退院の三日前。
 クローゼットのあちこちを探した。すぐに見つかった。
 煙草とZippoライター。解消するストレスが消えたせいか、⁠⁠すっかり忘れていた。二週間。これまでの禁煙の最高記録だ。生まれてから⁠⁠十五年間を抜きにすれば、人生でいちばん長く煙草を吸わなかった期間だ。
⁠⁠ 思いの外、達成感がある。
 このまま非喫煙者になるかどうかは、一服しながら考える。
 久しぶりの煙草が、まずいと感じられたら最高だ。
 病室を抜けて、アルドは廊下に向かう。今、何時だろう? 夕方、イズンにいれてもらったハーブが効いて、眠り込んでしまった。
 ⁠⁠喫煙所はどこにある?
 入院している病棟は薄暗い。何十年も前から建て替えられていないらしい。青緑色にぼんやりと照らされた廊下が続く。
 幽霊に弾丸は効くのか。⁠⁠煙草のピクトグラムを探しながら、どうでも良いことを考える。
 一度死んだやつを物理的に殺すことは可能か。
 ゾンビならできそうだ。後天遺伝子に侵食された獣たちは、ゾンビみたいなやつらだった。
 脳を破壊しない限り、何度でも再生して襲ってくる。
 そのからくりを利用して、俺も生き返ったしな。
 ⁠⁠……何か、聞こえた。
 ⁠⁠立ち止まる。
 目の前には階段が見える。
 ゴースト。
 ふと、そんな単語がよぎる。
 スピリットではなく、ゴースト。
 アルドは目の前にある階段へ足を向ける。
 段の終わりにたどり着く。最上階は小さなスペースになっていて、段ボール箱が壁沿いに積み上げられている。
⁠⁠ その向こうに、屋上へ続くドアが見える。段ボール箱を動かして、ドアを見る。
 古い扉だ。黄ばんだ紙に「立ち入り禁止」の張り紙がしてある。
⁠ ドアノブに手を掛けて回す。鍵は掛かっていなかった。
 押し開いて、屋上に出る。
 くつろぐことを想定していない、殺伐としたスペース。雨風でまだらになったコンクリートの隙間に雑草が生えている。修繕工事は何年も行われていな⁠⁠い。「立ち入り禁止」はもっともだ。
 いつの間にか十二月だ。外気は冷たい。
 左目の眼帯を外して、空を見上げる。
 宵も更けた空に小さな星がぽつぽつと見える。
 黒い布で一面を覆い、針で穴を開けた。そんな夜空だ。
 星々よりもライターの輝きの方が強い。アルドは入り口から少し進んだところに立つと、紫煙を吸い込んだ。すぐさま甘い目眩を起こしてその場に座った。久しぶりに禁煙を破るとこれだ。
 地味な屋上で、地味な星空を見上げながら、何かを考えようとする。そのすべてが、取り留めのないことのように思えてくる。
 掴みどころのない思考。
 ⁠曖昧模糊あいまいもことした星空。
 それでも美しい。
 中でも美しいのは、オリオン座の三つ星だ。⁠等間隔とうかんかくに近い並びは数学的に美しい。
 誰が配置したのか知らないが、センスがある。
 これが平和。
 ……平和か。
 「平和を噛み締める」とは、こういうことを言うのか。
 なぜだろう、泣きたい気持ちとよく似ている。


 ⁠⁠ゴーストではなく、人の気配を感じた。
⁠⁠ 嗅いだことのあるアーモンドの体臭。
 気配のする方を見る。
 コンがいた。
⁠⁠ パーカーとジーンズ姿。決戦前夜、笹川邸で見たときと同じ格好で。
 彼女は屋上の端に立ち、灰色の目でアルドを見ていた。
 二週間ぶりの職業病で、懐に手をつっこんだ。
 思い直して、手を出した。
 吸い殻を地面に押しつける。立ち上がろうとしたが、脳に浸透したヤニの胡乱な重圧は続いている。
 コンはゆっくりとこちらにやってきた。両手をポケットにつっこんだまま。
 首元に刻まれた鷹のタトゥー。さらにその上から刻まれたナイフの切り傷は、⁠⁠傷痕こそ目立つものの⁠⁠完治していた。この二週間で、彼女の身体も順調に回復しているようだ。
「あとは残務処理だけだ」
首元のスピーカーからヨンが告げた。
「一足先に帰らせてもらうよ」
ーーわざわざお別れを言いに来たのか?
