シドからの電話は、大人しくしてろ、というものだった。
 テロ事件が一応の収まりを見せるまで、大人しくしてろ。左目に注意を払うことを、忘れないように。
「どれくらい待てば良いんだ?」
⁠⁠――三ヶ月から半年。前に言っただろ。
「アバウトすぎる」
⁠⁠――バカンスだと思えばいい。ワーカーホリックにも、たまには休暇が必要だろ。
疲れた溜息を吐き出して、「羨ましい」とシドは言った。心の底から滲み出てた言葉。アルドは通話口から耳を離す。沈黙の間に、シドが珈琲をすすっている。彼の部屋のゴミ箱は、空のボトルでいっぱいだ。誰より先に死ぬんじゃないだろうか。
⁠⁠――良いじゃないか。休息したって。恋人といちゃついて、友達とはしゃいでろよ。年相応だろ。
 年相応。二十六歳。年齢を思い出すたび、宙ぶらりんな気持ちになる。年相応の二十六歳たちは、大半が働いている。戦いや殺人に携わる職業がごく一部だとしても。社会から疎外された気分だ。
 裏社会から疎外されて、宙に吊り上られている。
 面倒くさい若造だな、とシドは言った。
⁠⁠――筋トレでもしてろよ。次に向けてコンディションを整えるのも仕事の一部だろ。
「してるよ。毎朝四時に。地下のジムで三時間」
⁠⁠――馬鹿だろ、お前。
呆れ返った返事が届く。自覚している。一日三時間はやりすぎ⁠⁠だ。
 ベランダにあぐらをかいて、煙草に火をつける。
 平和だ。
 平和は良い。
 しかし、居ても立っても居られなくなる。ごくたまに。五年間、戦いに浸した全身がうずうずする。
 だからこうして、組織の状況を聞いている。ワーカーホリックの性質だ。肉体労働でなくて良い。ギークなデータ野郎になっても良い。
 シドの仕事を手伝うと言ったら「影武者は二人もいらない」と断られた。断固拒否の姿勢だ。
⁠⁠――銃に触れてないよな。もちろん?
「ああ。エルザから止められた」
⁠⁠――聞き分けが良いな。エルザに⁠⁠対しては。
シドは穏やかな声で言った。
⁠⁠――感謝しているよ、アルド。ボスの窮地を救い、敵対組織を壊滅する契機を作った。本当は、特別待遇で迎えたいところなんだ。ただ、俺たちの仕事は終わってない。テロの後始末もあるし、他組織との関係性も考えて動いている。お前が警官だったときも、事件を解決した後で、上部がごちゃごちゃしていただろ? まさにあれだよ。あの煩雑さ、分かってくれるだろ?
「そこまで説明しなくても分かるよ」
アルドは溜息を吐く。説得されて、宥められている。
 そういえば、シドは十歳年上だったな。戦力は劣っていても、上司の一人だ。
「時間を割いてすまなかったな」
⁠⁠――進捗はきちんと伝える。この案件もいつかは終わる。お前は平和ボケしながら、馬鹿な筋トレしてろ。それが最重要事項だ。
 電話を切って、頭を掻く。ビル風に吹かれながら、心に残る引っ掛かりを、なんとかやり過ごす。
「こんなところにいた」
 ベランダの窓を開けて、部屋から真一が出てきた。寒い、と言いながら目下を覗き込む。高けぇ! と驚愕の声が上がる。部屋には茜もいる。凛が二人を呼んだ。女の子たちは、キッチンに立って、料理を作っている。茜の悲鳴が聞こえるのは、凛の暴走を止めようとしているからだろう。遺伝子研究はエルザから、ハーブティーはイズンから、料理は茜から教わると良い。
「お前の〝何でも屋〟はいつ再開するんだ?」
二本目に火をつけながら尋ねる。
 真一は小麗の怪我が治るまで実家にいて、茜との喧嘩を仲裁する予定だ。
 年が明けた、来年の予定は?
