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         8

「きれいだな……」
 海を見渡すナギの目が輝く。ここは「曼荼羅ガレージ」屋上。
 五階建ての小さなビルだが、辺りに高層の建物がないので海の眺めを一望できる。
 一週間前に偶然発見した、とてもきれいな景色だ。

 この場所にナギを連れてきたのは自己満足。
 文字通り、もう一人のオレが抱えるジレンマを解消したつもりになって悦に浸っている。
 自分の気持ちを一番知っているのは自分自身。その自分が過去に経験した自分であるならなおさらだ。俺にとっちゃナギの悩みなんて答えの透けて見える問題用紙みたいなものだ。
 ……同時に、破り捨てたい過去の写真でもある。

 ナギを見ていると小さな苛立ちが募る。セツナが生きているこの大事な時期に、オレの抱える悩み事はあまりにも小さい。その外側に大きな問題はごろごろしているというのに、とにかくオレは自分のことしか考えていない。
 判断基準は自分か、自分以外。
 それが俺をにこやかに苛々させる。

「怒っているな」
 ネムルが言った。
 ナギが帰った後も、俺たちは屋上に残った。ネムルが自分の部屋からラムネの瓶を持ってきて、俺に差し向ける。
 鉄柵にもたれかかって、泡立つ液体を口に含んだ。
 ラムネ飲んだの、何年ぶりだ?
「昔の自分に嫌気が差したか」
「厄介な自己嫌悪だな。殴ろうと思ったら殴れちまう自己嫌悪だ」
 俺たちの影は長く、どこまでも伸びている。沈んだあとの海がお湯になっているんじゃないかと思うほど赤々と光る夕日が水平線へ消えてゆく。
「ボクも同じだよ」
 ネムルの声は静かだ。
「この七年、ボクは悔恨かいこんとともに生きてきた。新薬の研究にもっと早く手をつけていれば、彼女は死なずに済んだ。ボクはセツナを見殺しにした」
「セツナが死んだのはお前のせいじゃない。バカなこと言うなよ」
 ネムルは飲みかけの瓶を投げた。
 青色のくすんだ瓶は泡立つ液体をこぼしながらころころと地面を転がってゆく。

「違う。ボクのせいなんだ。父上はMARK-S≠ナ星屑の病≠フ研究をしていた。彼は既に治療法を発見していて、新薬の完成は時間の問題だった。そしてボクはその時間のうちにセツナを助けられなかった。どんな言い訳も通用しないし、認めない。ボクは……セツナを……死なせて、しまっ、た……」

 言い終わるや否や、ネムルはがくっと首を落とした。バランスを失った身体が傾く。慌ててその身体を支える。
 耳元で寝息が聞こえる。昨日と同じ、深い寝息が。
「ネムル……お前の中で何が起こっているんだ?」
 その問いかけに、返事はなかった。


 ネムルは目を覚まさなかった。生命を維持するエネルギー以外の電源をすべて落としてしまったようにひたすら眠り続けた。それは「遮断」に近い眠り方だった。
 俺は「曼荼羅ガレージ」に灯台守がないか探しながら、数時間おきにネムルの様子を見にいった。
 宵も更け、明け方近くなり、ついでに俺は意味もなく徹夜できる高校生ほどには若くない。一階のソファーへ倒れるように寝転がるとそのまま朝まで眠ってしまった。
「マサキさん」と声を掛けられて目が覚めた。
 しゃがみ込んだセツナと目が合う。中々、良い目覚めだ。
 毎朝、幼馴染が起こしにくるシチュエーションも悪くないな。
「おはよう、セツナちゃん」
「おはようじゃないわよ。もうお昼過ぎ」
 そう言って、腕時計を見せてくれる。
「ネムルもまだ寝てるんでしょ?」
「ああ、たぶん」
「あの子ったら、休みって言うと徹夜ばかりしてまったく……」
 オカン口調で小言を言いながらセツナは階段を上っていく。ほんとは違うんだけどなー、と思いながら俺も後に続く。
 まだ眠っているとすると、ネムルが眠りに落ちてから二十二時間経ったことになるが、果たしてネムルは眠っていた。
 セツナは、はーっと深い溜息を吐く。ベッドの脇に膝をついて、
「こらっ!」
 ぺんっ! と頭をはたいた。
 ぱちっ! と開く緑の瞳。

 ……起きた。

 ネムルは静かに上体を起こすと、いつもとは違うすっきりした顔で、俺とセツナとを交互に見比べた。それから、今までに一度も――もちろん俺が高校生だったころも一度も――見たことがない柔らかな微笑みを浮かべて、笑った。
「おはよう、友よ」
 ……写真家ならすかさずシャッターを切っただろう。画家なら瞼の裏に焼き付けて何度もキャンバスに描こうとしただろう。神様なら自分の創造力の豊かさにガッツポーズしたはずだ。
 それはとても、とても美しい笑顔だった。
 俺とセツナは幻惑されたようにネムルを見つめた。
 何も言えなかった。いや、どんな言葉も必要なかった。魔法に掛けられたみたいに。
「セツナは大掃除の手伝いにきてくれたんだったな」
 セツナはハッと我に帰って、
「……そ、そうよ! 無線で連絡くれるって言ってたのに。ずっと待っていたんだからね!」
「それはすまなかった。早速、始めよう。探偵も付き合え。いつまでも無職でいられると思ったら大間違いだぞ」
「……俺、探偵だけど。お前も俺のこと職名で呼んでるじゃん」

 そういうわけで突如「曼荼羅ガレージお掃除大作戦」に巻き込まれた俺は、粗大ゴミを外に運ぶ係に任命された。「曼荼羅ガレージ」一階には修理も改造もできない大型のジャンク品がごろごろしている。これらをまとめて、金属回収の業者に引き取ってもらうらしい。
 炎天の下、地獄のような作業は三時間続いた。
「むっ……、汗臭いぞ、探偵」
 室内の掃除を終わらせて、ネムルが階段を下りてきた。
 ものすごく嫌そうな顔で鼻をつままれる。
「お前は、なんでそんなに涼し気なんだよ」
「こっちはクーラーがんがんに効かせて作業しているからな。寒いくらいだ」
「そんなことだろうと思ったよ。ちくしょう」
「ボクの作業場を男くさくされてはたまらないな。君、ちょっと出ていってくれないかね。ついでに不燃物が二、三個出たから捨ててきてくれ」
 鼻をつまんだまま、ゴミ袋を渡される。
 大量のネジが詰まっていてずっしりと重い。一袋十キロはありそうだ。
「商業区は不燃ゴミ回収の日じゃないんだ。船に乗って居住区のゴミ捨て場まで頼む。帰りは泳いで帰ってきてくれるとありがたいな。風呂を沸かす手間が省けるから」
「俺は犬か! そしてお前は鬼かよ!」
 ネムルはにっこり笑うと、小さな両手で犬耳を作った。
「わんわん♪」
 くそーっ、覚えてろよ! いつかこの部屋でストーブがんがん燃やしながらサーキットトレーニングしてやるからなっ!
 部屋を出ていく直前、セツナが階段を下りてきた。他にやることはないかと訊くセツナの後から、ネムルの自信満々な声が聞こえた。
「君は見ているだけでいい。ボクのお掃除ロボット二号が、華麗に仕上げをしてくれるはずだ」


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