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エモエモの実

デザイナーをしているんですが、「エモいやつ」をいつも作ろうとしてしまう。ここ一年くらい、マイブームが「エモい」です。

「エモい」って、不思議な言葉ですよね。

定義がふわっとしている割に、「エモい」と「エモくない」の境界がくっきりしているような気がするのですが、どうでしょう?

霧の多い場所に敷いた国境線、みたいな。

(そんな場所が実際にあるのか知らないけれど)。

国境線を越えて「エモい国」に入りたいのに、「エモくない国」から抜けられない感じをずっと受けている。

弊社の業務は個人の裁量がどこまでも広いので(放置とも言う)、好きなものを好き勝手に作れます。

そこで勝手に「エモい」を目指してポスターやら商品POPやらを制作している毎日ですが、なかなかエモーショナルに至らない。

わたしの「エモい」に対する考えがズレているのだろうか……

・グラデーション(青〜紫系)

・ゴシック体をちょっとナナメにする

・人物の陰影を濃くする

・スモーク

・ネオンライト

・自然体の写真

・君のこと、好きでした

・クラブミュージック

・夜

あれ、箇条書きで「エモい」イメージを明確にしようとすればするほど「エモい」からズレている……煙に巻かれているような。

Pinterestに「エモい」ボードを作って、ひたすら「エモい」デザインを収集したりしているのだけど、そしてPinterestの人たちが作った制作物は「エモ〜!」と唸るような出来栄えのものばかりなのだけど、霧をつかむように作ろうとする側から作れなくなっていく。

なんかこう……「エモい」体験をしたほうが良いのだろうか。打ち上げ花火見たり? 夜の海岸、散歩したり? クラブで体を揺すったり?

あれ、エモいってこういうのじゃなかったっけ?

あれ、違うの?

えっ……? えっ……?

そんな感じで、今日も見果てぬ「エモい」を夢見て、「エモい」デザインを作ろうとしています。

「エモい」って、憧れなのかもしれない。

オタクが夢見る、リア充の夏休み、的な?

・憧れ

画像
おまけ:ぼくがかんがえたさいきょうのエモ

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おばあさまたちの世界観

「ギーゥト締めない事」という張り紙がタンスに貼られていました。
タンスの、小さな扉の一つに。
どうやら完璧に戸締まりすると、歪んだ木枠にドアがハマって、開くのに苦労するようでした。
だから、「常に半開きにしておいてください」、という意味を込め、ウチのトミさん(祖母)が「ギーゥト締めない事」と張り紙していたのです。

「ギーゥト」という謎の言語が、「ぎゅっと」を示していると気づいたのは、数年後のことでした。

タンスは脱衣所のそばにあったので、服を着たり脱いだりするときに、何となく目に入るだけ。日常生活に溶け込みすぎていて、文章の深い意味とか考えなかった。

そもそもそのタンスに入っているのは、トミさんの衣類だけだから、他の家族が手を触れる理由はなく、すると、あの張り紙は誰に向けて書いていたのか? 個人的なメモ? それにしては、「この橋渡るべからず」みたいな、威厳のある字の太さだったが……。

ジェネレーションギャップを超えて、50歳くらい年の離れた人の世界観を見るのは、楽しいですね。

思想ではなく、世界観。
考え方、ですらないところがミソです。

(念のため)馬鹿にしているわけではなく、シルバーパスとショッピング・カートを握りしめ、我が道を行くおばあさんたちは、インターネットに溺れているわたしからすると、骨太な独自世界を築き上げているように見えます。

なんだか、古代の偉大な文化を目の当たりにしているような感覚に陥る。

今は亡き大叔母さまの家は、独自の世界観の宝庫でした。
手作りの小物入れや如雨露、仏壇周りの道具(これも手作り)、風呂に入った後必ず浴槽に散った水滴を拭き上げるとか、とにかく大叔母さまの小宇宙が展開されていてとても好きでした。

一人暮らしの大叔母さまは、毎朝窓のシャッターを開ける事で、自分が今日も生きていることを近所に知らせていました。

シャッターが開かなかったら、自分が病気で倒れているから助けに来てほしいという合図にしていたそうで、実際にシャッターが開いていないのを見た近所の人が倒れている大叔母さまを発見して救急車を呼んだという、天晴れな独自ルールは真似ようにも真似できません。