「未定かなー」のほほんと真一が⁠⁠答える。
「今は寒いし、春くらいかな」
「呑気だな」
あははははー、といつもの笑いだ。平和の国の、平和な二十歳だ。ごまかしに乗ってやる。
白く霞んだ絶景を見回しながら、真一は言った。
「戦うときは戦う。平和なときは平和。平和なときは誰かと遊ぶ。それで良いんじゃね?」
「その感覚、俺には分からない」
「もしかして、俺の方が頭良い?」
「そうかもな」
わーい! と純粋に喜ぶ真一を尻目に、アルドは煙草を吸い続ける。
 明日も馬鹿な筋トレするか、と思いながら。


 テロ事件発生から三ヶ月後、ようやくシドから指示があった。
 組織から与えられた新車に真一と凛を乗せて、アルドは科学館へ向かった。代わり映えのない扉を開けて、シドが三人を迎え入れた。明朗快活に「あけましておめでとう」と季節外れの挨拶をする。もう三月だ。
「三人とも代わり映えしないな」
シドもすこぶる元気そうだ。年末に漂っていた疲労は少しも見えない。体調を尋ねる。
「死にかけたよ」平然と答えが返ってくる。
「ちょうど大晦日か。過労で倒れて運ばれた。エルザとイズンの元に。年越しのカウントダウンじゃなくて、生命のカウントダウンをしてたな。俺は」
笑えないジョークに一人で笑っている。お前らはどうだった? と問われ、三人は曖昧な笑いを返すだけに留めた。笹川⁠⁠組の⁠⁠年越しの祝賀会で飲み食いしていたとはとても言えない。
 科学館のテーブル席からフィオリーナがやってきた。黒いジャケットと⁠⁠同じ色のタイトなペンシルスカート。グレイのピンヒールを響かせて、三人の元にやってくる。凛の言っていた通り、彼女はいつもと変わりなかった。心身の状態は、いつも通りの健やかさで輝いている。
 皆さん、ご無沙汰しています。女神は微笑みを湛えて、一人ずつ、愛情の籠もったハグをした。
 彼女に接近されたとき、アルドは少し身構えたが、激しい殺人衝動は起きなかった。甘い香水の匂いに隠された、彼女本来のにおいを嗅いだ時でさえ。
 ただ、ぎこちない違和感を覚えた程度だ。
 本能は消えていないが、理性で覆い隠すことができる。
 ⁠⁠アルドを見て、彼女は柔らかに微笑んだ。
 対照的に、⁠⁠シドは豪快に笑った。
「凛と真一くんよ、俺の話を聞きたいだろう? 生死の境をさまよった、地獄のハッピーニューイヤー。除夜の鐘を聞きながら臨死体験なんて滅多にできない。ジャパニーズ・ホラーを聞かせてやるよ」
曖昧に嫌がる日本人女性と日本人青年の肩をわっしと捕まえるシド。有無を言わさない態度で、地下階段を降りてゆく。機転を利かせて離席したのと、仕事の愚痴を零したいのと、半々くらいだ。
 彼らを見送って、⁠⁠女上司は向き直った。
 ブルーヒューの眼差しが、アルドを捉える。
「お名前は?」
「アルド・ディクライシス」
フィオリーナは頷いた。
「良い名前ですね」
すすめられた中央のテーブル席に腰掛けた。向かいに座るフィオリーナの前にティーカップが、自分の⁠⁠座る席の前にも⁠⁠熱い紅茶が湯気を立てている。華やかな良い香りがする。にわかに静まったフロア。
「ありがとう、アルド」
フィオリーナが優しく沈黙を破った。
「貴方のおかげで助かりました」
「上司を助ける。⁠⁠部下の仕事ですから」
