泣きわめくモモちゃん先生をお菓子でなだめて、波乱の五限目を乗り越えた。
一人ぼっちの帰路をたどってレムレスに戻る。 帰り着くまでに、随分体力すり減ったけど……ぺちぺち。頬を叩いて入魂。 試験勉強、大事! というわけで、居住区のてっぺんにある「空中図書館」にやってきた。 「空中図書館」は緑に囲まれた大きな建物だ。苔むした立方型の部屋部屋が複雑に組み合わさった外観は、図書館というより不思議な古代の遺跡みたい。元は偉い学者さんたちの研究施設だったんだけど、彼ら亡き今は知の保存庫として一般開放されている。 自習用の席について黙々とペンを走らせる。長文読解、熟語の穴埋め、構文入れ替え、次々に解いていく。今日はすごく調子が良い。だから勘違いしてしまったのかも。 周りの音がまったく聞こえないのは、集中しているからだって。 「……?」 違和を感じて顔を上げる……誰もいない。 カウンターにいるはずの図書館員さんも、絵本コーナーでふざけ合っていた子供たちも、それを注意していたお母さんも、ソファに座ったおじいさんも、 図書館は無人の静けさに満ちていた。 立ち上がってその辺を歩き回ってみる。ささいな物音すらしない。天窓からブナの葉が、網目のような木漏れ日を降り注いでいる。 穏やかに、ゾッとする光景……。 入口へ向かう。扉に手を掛ける。開かない。内鍵を回してもう一度引っ張てみる。それでも開かない。鍵が掛かっていないのに、扉はびくとも動かない。 ――セツナ。 突然呼び掛けられて足がすくんだ。いつもより広く感じるホールの向こう。本棚に囲まれた、通路の終わりに誰かいる。 ――セツナ。 遠くからでも良く聞こえる。吹き抜けの天井に反響しているわけではない。頭の中で思うことと同じように、その声は心に直接響いてくる。 「だっ、誰っ?」 あたしの問いかけに、女の子は笑った。冷たい笑いだった。 両腕をさすりながら、もう一度問いかける。 「あなたは、誰なの……?」 女の子は答えない。冷笑だけが心をすり抜けていく。 恐る恐る、一歩踏み出す。ゆっくりと彼女の元へ進んでいく。近づくにつれてその姿がはっきりしてきた。 腕を組んで待っていたのは、あたしと同じ年くらいの女の子。レースの飾りがついた、黒いミニドレスをまとっている。本棚の影がベールのように顔を覆って、首から上が良く見えない。 ――灯台へ。 女の子が言った。華奢な足を動かして、今度は彼女自らがあたしの元へやってきた。本棚と本棚の間から差し込む光が彼女を照らしだす。一歩、また一歩と進むごとに光と影がその姿をさらけ出したり隠したりする。 初めて日の下に現れた彼女を見たとき、強い衝撃が胸を打った。 白い髪、青い目、鼻、唇、眉毛、頬――毎朝、鏡越しに見慣れた顔。 まるで虚像のような彼女は…… 「あたし?」 立ち尽くすあたしに、彼女は微笑を返した。あたしと同じ顔、同じ声。 目の前に、もう一人のあたしがいる。 ――灯台へ。 女の子は言った。 ――灯台へ、来てほしいの。 霞んでいく視界と一緒に、彼女の声もぼやけて消えていく。 ――灯台へ来てちょうだい。 ――へ来てちょうだい。 ――ちょうだい。 ……ちゃん! ……お姉ちゃん! ……セツナお姉ちゃん! 「セツナお姉ちゃんってば!」 身体を揺さぶられて目を覚ます。瞬間、音がなだれ込んできた。 本のページをめくる音、衣擦れの音、足音、ひそひそ声……人の気配が充満している。 「起きてよう!」 ぼやけた視界にさりゅが見えた。小さな拳でぽかぽかと頭を叩かれる。 「起きてよう! 起きてよう!」 「起きるから。起きるから叩かないで……」 机に伏せていた顔をあげる。ようやく頭がはっきりしてきた。 夢の中からあたしを引っ張り出したのは、ナギの妹のさりゅだ。 今日のさりゅは、ふわふわの亜麻色の髪を二つ結びにして、花柄のワンピースをまとっている。たまたまあたしを見つけて声を掛けてくれたのかと思ったけれど、どうやらそうではないみたい。 「お姉ちゃん、たすけて!」 「おにいちゃんが、たいへんなの!」 「おにいちゃん? ……ナギがどうかしたの?」 「うん。あのね、さりゅ、おにいちゃんが学校から早くかえってきたからすごくびっくりしたの。それでね、なんで? って聞いたの。そしたらね、そしたら……」 優しく垂れた瞳から大粒の涙が溢れる。小さな肩が震えて、甲高いひゃっくりが漏れ出した。 よいしょとさりゅを抱きかかえる。 六歳児の体は涙が溜まって燃えるように熱い。 「さりゅー、泣かないでー。さりゅが泣いたらお姉ちゃんも悲しいよ」 「う、うん。でもね……ひっく、おにいちゃんが……ひっく」 「ナギのことが心配なんだね。ナギのいる場所は分かる?」 「ネムルちゃんのところ……」 「ネムルちゃんのところって、曼荼羅ガレージ=H」 さりゅは大きく頷いた。 屋上でのやりとりを思い出す。そう言えばナギ、「曼荼羅ガレージ」に行くって言っていなかったっけ。さりゅの話を聞くに、ただならない雰囲気だったようだけど、まさか探偵さんへケンカを売りに行ったわけじゃないわよね……? 「とにかく、商業区に行ってみようか」 「ほんと?」 「うん。あたしの水上自転車に乗せてあげる。お兄ちゃんを探しに行きましょ」 さりゅの顔がぱっと輝く。頬を滑る涙を拭いて、力強く頷いた。 |