なんだか話がシリアスな方向に向かってしまいましたが、最後にひとつだけ。
最近見かけたおばあさまの、独自文化を紹介しましょう。

それは市民バザーに出店していたときのこと。

わたしが売る美少女フィギュアを手に取ったおばあさまがいました。推定・80歳くらい。
「かわいいお人形さんねぇ。お手洗いに飾りましょ」と某・魔法少女を即断でお買い上げ。

「美少女フィギュア」という概念すら知らないけれど、可愛いお人形だからトイレに飾る……すごい。
オタクにはない考え方に、衝撃を受けました。

おばあさまの世界観の一部を、わたしの美少女フィギュアが形作っている(そしてトイレを可愛くしている)と思うと、今でも胸が熱くなります。

おばあさまってすごいなぁ。

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君と僕は明日生きるか死ぬかも分からない感性

役に立つ妄想と、役に立たない妄想の二種類あると気づいたのは高校生のときでした。

登下校中に自転車を漕いでいると、ふっと浮かんでくる妄想。小説にしたら面白そうなシーンが、イメージとして入ってくる。
一度始まると数日にわたって長く続きます。

場面がめまぐるしく変わるけれど、どうやら大きな話の一部らしい。ぶつ切りにされた場面場面が、時系列もバラバラに、日常生活を漂っていました。

その頃から漫画や小説を書いていたので、こういった妄想は助かりました。考えていることを携帯なんかにメモしておいて、ある程度の量が溜まったら、プロットにして整合性を高めていく。
役に立つ妄想が発生すると見分けられるし、ありがたいです。

問題なのは、役に立たない妄想が持ち上がるとき。

電車で隣の席に座ったおじさんの髪の毛が実は巧妙にできたズラで、次の瞬間に何らかの衝撃がおじさんの頭に直撃して、ズラが吹っ飛んでしまったらわたしはどう立ち振る舞うのか……みたいな、本当にどうしようもない妄想に耽ることが、最近とても多くなった。

もはや「役に立たない妄想」の割合が「役に立つ妄想」の割合を上回っている気すらします。

隣に座ったおじさんのズラが吹っ飛ぼうがどうでもいいし、っていうかおじさんの髪の毛が偽物である確率は低いし、そもそも隣に座っているのは若い女の子でおじさんではないし……ここまでくると非常時に備えた動きをシミュレーションしているのかと思うほどですが、ズラが吹っ飛ぶシチュエーションなんて漫画の世界でしか起こり得ないから妄想するだけ無駄なんですよね。

なんだろう……強いて言うなら、昔は異世界に近い世界観を脳内で体感できていた。しかし今は現実世界から微妙に逸れたパラレルワールド的な見方しかできなくなっているというか。

とにかく、役に立たないことばかり考えているのです。

役に立たない妄想の弊害は、主にこの3点。

①時間の無駄である
②創作物に生かせない(時間の無駄である)
③現実的な対応に生かせない(時間の無駄である)

この由々しき事態の原因はなんだろうか。

真剣に考察してみたら、仮説が2つ立ちました。

仮説1:老化による妄想の幼稚化(イマジネーションの枯渇)
仮説2:ゲームや映画など視覚に訴える芸術に触れていない(インプット不足)

高校生の頃と現在との決定的な違いは、老けたかゲームをしなくなったかくらいしか見つからなかったので、恐らく原因は二つのうちのどちらかだと思う。

個人的には仮説2が原因であって欲しいけれど、体感的に有力なのは仮説1だったりする……職場の同僚(20歳)と話していると、しょうもない親父ギャグで笑っちゃうし。
※同僚(20歳)はもちろん笑っていない。

そう、歳を取るに連れて、日常のささやかなエピソードにバカ笑いできる機会が増えました。

なんかもう道路の白線の上を歩くだけで楽しいし、レシートにミスタードーナツの半額クーポンがついてきて嬉しいし。

日常がどんどん気楽になって、俗に言う「セカイ系」的な、君と僕は明日生きるか死ぬかも分からない感性から離れていくのは、生き方的には楽だけれど、創作に絶対必要な、決定的な重大さを失っているような気がする。

いっそ楽しい方向に振り切って、わたしも周りもハッピーになる物語を作ればいいのか。鬱過ぎる作品は倦厭される傾向にある昨今ですし……、と思うけれど、ポジティブ・シンキング全開で作品を作り続けられるほど躁状態を維持できない。

煮え切らない状態で、創作街道はおろおろしっぱなしですが、今日もかなり楽しそうに白線からはみ出さないゲームをやってしまいました。

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