十年くらい前から自我の強さについて考えています。
「自我」とはまた哲学的な物言いで、わたし自身も明確に定義できずにいます。
そこで辞書を引いてみると、こんなことが書いてありました。
<自我>
1.自分自身。
2.自分の存在や思想に対し執着する心。自己主張。
3.社会的存在を等して意識された自分自身。
4.(エゴ”ego”の訳語として)他人と異なった独立した存在として、自分自身を認識すること。
(引用:ウィクショナリー)
なんとなくですが、「自分はこう思う!」みたいな自己主張の強さ、として解釈しています。
かつてビッグダディが「俺はこういう人間だ!」という名言を残しましたが、まさしくあれじゃないのかな自我って。
自我というとビッグダディを思い出すくらい、自我=ビッグダディとして紐づいてしまった。
それはそれとして、
「この人はどのくらい自我が強いのか」
というのが、わたしが対人関係を築く上で、重要な基準になっています。
強すぎる自我を持つ人とがっつり関わると振り回されるからほどほどに。
弱すぎる自我を持つ人と関わるときはこっちから声かけるか……みたいな感じで、主に自我を距離感に変換して見積もっています。
「自我」を判断基準にすると、強い弱いの二分類からさらに「隠れ自我強いパターン」とか「とっさに自我出ちゃうパターン」とか「飲酒で自我出るパターン」とか「一見筋の通っているように見える理屈が自我パターン」とか「悩み相談が自我パターン」など細かく分類されてゆき、中には言葉で言い表せないほどの変化球自我を持つ人もいます。
誰しもが持っている自我が、不思議なねじれ方をしている人を見るとかなり面白い。
(他人の自我を面白がってすみません。わたしの話も後でするのでもう少しお付き合いください。)
職場にとんでもなく自我の強い人がいます。
何を話しても最終的に自分の話に持っていくのです。仕事で必要なやりとりも、いつの間にか自分の話、チャットの業務連絡欄にも自分の話を書き出すという自我の強さ!
その人の「自分の話」というのは、ビッグダディの「俺はこういう人間だ!」という趣旨のことと過去の自慢を掛け合わせた長話なんですが、いかんせん上司なので周りはぞんざいに扱えません。
そして職場にもう一人、変化球系の自我を持つ人がいます。
わたしの分類では辛うじて「隠れ自我強いパターン」に属する人なのですが、とにかく強い自我を奥底にしまいこみ、上司の話を聞いています。
「打ち合わせ」という名目の二時間コースの自我(自慢)話に毎日付き合い、常に上司の「俺はこういう人間だ!」という話に「そうなんですね!」と相槌を打っています。
その部下の人も「自分の仕事を上司に押し付けたい」という自我があって、上司の自我話を聞きつつ、自分の自我をちょいちょい挟んで有無を言わせようとしています。
なんか職場の愚痴みたいになっちゃいましたが、遠くから見ているとすごいんです。表自我と裏自我のぶつかり合いが。
両者とも表面上はにこにこしながら会話をしているので、よく見ないと分かりません。
たまに少年漫画のバトルシーンで戦う二人の動きが早すぎて
「見ろ!まるでダンスを踊っているようだ…!」
みたいな第三者の感想が出てきますが、弊社社員のバトルはとんでもない社交ダンスです。
あまりにも自我の強い上司は自分のことしか見えていなくて、仕事を押し付けようとしている部下の思惑に気づきません。
ひとしきり話をした後で、「あれ? 君はなにか用事があるんだっけ?」とすっきりした顔で相手の押し付けたい仕事の話を聞いています。
しかし、やはり自我が強いので「そんなのやりたくないよ。君がやりなよ」と聞き上手な相手の気遣い?にまったく気づかず、やりたくない仕事をばっさり断る。
やっぱり自我の強い人は強いな……と対岸の火事は見ものでした。
さて、わたしの自我ですが、もちろん強いです。
小説を書いている時点で相当強いです。自我が強くなかったら小説なんて書いていません。
「自分はこう思う!」みたいなことをわざわざ文章に起こして、紙に印刷して本にして、他人に配布するなどという行為は、人並みの自我ではつとまりません。
件の上司が部下に話して解消していることを、こちらは文章でやっています。表出の仕方が違うだけで、基本的な強さはだいたい同じ。スカウターで測ったら大破する自我の強さです。
「自分はこう思う!」という主張を論理立てると思想に近くなりますが、わたしは(自覚している限り)「自分はこう思う!」という際立った思想を持っていません。
しかし強烈な自我があるので、思想的なものは持っていないと過去の記事で書いています。
それは「自分は思想的なものは持っていないと思う!」と宣言する強烈な自我の産物です。
ただ、このどうしようもない自我を、紙面やWEB記事以外の部分で露出しないよう慎重に慎重を重ねています。
それが人生のテーマの一つと言ってもいいくらい、どれだけ他人の自我と自分の自我をほどよいバランスですり合わせられるかを考えています。
職場の異能力バトルを見てからは、自我の取り扱いに益々慎重になりました。
わたしの自我は、自己分類だと「隠れ自我強いパターン」と「とっさに自我出ちゃうパターン」の重なりにいる感じですが、それを書き物以外で表出したままになるリスクを考えると身がすくみます。
多かれ少なかれ人は自我を持っているので、強烈過ぎる自己主張は周囲との摩擦を生み出します。
仲良しグループ内で「連休はキャンプに行こう!」と盛り上がる中、「いやだ!わたしは遊園地に行きたい!みんなも遊園地にいこ!」と自己主張を始めたら、煙たがられるか窘められます。
直接怒ってくれるならまだ愛情のある方で、スマートな大人の付き合いは、笑顔で関係消滅が多いのではないでしょうか……。
日本人は自己主張が少な過ぎる、とよく言われますが、自己主張の少ない民族の中で自己主張を強くすると、異端児的な扱いを受けて他人からかなり距離を空けられます。
それでも生きていける強さを保てるほど自我が強ければ良いのだけれど、コミュニティはセーフティーネットになりうるし、所属グループが多ければ多いほど仕入れる情報が多彩になるので楽しいじゃん? と告げるわたしの自我が、現実世界においてどんどん薄まっています。
本当はかなり強いのに。
美学とかこだわりをかなり持っている方なのに。
まあ、それは小説やWEBサイト作りなどの自己満足の世界で発散すれば良いかと割り切り、どんどん自分を薄めていったら、人の話を聞くだけ聞いて、話したいことがなくなっちゃいました。
話したいこと伝えたいことは文章で書いて、読みたい人だけ読んでくれればいいやと思うと、口頭で何かを伝える意欲がなくなります(それはそれで問題です)。
基本的に人の話を聞くのは楽しい。
特にじっくり話をする友人たちは不思議な人生を歩んでいる人が多くて見聞が広がるし、たとえその話が既知の知識だったり、何度目かの昔話の繰り返しでも、話す人の仕草や声色や身振り手振りを観察しつつ人物素材として小説に活かせるので、人と話すのって無駄がなくて良いと思う
(アウトロー方面の変な人と関わると怖いけど……)。
せめて自分のコミュニケーション能力を上げて、自己紹介くらいきちんとできると、大人として立派だと思うんだけど……自我が薄まりすぎて何もかもどうでも良くなってきている最近です。
文章面では自我の強さを出しすぎてこんな長文になっちゃいました。
いつもより一文一文が長くて読みづらいな。ごめんなさい。
「自我」については書き足りないことがたくさんあるので、何回か文章を重ねて思索していきたいと思います。
そういう形而上的なことをぐちぐち考えるのが好きなんです。
俺はこういう人間だ!