる」という、信念やこだわりみたいなものに基づいてやっているように感じます。もはや女性すら関係ないというか。

文学的なキャラクターだとフィリップ・マーロウとか。
もう少し若いとホールデン・コールフィールドくんでしょうか。

フィクションというなかれ、本当にああいう世界観で生きているんだな男の子って……と、この年齢になって感じることが多くなりました。

たまに、気が強くてサバサバしている女性が「私、中身が男だから!(笑)」と言っていて可愛いのですが、だいたいの男って気が強くないし、サバサバもしてないし、様々な出来事にビビっているのを表に出さずに生きています。

そしてだいたいの女みたいに(わたしもそうだけど)、深入りして情が入っても、色々な計算をしてバッサリと切り捨てられない。

「男らしさ」というと決断力が強くて、ぐいぐい引っ張ってくれるイメージがありますが、男の子がよくやる「男らしさ」って、嫌だな、面倒だな、俺が損する役回りじゃん、と思っていても我慢してくれる優しさなんじゃないでしょうか。

その信念やこだわりに基づいた優しさを、知っている女性もいれば、知らない女性もいるし、知り尽くして利用してくる女性もいます(気をつけて)。そんな相手の内面を知ってか知らずか、見返りを求めない、採算度外視の優しい男の子たち。

前の職場にSNSに詳しい男の子がいて、副業でも儲けたこともあるらしく、それを聞いた女性にうまく頼られてしまい、最終的にSNS運用の仕事を押し付けられていましたが、すごく我慢してもくもくと作業をしていました。

「だって彼女はSNSに詳しくないし、周りにも詳しい人がいないし、俺がやるしかないじゃないか!」という境地なんだろうな、と思いました。

仕事終わりに、たまたま机に入っていたクッキーをあげると、すごく恐縮して「ぼくもお菓子持ってるので天野さんにあげます!」と鞄から次々とお菓子の箱を取り出して全部くれました。
「こんなにいいよ、いらないよ」と断ったのですが「これは先ほど違う部署の先輩にもらったやつなので! ぼく甘いの食べれないんでどんどん食べてください!」とたくさん手土産(手土産の量)を持たされました。

うーん、男の子らしい世界観。

If I wasn’t hard, I wouldn’t be alive.
If I couldn’t ever be gentle, I wouldn’t deserve to be alive.

男の子はつらいですね。

そんな男の子たちに聞いてほしい、おすすめの一曲がこちら。

シェアしてくれたら嬉しいですー

カラマーゾフ的な体力

冬ですね。寒いです。乾燥機にへばりついています。自宅ではなく野外にいます。

だいぶ前に洗濯機を人にあげてしまい、コインランドリー通いです。
人に話すとびっくりされますが、かれこれ一年くらい通い続けて慣れました。
一つ分かるのは、衣食住が充実してこそ人間の幸福。
慣れるものではないということです。

自宅の洗濯機にかかる電気代と、コインランドリーで使う料金、全く変わらないという研究がどこかで出ていました。

コインランドリーに向かう体力や、時間的な浪費を考えると洗濯機を持っていた方がラクです。失敗しました。「わたしはミニマリストになるんだい!」と妄言を放って暴挙に出てしまいました……後悔の真っ只中です(ミニマリストにもなっていない)。
とても不便なので、次回の引越しの際にドラム式をまた買おうと思っています。

というわけで、コインランドリーからの執筆です。
文章を書きながら風邪を引いたと確信しました。咽頭の異常と、頭のぼうっとする感じ。たぶん、元旦にもらっちゃったんだろうな、とぼんやり当たりをつけているけれど、こればっかりはしょうがない。

ただ、今回も長引かないだろうな〜という根拠のない自信があります。
なぜならば、わたしはかなりの体力馬鹿だから。

小さな頃から体力だけは無尽蔵に湧いていて、夏でも冬でも無駄にちょこまかと動き回る子供でした。風邪を引いた思い出は希少で、車にはねられたり、洪水に流されたり、木材の下敷きになったりしても翌日には復活。

