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ゆるやかに闇の中をちてゆく。まるで夜の海へ沈んでいくみたい。
 温かさを感じる。この闇は温かい。五感で感じる温かさではない。もっと抽象的で直接心に響いてくる。ユークはほっと息をついたが、息をついた感じがしない。目を開けても視界は何も変わらない。闇が深すぎるせいではなく、目を開けた感覚がないのだ。同様にその他の機能も失われてしまっている。
 この虚無感をユークは知っていた。ユークがこの世に生を受けたとき――つまりセツナの脳が長い冷凍保存から解放されて覚醒のために電気刺激を与えられた瞬間――も同じ気持ちを味わった。
 生まれてすぐに思考や感情が確立していたユークは作り物の身体器官が脳に接続されるまで観念的な場所にいた。その場所は時間も空間も存在していなかった。ただ、自分の内なる声が止むことなく響いていた。永遠にも一瞬にも感じられるその間に多くのことを考えた。
 その考えは現実世界じゃ到底思いつかない高次元こうじげん的なことばかりだったと記憶している……もっとも肉体を与えられた瞬間の、濁流だくりゅうのような現実認識のショックですべて忘れてしまったのだが。
 ……それももう、済んだことね。
 ユークは観念的な溜息を吐く。
 似たような状況におちいった今、彼女が考えることと言えば……。
 私は死んだ。夢と一緒に死んだんだ。

 「夢見る機械」を使って楠木ネムル博士は仮想世界を作り出した。日常を繰り返し、百四十五年もの年月を夢の中で過ごした。その間に蓄積ちくせきされた記憶は膨大ぼうだいなもので、いつネムルの脳を押し潰してもおかしくはなかった。
 そこでユークは周回したネムルの記憶をもれなく自分へ移し替えることにした。移行作業はつつがなく完了し、ユークの脳は押し寄せる記憶の重圧に耐えきれなくなって壊れた。

 私は死んだ。
 だからここへ戻ってきたのね。
 ようやく、ここへ戻ってきたのね。

 何時間、何日間、何年間、闇を彷徨さまよい続けただろう。
 果てのない空間にぽつりと小さな穴が開いた。その隣に、同じ大きさの穴がぽつりぽつりと開いていく。次第にそれらがユークには夜空に輝く白い星に見え始めた。
 星屑だ、と思うと同時に今では銀河に似た数組のまとまりを形成していた無数の穴から一斉に光が差し込んだ。
 まぶしさに目をくらませながら、ユークは光の中へ降り立った。
 スカートのすそが太ももを撫でる。下を向くと自分の足が見えた。黒皮のブーツを履いている。顔に触れると作りものの皮膚の冷たさを感じる。懐かしい五感が戻ってきた。
「ここが――」とユークは発声した。
「ここが天国だったら面白いわ」と言ってみた。
「あたしにもよく分からないの」答えが返ってきた。
 声のする方へ目を向ける。
 自分がいた。
 白い髪の毛、青い瞳、小さな鼻に、桃色の唇。鏡越しに見慣れた自分が微笑んでいる。何から何まで同じかたち――ただし、着ているものが違う。
 対峙したもう一人の自分は蒼色のセーラー服を身にまとっている。
「初めまして……になるのかな」
 照れたように彼女が微笑み、ようやくユークは理解した。
「セツナ? あなたは、セツナなの?」
「会いたかったわ、ユーク」
「信じられない……」
「夢見る機械」は停止したはずだ。みんなの記憶を元に作り出されたセツナは架空かくうの存在。夢の終りとともに消滅したはずではなかったか。
「あたしも夢に取り込まれた一人だったの」
 ユークの考えを読み取ったようにセツナは言った。
 懐かしそうに目を細めて、
「あたしの記憶、感情、意識――つまり人格は、死んだあとものこっていたの。あなたも知らない脳の深部しんぶに。〝夢見る機械〟はあたしの記憶に反応して仮想世界を創り上げた。と同時にあたしの人格をも取り込んで、蘇らせてくれたのよ……〝星屑の病〟にかかる前の、十七歳の女の子にね」
 にっこりと微笑む、その笑顔は夢で見たのと同じもの。
 死者は夢の中で生きていた。
 みんなの「大好き」は、虚空こくうに投げかけられていたわけじゃなかったのだ。
 そしてその話が本当なら、今も彼女の本質は死んでいないことになる。
「戻って!」
 ユークは我に返って叫んだ。
 セツナの手を取り、必死に訴えかける。
「セツナ、現実の世界へ戻ってきて。ネムルさんはあなたを救うために〝MARK-S〟に加わった。心にひどい傷を負って、今も苦しみの中にいるわ。どうか助けてあげてほしいの」
 口をつぐんで、うつむく。
「……私じゃ、あなたの代わりになれない」
 生まれたときから感じ続けてきた後ろめたさがユークを責める。

 ――私は、存在してはいけない存在。

 だからこそユークは誠心誠意せいしんせいいネムルに尽した。がっかりさせたくなくて、少しでも笑っていてほしくて。
 ネムルは優しかった。話しかけて、笑いかけた。一度だってユークが生まれてきたことを否定しなかった。しかし、ネムルがユークを見る目はいつもどこか寂しげで、傍にいればいるほど、尽せば尽すほど余計に彼女を傷つけているような気がして罪悪感は募るばかりだった。

「セツナじゃなきゃダメなの。私……私は……」
 作り物の瞳から零れた涙が、制服の肩口に吸い込まれた。
 セツナはそっとユークを抱きしめた。優しく髪を撫でる手に、自分にはない体温の温かさを感じる。
「存在してはいけない存在なんてどこにもないわ」
「で、でも……っ!」
「あたしね、目覚めたのがあたしじゃなくて、ユークだったことに意味があると思うの。身代わりになる必要なんてない。他の誰でもないあなたを愛している人がいる……ほら、聞こえるでしょう?」
 彼女の指差す先から、声が聞こえてきた。

 ――目を覚ませ!
 ――生きろ、ユークっ!

 その声は、今までに聞いたことがないくらい力強かった。悲しみに震えながら、それでもありったけの力を込めて叫んでいた。
 ユークは涙をいて空を見上げる。
「ネムルさんが呼んでる……私を、必要としてくれているの?」
 戸惑って、セツナを見る。
 彼女はにっこり笑うと、両手でユークの冷たい手を握る。
 そして額と額をくっつけた。
 合わせ鏡のように二人の姿は左右対称に静止する。
「目を閉じて。魔法をかけてあげるから」
 間近で微笑む青い瞳を最後に、ユークはそっと目を閉じる。
 その声は、歌うように、呪文のように、ユークの耳に澄み渡った。

「あなたを苛む夢の記憶は、あたしが全部持っていきます。そして二度と目覚めることのないよう、意識の底の奥底の〝永遠のとろ〟へかえしましょう。……さようなら、ユーク。〝最高の夏休み〟をありがとう」

 声が、小さく、遠くなる。
 繋いでいたセツナの手がほどける。ユークは再び暗い闇の中へ投げ出された。
 今度の闇は温かさを感じなかった。その代わり、初秋しょしゅうの涼しさを感じた。
 脳が眠りから覚醒する。
 寒い。暗い。機械のにおい。
 そして、聞こえる。
 彼女の悲しい泣き声が、聞こえてくる。