目覚めるとベッドの上に寝かされていた。独特な薬品臭が鼻を突く。ここは、保健室。
高瀬川のお望み通り、オレは「病院送り」にされたらしい。 グラウンドから声が聞こえる。足音で分かる。今、ほとんどの部員が三百メートルのウィンドスプリントをやってる……ってことは、ストレッチも基本練習もとっくに終わっちゃったんだ。 グラウンドにいるやつらが透明な壁を隔てて、何万光年も彼方に感じる。どれだけ走ってもたどり着けない、二時間前。 上体を起こして、うーんと伸びをする。再び、枕元へ倒れた。 全身の力が抜けて、本当に病人になったみたいだ。今から復帰しても、ウォーミングアップが終わるころには昼になってしまう。昼飯を食べたら、一から同じことをやり直さなきゃいけないし、それなら午前中いっぱい休んだ方が良いのか。でも、休みすぎて体が鈍るのも良くないよな……。 ああでもないこうでもないと考えているうちに、突然、視界を覆われた。上げかけた悲鳴を大きな手が素早く塞ぐ。 逆光の中で、茶色の目がきらりと光った。 「また会ったな、少年!」 「 「しっ!」 シルバーリングのついた人差し指を唇に当てて、探偵が言った。 「追われているんだ。静かにしていてくれるかな」 すぐさまどたどたと、運動神経の悪そうな人間の足音が聞こえてきた。 「こらぁぁぁ〜! 待ちなさぁぁぁい!」 少女のように甲高い。この声は、モモちゃん先生? 「不良生徒はぁぁぁっ、おしおきです! 久しぶりに先生、怒っちゃいますよぅーだっ!」 どたどたどたどた……ばたんっ! 「痛ったあぁぁぁーい!」 モモちゃん先生、転んだか……。 何もないところで転ぶもんな、あの人……。 「なんで学校にいるんだよ」 泣きしゃっくりをあげながらモモちゃん先生が行ってしまうと、すかさずオレは尋ねた。 「昨日も言ったろ。調査だよ、調査」 探偵は向かいのベッドに腰かけ、困ったように頭を掻く。 「学校にも手掛かりなしか」 「何の調査をしているんだ?」 「 営業スマイルでにっこり笑う探偵。 「依頼者って、ネムルか?」 「違うよ」 「誰だ?」 「内緒」 「気になるな」 「気にするな」 「じゃあ、気にしない」 「そう言われると気にしてほしいのが人情なんだよなー……知りたい?」 「知りたい」 「おっしえませ〜ん!」 光の速さで突き出たオレの回し蹴りを、探偵は身体を捻って器用にかわす。 再び向かいに腰を下ろして、 「ところで、少年はどうして保健室にいるんだ?」 「お前には関係ないだろ」 「うん。関係ないし、興味もないや」 「本当ムカつくな、あんた」 探偵は既にオレの話を聞いていなかった。這うように扉の前に進み出て外の気配を探っている。ギクリと肩を震わせると、こそこそとベッドへ戻ってきた。扉に近づかなくとも、その賑やかな声はオレの耳にも届いた。 保健の先生と、うちの部のマネージャーだ。 「気が進まないが……背に腹は変えられないか」 何やら独り言をつぶやく探偵。おもむろにベッドの端に丸まっていた布団を取り上げると、オレの上にのしかかってきた! だ、男女の見境すらないのかよっ! このヘンタイ探偵はっ! 「ちょっ、タンマ! ギブギブ!」 オレの本気の足蹴りを受けて、息も絶え絶えな悲鳴が布団の中から聞こえてくる。 「か、勘違い! それはマジで勘違いだから!」 「勘違いならさっさと出ろ! ベッドから、保健室から、学校から、レムレスから、今すぐ出てけっ!」 「今出ていったら捕まるだろ!」 「ヘンタイ罪で捕まれっ!」 「不法侵入で捕まるんだよ! 頼む、 「百円って、今どき小学生でも喜ばな……」言い終わる前に口を拳骨でふさがれる。 頭のてっぺんからつまさきまで厚い布団に覆われた直後、ガラガラと扉の開く音がした。 「いやぁ、先生がいてくれて助かったわ〜」 けらけら笑いながら、マネージャーがこっちへ歩いてくる。 パーテーションを挟んで、オレが寝ているベッドの先には診察台がある。マネージャーはそこへ腰かけたらしく、かなり近距離から底抜けに明るい声が聞こえてきた。 