ふふふ、と笑いながら、彼女は紅茶に口をつける。彼女はすべてを知っているのだろう。表の事情も、裏の事情も。そして自分の返答が、照れ隠しに近いものだということも見抜いているのだろう。
 アルドも紅茶に口をつける。ハーブティーではない。種類は分からないが、イズンがいれるものと同じく⁠⁠らい美味しい。
「一通りの目処はつきました」とフィオリーナは言った。
「安心しました」とアルドも言った。
 長期的に事態を収拾する。チェスボードは完成したらしい。これから十数年に渡って、彼女の手腕は遺憾なく発揮される。シドが言った通りのシナリオが、世界を巻き込んで展開される。
 それは、自分の預かり知らない話。ボスの采配。女神の神意だ。
「一通りの目処がついて、貴方と⁠⁠お話しをしなければならない時がきました」
「俺の今後について」
「そうです」
フィオリーナは⁠⁠頷いた。
「後天遺伝子は未解明。獣化は止まったものの、再発のリスクがないと言いきれません。エルザは、過度な刺激は避けるべきだと言っていました」
 ⁠⁠フィオリーナは婉曲的に告げた。エルザの物言いは数倍ストレートだった。
 ⁠⁠⁠⁠――銃の扱いは最低限⁠⁠になさい。戦いや殺しは⁠⁠やめること。戦地に行って⁠⁠発狂しても知らないわよ。
 ホテルにエルザとイズンを招いたときのことだ。
 キッチンでハーブティーを沸かしている凛をちらりと見ながらエルザは耳打ちした。「殺し」という穏やかならぬ言葉を、老婦人はさらりと言った。⁠道理を知らない子供を嗜める言い方だった。
 しわがれた目で、どれほどの⁠⁠惨劇を見てきたのか。人殺しに説教をするなんてすごいな、と思い⁠⁠つつ傾聴したものだ。
 ⁠⁠そのエピソードを聞いて、エルザらしいですね⁠⁠、とフィオリーナ⁠⁠は苦笑した。
「商売道具を使えない。貴方は⁠⁠この世界で生きる術を失ってしまいました。残念なことですが、組織から除外せざるを得ません」
「⁠⁠口封じに殺しますか?」
「最悪の場合は」
「交渉の余地はありますか?」
「いくらでも」
フィオリーナは微笑んだ。
「わたくしが架けた橋を渡って、貴方はこちら側に来た。もう一度橋を架け⁠⁠直し、あちら側にお返しします。それがわたくしたちにとって、最良の選択だと思いますが」
いかがでしょう? と問われ、アルドは頷いた。
⁠⁠「願ってもいないことです」
感情というか、情緒というか、不思議な感慨が湧いた。⁠⁠⁠⁠⁠⁠殺しのない世界に帰る。そんなことがあり得るのか。何が生々しい現実なのか、感じれば感じるほど、判断がつかなくなってくる。
 内心を見透かされるのは一度で十分だ。女神が微笑みを深くする前に、束の間の放心から立ち返ると、アルドは皮鞄から絵画を取り出した。ピンク色と紫色の、夢のようなモヤに包まれた神秘的な絵画。擬人格のヨンが描いたあの絵を目に焼き付け⁠⁠たあと、フィオリーナに渡した。
フィオリーナは、⁠⁠物言わず絵画を見た。その目は、絵画の作者や描かれたものを説明するのは愚問だと語っていた。
優しい草食動物の柔らかな毛並みを撫でるように、時折細い指で表面をなぞりながら、フィオリーナは長い時間、絵画を見つめ続けていた。
「差し上げます」
彼女が息をつく瞬間を見計らってアルドは言った。
「⁠⁠その絵画の持ち主は、貴女がふさわしい」
「ありがとう」
フィオリーナは微笑んだ。
「貴方からの贈り物も⁠⁠、大切にします」

 モヤが晴れる気持ちとともに、一つだけ心に疑問が残った。ほどけた糸の最後の一塊り。