 携帯電話に打った文字をコンは見ない。代わりに、遠方から鋭い視線が飛んでくる。
「どうしてもって、私の死体がね」
観測手は言った。
「フィオリーナ⁠⁠とシドに電話をかけまくっていたんだ。⁠⁠狼くんに会わせろと。暗示中の記憶がないから気づかなかった。うるさいったらありゃしない……ほら、さっさと言いな。自殺したら承知しないよ」
最後の二言は、コンに向けられた言葉らしい。チリン、と音がして、⁠⁠女の身体から力が抜けた。
 よろよろとその場に崩れ落ち、両膝をつ⁠⁠くコン。アルドは慌てて肩を⁠⁠支える。
 コンは放心している。
 光を失った灰色の目は、暗い地面を見つめたままだ。
 鈴の音。
 指示ではなく、暗示の解除。
⁠⁠ すべての暗示が解除され、コンは本来の姿に戻った。冷酷な殺人マシーンでもなく、天真爛漫な姉でもない。偽人格を脱ぎ捨てた彼女は、自我が崩壊した廃人に戻った。武器は携帯していない。そもそも意思のない人間に自殺はできない。
 支え⁠⁠を失くせば、地面に倒れる。だから、アルドは支えている。
 呼吸に合わせた白い息が、流れては消える。
 首元のスピーカーからは、何も聞こえない。
 彼女の動作が変わる。あるいは痺れを切らした鈴の音が鳴る。
 どちらが先かは分からない。とにかく「ネクロマンサー」の出方を待つことにする。
 ⁠⁠その間に、噛み締めていた平和が戻ってきた。

 ⁠⁠……平和。
 泣きたい気持ちとよく似ている。
 最後に泣いたのは、いつだったかな。
 かなり昔。何年も前⁠⁠のことだ。
 ……ああ、思い出した。
 彩が死んだときに、泣いたんだ。
 厳格なルールを破って、一人で泣いた。⁠
 彼女と暮らした⁠⁠、あの部屋で。
 嗚咽を漏らして溢れる涙を拭い続けた。
 あの涙が、⁠⁠すべての始まりの合図だった。
⁠⁠
 ⁠⁠始まりと⁠⁠終わりはよく似ている。
 だから、⁠⁠こんな気持ちになるのか。

 白い手が、長い時間をかけて持ち上がった。
 小刻みに震えながら、腕を掴む。
 ジャケットを握りしめ、灰色の目がアルドに向く。
 力なく開かれた唇が、小さな息を吸い込んでまた吐き出す。
「あ……り、がと……う……」
震える息遣いに乗せて、⁠⁠か細い言葉が聞こえる。
「あり……が、と……う」
 月のない夜空に、光のない灰色の目。
 その奥に、何かの働きが見えた。
 光でもなく、動きでもない。
 生命という⁠⁠、一瞬の働き。
 チリン、と鈴の音が聞こえ、コンは⁠⁠無表情に戻った。
 すっくと立ち上が⁠⁠る。
 再びパーカーのポケットに手を突っ込む。
「お別れじゃなくて、治療のお礼か」
スピーカーの向こうでヨンが言った。⁠⁠こんなこともあるんだね。感心した声がノイズに滲む。
 アルドは携帯電話に文字を打ってコンに見せた。コンというより、ヨンへ⁠⁠向けたメッセージだ。
ーーちゃんと手当てしろよ。雑に扱うな。
「その言葉、そっくりそのままお返しするよ」
ひひひひ、と金属⁠⁠の軋みに似た笑い。
 くるりと踵を返して⁠⁠コンは進む。鉄柵を飛び越える。
 二本目の煙草に火をつけながら、念のため⁠⁠、地上を覗く。もちろん、墜落死体はない。
⁠⁠ あいつら、ニンジャにもなれるな。
 紫煙を吸いながら、暗闇から離れる。
 彼女たちの気配が完全にしなくなったとき、携帯電話が震えた。
 時刻は〇時十二分。真一からだ。通話ボタンを押すと、いきなり画面が映った。
「おおっ、出た!」
真一が驚きの声を上げる。
 出たってなんだよ。⁠⁠俺は幽霊か。