23歳くらいまで「体調が悪い」という概念がなく、「胃が熱いけどなんでだろう?(胃痛)」「頭がぼんやりするけどなんでだろう?(気圧頭痛)」「吐いたけどなんでだろう?(不明)」という身体の異常を「なんでだろう〜? なんでだろう〜?」と両手をくねくねさせながら踊っている芸人みたいなテンションで、あっさりと受け流していました。

現在も真冬にコインランドリー通いをしている時点で、体育会系の気合と体力は健在だ、と感じています。

以上は自慢しているように見えて、けっこうコンプレックスです。

「健康第一」、「体が資本」と言えども、体が頑丈すぎると無理が効いてしまい、自分の限界値が未だに分かっていません。
いつかこのツケを払わされるのでは……と怯えながら、ジャイアンなみの馬力でしゃにむに動き回ってしまう(体力があるから)。

また肉体的なきつさをあまり感じないせいで、周囲の人に上手に頼ることができません。
一つの物事を、無尽蔵の体力を使って黙々やり続けてしまい、達成してしまう。

「持ちつ持たれつの精神」というのが頭では分かっているんだけども、感覚的によく分からない……これは人生を生き抜く上で、かなりのハンディキャップなのでは、と思っています。

なにより、文章を書いたりWEBサイトを作ったりというインドアな趣味を持っていながら、体力馬鹿というのはちょっと矛盾しているように感じます。例えるなら、ジャイアンがバイオリンを弾いたり漫画を描いたりしているような。

もうちょっと肉体的に繊細さを持った方が良いんじゃないの? 病弱だと感受性や芸術性みたいなもの高まるんじゃない? むしろジャイアンみたいに「お前ら、俺様についてこいよ!」的な肉体に合わせる形で思考回路チェンジした方がいいの? と思うのですが、こう考えるのってかなり贅沢なんだろうな……丈夫な身体を与えてくれた両親やご先祖様に感謝です。

ただ、ここまでステータスを体力値に全振りしなくても良かったんじゃ……。

そうそう、体力馬鹿といえばロシアの小説。

最近読んでる「カラマーゾフの兄弟」に出てくる人たちがとにかく強いんです。
極寒ロシアの、寒い季節が舞台だと思うんだけど(登場人物たちはコートを着ている)、めちゃくちゃ外を動き回る。

メインキャラクターの三兄弟、ほぼ外に出ずっぱりです。読者のこっちが風邪引きそう。
特に破天荒な長男・ミーチャの体力のすごさよ。元軍人で基礎体力は高そうなんだけど、とにかく外に出て呑みまくって女の子と遊んで金の無心に知り合いの家を転々と訪問して、泣いたり叫んだりとすごいアクティブです。寒くないの?

次男はシニカルなインテリ男、三男は穏やかな僧侶……と全然似てない兄弟たち。むしろ、長男以外はインドアの素質あり。
ところが、この人たちも外に出て、女の子のヒステリーをおさめたり、兄の尻拭いをしたり、小学生にリンチされたりと、過激な目に遭いつつアクティブです。寒くないの?

作中では病気にかかった小学生が生と死の境を彷徨っているシーンがあります。病弱な人は出てくるんだけど……ほとんどのキャラが身体もメンタルも強い。
もはや小学生時代に虚弱体質の子供は否応なく淘汰されて、頑丈な人間だけが生き残ったような世界です。

100年前の話だし、自然淘汰は今よりも激しかったと思うけど、こんなに体力モリモリだったら、激情家にもなりますわ。
それとも、これはウォッカ(酒)の活力なの?娼婦の美しさなの?神の御業なの?

寒くないの?

極寒の夜長、無尽蔵の体力を使って夜更かししつつ、黙々読む「カラマーゾフの兄弟」、面白いです。

カラマーゾフの兄弟1 (光文社古典新訳文庫)

シェアしてくれたら嬉しいですー

俺はこういう人間だ!