「⁠⁠一つだけ聞きたいことがあります」とアルドは言った。
「俺の獣化が止まったのはなぜ⁠⁠だと思いますか?」
「凛さんの〝くんくん仮説〟ですね。エルザはなんと言っていましたか?」
「不明。科学的に説明がつかないと」
そうです⁠⁠か、とフィオリーナは⁠⁠相槌を打ったあと、顎に手を当て⁠⁠て考え込んだ。
 その間に、科学館のフロアが一回りも二回りも広くなったように感じられた。思わず周囲を見回してしまったほどだ。黒い鏡ばりの空間。眠りについた実験器具。
 科学的であり魔術的だ。
 フィオリーナの灰色のヒールが、微かに床を慣らした。
「わたくしの見解は⁠⁠非論理的。もはや空想に近いものです」
 ただの冗談。話半分にお聞きください、とフィオリーナは念を押し⁠⁠て、続けた。
「わたくしたちは、暗示にかかっているのではないでしょうか。凛さんとアルドがにおいで繋がっているように、わたくしとアルドは暗示によって繋がっているのでは」
「そう考える理由は?」
「ヨンです。彼女はわたくしの鼓動と貴方の鼓動を紐づける暗示をかけたそうですね。同じ要領で、わたくしの死に向かう衝動と、貴方の生き延びる反動を、紐づけたのではないでしょうか。死と生の拮抗、いえ均衡を保ったからこそ、後天遺伝子の獣化が止まった。⁠⁠したがって、わたくしたちは生きている」
なるほど、とアルドは頷いた。興味深い仮説だ。裏付けはない。支持されていない。凛の「くんくん仮説」と同じように。
 ⁠⁠「ヨンは良い人なのです」とフィオリーナは⁠つけたした。
 ⁠⁠「貴女と同じくらい」とアルド⁠⁠も補足する。


 紅茶を飲み終わると、フィオリーナは手首につけた腕時計を見た。⁠⁠アルドも自分の時計に目をやる。話し始めて⁠⁠三十分が経過している。階下の応接室を思い浮かべる。陽気に⁠⁠臨死体験を喋り続ける大男に、疲れた笑いを浮かべる⁠⁠二人の様子が目に浮かぶ。そろそろ解放してやらないと不憫だ。
 席を立ったところで、フィオリーナは言った。
「あの本はお読みになりましたか?」
「嵐が丘?」
「凛さんの好みに合えば良いのですが」
⁠⁠「気に入っているようですよ」
鉄階段へ向かいながら、アルドは思い出す。
 この三ヶ月、彼女にねだられる度に日本語訳を朗読した。ソファの上や、ベッドの中で。⁠⁠凛はいつも眠りに落ちた。子供みたいな寝顔で、ぐっすりと。子守唄を歌っているんじゃないかと思うほどだ。
 彼女が眠ると朗読をやめて、続きを黙読した。⁠⁠他者の視点で語られる切ない憎悪の物語は、一ヶ月程度で読了した。凛の読書率は⁠⁠三分の一くらいだ。
 ⁠⁠こわいけど、鋭い愛情がある。途中まで読んだ彼女の感想だ。
 ⁠⁠凛の感想をありのままに伝える。⁠⁠
 本をくれたことに対しても礼を述べる。
⁠⁠ フィオリーナは⁠⁠、わずかにからかいの口調で言った。
「恋愛小説の読み聞かせ。ロマンチック⁠⁠ですね」
「⁠⁠⁠⁠そうかな」
「凛さんは可愛いでしょう?」
「それなりに」
「ヒースクリフは誰だったのでしょう?」
 アルドは⁠⁠振り返った。
 ⁠⁠フィオリーナは未だ椅子に坐していた。
 ね? と首をかしげて問いかける。
 遠目からでは、表情が分からない。
 しかし、笑っている気がする。すべてを包む、女神の微笑で。
「⁠⁠分からないな」と⁠⁠アルドは答えた。