「夏場くらい勘弁してくれないかしら。女の子って嫌よねー」 「ちゃんと買って返しなさいよ」 こっちは保健の先生だ。 「これ、みんなの寄付で成り立っているんだから」 「もちろんよ。何なら 「邪魔よ、邪魔。吸水性のない紙なんて邪魔なだけ!」 先生の言葉に、マネージャーが手を叩いて大笑いする。 ぐっ……。助けを呼びたいのに、オレが入っちゃいけない雰囲気……。 分かっているだろうな、と声に出さず探偵が言う。 「今、見つかったら俺たちは二人とも破滅する。ここは息を殺して、嵐が過ぎるのを待つしかない。オーケー?」 「ちっ……、納得いかないけど、分かったよ」 「ここから先は運命共同体ってことで」 「あとで殴って解消してやる!」 読唇術の会話の果てにオレたちは結託した。仕切りの向こう側にいる女性二人に気づかれないように、なりを潜めるだけの地味な共同戦線を張り巡らせることにした。 ……それから、十分。 彼女たちは一向に部屋を出ていく気配がない。 先生はともかく、マネージャーは診察台の上にすっかり腰を落ち着けている。二人のお喋りは耳を塞ぎたい内容ばかりで、詳しいことは語らないが、この十分足らずの間に女の子に対するトラウマが芽生えかけたことは事実だ。 保健室で傷つくってどういうことだよ……。 外では陸上部の連中がタイムトライアルを行っている。スターターピストルの音が軽快に鳴り響く。タイムを測るのは彼女たちマネージャーの仕事だ。どうして持ち場に戻らないんだろう? それは、ともかく……。 暑いっ! 二酸化炭素が充満した布団の中は、むんむんと嫌な熱気に満ちている。例えるのもおぞましいが、汗だくの満員電車にサウナ機能がついたみたいだ。 暑い。狭い。むさ苦しい――これが一番、精神的にきつい。 くそっ。何が悲しくて、いけ好かない男と布団の中で見つめ合わなきゃいけないんだ。改めてこの状況を振り返ったら吐き気がしてきた。頭もガンガンするし、酸素も薄いし、外では地獄よりもエグいお喋りが続いている。「うわあああああ!」って叫び出したい衝動が身体の内側を叩いて止まない。叫んで頭がおかしくなるか、蒸されて頭がおかしくなるか、どっちにしてもオレはもうダメだ。 ……破滅。 絶望的な二文字が頭に浮かんだそのとき、探偵の襟元から小さなウサギがひょっこりと顔を覗かせた。こいつはネムルの発明品・メモリーラビットだ。 カメラレンズのついた瞳でオレを見つめる。 見つめ合う。 ウサギの目に光がたまって――カシャッ! 目も眩むフラッシュが弾けた。 「〜〜〜〜〜っ!」 言葉にならない悲鳴が上がる直前、指輪だらけのごつごつした手が口を塞いだ。そのわずかな動作が、パーテーションを震わせたらしい。 地獄の交響曲がぴたっと止んだ。 「……この部屋、あたしたちの他に誰かいる?」 訝しげなマネージャーの声。ぴしゃっ、と手を打つ保健の先生。 「すっかり忘れていたけれど、今朝ナギくんが運ばれてきたのよ」 「げっ、ナギくん!?」 診察台から飛び降りたときの振動。ベッドへ進む足音。慌てたマネージャーの息遣い。 オレは探偵の心臓が十秒くらい止まったのを感じた。 探偵もオレの心臓が十秒くらい止まったのを感じたはずだ。 「ナギくん?」 布団一枚を隔てた上から、頭をつつかれる。人差し指で、つんつんと。 「寝てる……?」 つんつんつんつんつんつんつんつんつんつんつんつんつんつん。 「本当に、寝てる?」 つんつんつんつんつんつんつんつんつんつんつんつんつんつんつんつんつんつんつんつんつんつんつんつんつんつんつんつんつんつん。 ……全ての感情が吹っ飛んだ空白の脳みそに、一個の真実が降ってきた。 女の子の、人差し指は、凶器だ! 「起こしちゃダメ!」 ぴしりと先生に御されて、マネージャーは渋々仕切りの向こうへ消える。 「知ってるか? 人間って恐怖から解放されたときにも涙が出るんだぜ」ひそひそ声でつぶやく探偵の目からぼたぼたと涙が零れている。 泣きたいのはオレの方だっての! しかし、怪我の功名だ。