十年くらい前から自我の強さについて考えています。

「自我」とはまた哲学的な物言いで、わたし自身も明確に定義できずにいます。
そこで辞書を引いてみると、こんなことが書いてありました。

<自我>
1.自分自身。
2.自分の存在や思想に対し執着する心。自己主張。
3.社会的存在を等して意識された自分自身。
4.(エゴ”ego”の訳語として)他人と異なった独立した存在として、自分自身を認識すること。
(引用:ウィクショナリー

なんとなくですが、「自分はこう思う!」みたいな自己主張の強さ、として解釈しています。

かつてビッグダディが「俺はこういう人間だ!」という名言を残しましたが、まさしくあれじゃないのかな自我って。
自我というとビッグダディを思い出すくらい、自我=ビッグダディとして紐づいてしまった。

それはそれとして、

「この人はどのくらい自我が強いのか」
というのが、わたしが対人関係を築く上で、重要な基準になっています。

強すぎる自我を持つ人とがっつり関わると振り回されるからほどほどに。
弱すぎる自我を持つ人と関わるときはこっちから声かけるか……みたいな感じで、主に自我を距離感に変換して見積もっています。

「自我」を判断基準にすると、強い弱いの二分類からさらに「隠れ自我強いパターン」とか「とっさに自我出ちゃうパターン」とか「飲酒で自我出るパターン」とか「一見筋の通っているように見える理屈が自我パターン」とか「悩み相談が自我パターン」など細かく分類されてゆき、中には言葉で言い表せないほどの変化球自我を持つ人もいます。

誰しもが持っている自我が、不思議なねじれ方をしている人を見るとかなり面白い。
(他人の自我を面白がってすみません。わたしの話も後でするのでもう少しお付き合いください。)

職場にとんでもなく自我の強い人がいます。

何を話しても最終的に自分の話に持っていくのです。仕事で必要なやりとりも、いつの間にか自分の話、チャットの業務連絡欄にも自分の話を書き出すという自我の強さ!

その人の「自分の話」というのは、ビッグダディの「俺はこういう人間だ!」という趣旨のことと過去の自慢を掛け合わせた長話なんですが、いかんせん上司なので周りはぞんざいに扱えません。

そして職場にもう一人、変化球系の自我を持つ人がいます。

わたしの分類では辛うじて「隠れ自我強いパターン」に属する人なのですが、とにかく強い自我を奥底にしまいこみ、上司の話を聞いています。
「打ち合わせ」という名目の二時間コースの自我(自慢)話に毎日付き合い、常に上司の「俺はこういう人間だ!」という話に「そうなんですね!」と相槌を打っています。

その部下の人も「自分の仕事を上司に押し付けたい」という自我があって、上司の自我話を聞きつつ、自分の自我をちょいちょい挟んで有無を言わせようとしています。

なんか職場の愚痴みたいになっちゃいましたが、遠くから見ているとすごいんです。表自我と裏自我のぶつかり合いが。

両者とも表面上はにこにこしながら会話をしているので、よく見ないと分かりません。
たまに少年漫画のバトルシーンで戦う二人の動きが早すぎて
「見ろ!まるでダンスを踊っているようだ…!」
みたいな第三者の感想が出てきますが、弊社社員のバトルはとんでもない社交ダンスです。

あまりにも自我の強い上司は自分のことしか見えていなくて、仕事を押し付けようとしている部下の思惑に気づきません。

ひとしきり話をした後で、「あれ? 君はなにか用事があるんだっけ?」とすっきりした顔で相手の押し付けたい仕事の話を聞いています。

しかし、やはり自我が強いので「そんなのやりたくないよ。君がやりなよ」と聞き上手な相手の気遣い?にまったく気づかず、やりたくない仕事をばっさり断る。

やっぱり自我の強い人は強いな……と対岸の火事は見ものでした。

さて、わたしの自我ですが、もちろん強いです。

小説を書いている時点で相当強いです。自我が強くなかったら小説なんて書いていません。

「自分はこう思う!」みたいなことをわざわざ文章に起こして、紙に印刷して本にして、他人に配布するなどという行為は、人並みの自我ではつとまりません。

件の上司が部下に話して解消していることを、こちらは文章でやっています。表出の仕方が違うだけで、基本的な強さはだいたい同じ。スカウターで測ったら大破する自我の強さです。

