■■■ 無から有へ。 水底から浮き上がるように、徐々に意識が戻ってくる。 いちばん初めに感じたのは吐息の温かさ。 自分の息が壁に当たって跳ね返る。 限定された空間にさりゅはいる。 おかしい、とさりゅは思う。さっきまで自宅の広い寝室に眠っていたはずだ。目を瞑っていても分かる。ここは家じゃない。においが違う。温度が違う。寝具が違う。五感で感じる様相が、がらりと変わってしまっている。 そっと目を開けてみる。視界がぶれて、なかなか焦点が定まらない。咄嗟に伸ばした手がガラスに触れた。四方八方に同じ手触り。ガラスでできた箱の中に閉じ込められている。気づくと同時に不意の振動が混乱と不安でいっぱいの小さな世界を揺さぶった。 誰かがガラスの箱を叩き、自分の名前を呼んでいる。 声のする方へ目を向ける。 短髪の黒髪に、切れ長の黒い目を持つ少年の顔が映る。 おにい、ちゃん……? 瞬きをすると少年の残像が掻き消された。 心配そうにさりゅを見ていたのは、赤い髪に茶色い目をした大人の男。 すべての記憶が戻ってきた。 お兄ちゃん! 束の間の忘却から抜け出したさりゅは、腕を伸ばしてガラスケースを押し上げる。ケースは内側から力を込めるとすんなり開いた。 「お兄ちゃんっ!」 ケースから飛び出して、兄の首に抱きつく。すぐさま自分より強い力で抱きしめられる。さりゅの目から止め処ない涙が溢れた。それが何の涙なのかさりゅには分からない。 とにかく言葉にしてみようと口を突いて出たのが、 「わたし、レムレスにいたの……きれいな頃の、レムレスに」 喋りながら思い起こされる故郷の景色。白い壁の鮮やかな居住区、装飾看板の賑やかな商業区。人口海岸。モノレール。空中図書館。宇宙プラザ。 活気に満ちたレムレスの情景が、今なお脳裏に焼きついて消えない。 抱擁を解くと渚は言った。 「俺たちは同じ夢を見ていたんだ」 「同じ夢?」 「七年前の、過去の夢だ」 「それじゃ……」と言いかけて、さりゅは戸惑う。 ――来年は、さりゅの浴衣を作ってあげる。 ――すっごく可愛い浴衣、作ってあげる。 お祭りの日に交わした約束。絡めた指の温かさ。目を閉じれば思い出す。ひと夏の間に何回も遊んだ。お喋りした。お泊りした。抱っこしてもらった。 大好きな人の香りを、思い出す。 セツナお姉ちゃん。 辺りを見回してもセツナはいない。世界中の、どこにもいない。彼女は既に死んでいるという変えようのない事実がさりゅの胸に押し寄せた。 頬を伝った涙の意味に、さりゅはようやく気がついた。 そのとき、 「うわああああああああぁぁっ!!」 地を揺るがす大絶叫が轟いた。さりゅが思わず尻もちをついてしまうほど、その声は凄みを帯びていた。 「ユークっ! ユークっ! 目を覚ませ! そんなっ……嫌だっ! ユーク!!」 すぐさま渚が立ち上がって、声のする方へ駆けていく。よろめく身体をかばいながらさりゅも部屋の奥へと走った。聞いているだけで心が割れそうなこの声の主をさりゅは知っていた。長く会っていなかったけれど、夢の中でたくさん遊んだ。 セツナと同じくらい大好きな、もう一人のお姉ちゃん。 「ネムルちゃん……」 さりゅの目に、一人の女の姿が映った。女は裸だった。尻を覆うほど長い髪を振り乱し、色白の両手を真っ赤に腫らしながらガラスケースを叩いている。 「ユーク! ユーク! ユークっっ!」 楠木ネムルの小さな身体から発せられる鬼気迫った様相に呑まれて、さりゅは呆然と立ち尽くした。 「ユーク! 起きろ! ユークっ!」 「や、やめろ、ネムル……」 「離せっ! 離せよっ!」 止めに入った渚の腕から身をよじって逃げ出すと、再びケースにしがみつく。 「君がっ……!」 叩いても、 「君がっ……!」 叩いても、 「君が願ったからボクは生きたんじゃないかっ! 今度は君がボクの願いを叶える番だろっ! 目を覚ませ! 生きろ、ユークっ! ユーク、ユーク……お願いだよ。目を、覚ましてよぉ……」 ユークは応えない。 真っ赤な手で顔を覆ってネムルはわんわん泣きだした。涙で身を滅ぼすような凄まじい慟哭だった。 呪縛が解けたようにさりゅの身体は自由になる。すがるように兄を仰ぐと、渚は目を見開いてガラスケースを凝視していた。 「ユーク、死んだのか……?」 微かに開いた唇から低いつぶやきが漏れる。その視線の先を追って、さりゅは息を呑んだ。 セツナがいた。 ガラスケースの中にセツナが横たわっていた。 非現実な光景を前に膝が震えた。即座に幼いながらも記憶に残っている葬儀の思い出が蘇る。彼女がこの世を去ったあと、その身体は荼毘に付された。セツナであるはずがない。物理的にあり得ない。 途端にさりゅはガラスケースに閉じ込められた女の子が生きていないことに気づく。これは人形だ。人間に似せて作られた、精巧な人形。 一体、どうなっているの……。 混乱するさりゅの耳に、悲痛なネムルの嗚咽が響いた。 |