これでベッドを覗き見されることはないだろう。耐えよう。こんなところでオレの人生終ってたまるかと、気を引き締めた直後、 「ナギくんのタイム、測りたくないんだよね」 だしぬけにマネージャーがつぶやいた。 「どんな言葉を掛けていいか分からないんだもん。透明な壁≠ェ高瀬川くんとナギくんの間にあって、それはどうやっても乗り越えられない壁≠ネんだって、あたし、気づいちゃったから」 「それで、こんなところで油を売っているわけね。選手を励ますだけがあんたたちの仕事じゃないでしょ」 「そうなんだけどさ……でも、可哀想よ」 その声は、落としたら簡単に割れてしまうガラスみたいにささやかだった。 それからしばらく沈黙が流れた。 「そうよね」つぶやきとともに、診察台が揺れる。 「あたしたちの仕事は砂だらけの男の子たちの面倒を見てあげることだもんね」 立ち上がったマネージャーの、すたすたと部屋を横切る足音がする。 「職場復帰、してきます!」 キリキリと軋むような音を立てて扉が閉まった。 それから五分ほど、先生は机の上を片付けたり治療器具の整理をしていたようだ。去り際にパーテーションを開けてオレが眠っているのを確認すると部屋を出て行った。 待ちわびた静寂が保健室に降りてきた。 「暑い! 死ぬ! 熱死しちまう! さもなきゃ窒息死だ!」 ぶはぁっと息を吐き出して、探偵が布団から飛び出した。蒸されていた空間が消えて、冷たい外気が肌に触れる。 オレは、起き上がらなかった。 汗でじめついたベッドの気持ち悪さが他人事のように感じられて、目を開けたままぼんやりと天井を眺め続けた。窓から吹き抜ける風に冷たさを感じる……いや、冷たいのは風じゃない。 マネージャーの言葉でも、汗に冷えた身体でもない。 五感で感じ取れない何か、未知の何かがとても冷たい。 手団扇で顔を仰ぎながら、探偵はオレを見た。 「帰ろうぜ」 その言葉を聞かなかったら、オレはいつまでもベッドの上に寝転がっていただろう。 顧問の平塚に体調不良の件を伝えて、部活を早退した。モモちゃん先生の監視網(かんしもう)をかいくぐって逃げてきた探偵と校門で落ち合い、船着き場へ向かう。 アクアバギーにまたがったとき、こいつをレムレスまで送る義理はないことに気づいたが、黙っていてやることにした。 水上自動二輪が海上を滑り始めると、探偵は歓声をあげた。タンデムシートから身を乗り出して水底を覗き込んだり、波に手を浸したりして忙しない。 「落ちても拾わないからな」 「タンデマーになるのは初めてで、つい……」 ははは、と照れたように笑う。 「珍しいな。街の人間がアクアバギーに乗るなんて」 「高校生の分際でアクアバギーに乗ってるやつの方が珍しいだろ」 確かに、それは言えてるな……。 水上自動二輪は水上自転車に比べて値段が張る。つーか、めちゃくちゃ高い。稼ぎのある大人でも躊躇してしまうほど高額なので、高校生で所持しているやつはまずいない。 オレがタダ同然でアクアバギーを手に入れた理由は簡単だ。 「廃棄されたバギーのパーツを集めて、ネムルに組み立ててもらったんだ。あいつの大好物の卵焼きと引き換えに」 あれは二年前の冬のことだ。スポーツ特待生として高校進学が決まって、早朝練習に合わせて速い乗物が欲しかった。水上自転車はスピードが遅いし、モノレール通学は割高な上に遠回りになる。そこで街のスクラップ工場やジャンクショップを巡って、部品を一つずつ集めたんだ。 ネムルを水上自転車の後部座席に乗せて、冬の海を何回も往復した。「眠い」とか「寒い」とか文句を言いながらも、ネムルは使えそうな部品を探すのを手伝ってくれたっけ。凍えながらレムレスに戻ったオレたちのために、セツナとさりゅが温かい飯を作ってくれていて……。 「君は、良い友達を持ったな」 「な、なんだよ急に……」 サイドミラーで背後を伺うと、探偵は頭の後ろで腕を組んで、気持ち良さそうに口笛を吹いていた。オレの返事などまるで聞いていない様子だ。 「変なやつ……」 その独り言も、波しぶきと一緒に弾けて消えた。 |