「自分はこう思う!」という主張を論理立てると思想に近くなりますが、わたしは(自覚している限り)「自分はこう思う!」という際立った思想を持っていません。

しかし強烈な自我があるので、思想的なものは持っていないと過去の記事で書いています。

それは「自分は思想的なものは持っていないと思う!」と宣言する強烈な自我の産物です。

ただ、このどうしようもない自我を、紙面やWEB記事以外の部分で露出しないよう慎重に慎重を重ねています。
それが人生のテーマの一つと言ってもいいくらい、どれだけ他人の自我と自分の自我をほどよいバランスですり合わせられるかを考えています。

職場の異能力バトルを見てからは、自我の取り扱いに益々慎重になりました。

わたしの自我は、自己分類だと「隠れ自我強いパターン」と「とっさに自我出ちゃうパターン」の重なりにいる感じですが、それを書き物以外で表出したままになるリスクを考えると身がすくみます。

多かれ少なかれ人は自我を持っているので、強烈過ぎる自己主張は周囲との摩擦を生み出します。

仲良しグループ内で「連休はキャンプに行こう!」と盛り上がる中、「いやだ!わたしは遊園地に行きたい!みんなも遊園地にいこ!」と自己主張を始めたら、煙たがられるか窘められます。
直接怒ってくれるならまだ愛情のある方で、スマートな大人の付き合いは、笑顔で関係消滅が多いのではないでしょうか……。

日本人は自己主張が少な過ぎる、とよく言われますが、自己主張の少ない民族の中で自己主張を強くすると、異端児的な扱いを受けて他人からかなり距離を空けられます。

それでも生きていける強さを保てるほど自我が強ければ良いのだけれど、コミュニティはセーフティーネットになりうるし、所属グループが多ければ多いほど仕入れる情報が多彩になるので楽しいじゃん? と告げるわたしの自我が、現実世界においてどんどん薄まっています。

本当はかなり強いのに。
美学とかこだわりをかなり持っている方なのに。

まあ、それは小説やWEBサイト作りなどの自己満足の世界で発散すれば良いかと割り切り、どんどん自分を薄めていったら、人の話を聞くだけ聞いて、話したいことがなくなっちゃいました。

話したいこと伝えたいことは文章で書いて、読みたい人だけ読んでくれればいいやと思うと、口頭で何かを伝える意欲がなくなります(それはそれで問題です)。

基本的に人の話を聞くのは楽しい。
特にじっくり話をする友人たちは不思議な人生を歩んでいる人が多くて見聞が広がるし、たとえその話が既知の知識だったり、何度目かの昔話の繰り返しでも、話す人の仕草や声色や身振り手振りを観察しつつ人物素材として小説に活かせるので、人と話すのって無駄がなくて良いと思う
(アウトロー方面の変な人と関わると怖いけど……)。

せめて自分のコミュニケーション能力を上げて、自己紹介くらいきちんとできると、大人として立派だと思うんだけど……自我が薄まりすぎて何もかもどうでも良くなってきている最近です。

文章面では自我の強さを出しすぎてこんな長文になっちゃいました。
いつもより一文一文が長くて読みづらいな。ごめんなさい。

「自我」については書き足りないことがたくさんあるので、何回か文章を重ねて思索していきたいと思います。
そういう形而上的なことをぐちぐち考えるのが好きなんです。
俺はこういう人間だ!

シェアしてくれたら嬉しいですー