 そんなことを思いながら、アルドはライターの蓋をカチッと鳴らす。
⁠⁠ 喋れない人間に電話とは良い度胸だ。
「映像、オンにしろよ」
カチッカチッ。
「嫌ってこと?」
カチッ。
「嫌だって」と凛の声。⁠⁠彼女が画面に現れる。
 背後に和風の屏風が見える。居場所は笹川邸か。
「写真、嫌いなのよね」
カチッ。
「真一くんが何で電話したか分かる?」
カチッカチッ。
「見当もつかない」
カチッ。
「会話が成り立っとる。おもろいな」と茜の声。⁠⁠彼女も近くにいるらしい。
「ハッピーバースデー!」唐突に真一は言った。
 あーっ、と凛の叫び声。
「もう言っちゃった! ダメじゃない! もったいぶらないと!」
「えっ、なんで?」
「真一は、何も分かってへんなぁ。そういうとこ、おもしろくないねん」
「俺、サプライズとか分かんねーし」
「だからモテないのよ。真一くんが、良い人止まりなのはそこ」
「せやせや。あんたは粋な計らいっちゅーもんが足りない」
「知らねぇよ。二人して迫ってくるなよ、こえーよ」
三人で揉め始め⁠⁠た。畳の上に投げ出された携帯電話は、天井の蛍光灯を映している。
 アルドは少し考えて、言った。
「……たんじょうび」
掠れた声。空咳をして調える。
「誕生日?」
ばたばたと音がして、天井を映していた映像がぐるぐると回る。
真一が⁠⁠電話を取り上げて、高くかざす。そう! 誕生日!
「俺の電話に登録してあったアラームが鳴った。十二月八日。お前の誕生日だろ」
「⁠⁠そうか」
「声が出てる!」と凛。
「喋れるようになったの? いつ?」
「今」
「えっ、今? たった今?」
アルドは喉元に手を当てる。咳払いをする。
「喋れるな。うん」
発声練習も兼ねて、話しを続ける。
「今日、俺の誕生日か。電話してくれてありがとう。忘れていた」
「なんで忘れるんだよ」と真一。
「自分の誕生日くらい覚えとけよ」
「仕方ないだろ。半年前まで知らなかったんだ。誕生日も、年齢も……ええっと、二十六か。俺は二十六歳になったのか。微妙だな。二十六って。中途半端だと思わないか?」
「二十歳の俺に聞くなよ」と真一。
「アルド兄ちゃん、変わってるな」と茜。
「さすが真一の友達。⁠⁠まともに見えて、独特な味つけのB級グルメや」
「もしかして、あたしもB級グルメに入ってる?」
「凛姉ちゃんは一級品のB級グルメや。そうでないと兄ちゃんの⁠⁠彼女なんて務まらん。真一も超B級グルメ。お仲間」
「そういう茜も変わり種だろ。昭和から令和までの刑事ドラマを網羅してる女子高生なんて横浜にいねーよ」と真一。
「それは進路の資料集め。学校の勉強と変わらへん。ウチは、ごく普通の女子高生だもーん」
「えー、ずるい! あたしも普通の女の子だもん!」
「俺だって普通の一般人だし! 仁侠なのは実家だけだし!」
またもや三人で揉め始める。放り出された携帯電話は、座布団に落ちて黒くなった。
 ぎゃあぎゃあ騒ぐ声を耳にしながら、アルドは三本目の煙草に火をつける。
 二十六歳。
 煙草を吸いながら、コンも同じ二十六歳だったことを思い出した。
 経歴書に「age:26」と記されていたはずだ。真偽は不確かであるものの。
 二十六歳。同い年か。
 ……やっぱり、微妙だな。
 二十五歳のままでいたかったという気持ちと、早く二十七歳になれ、という気持ちが混ざっている。
 とにかく微妙なのだ。二十六という数字は。
 「移行中」という感じがする。過去から未来への移行段階。なぜそう思うのか、分からない。
 自分が二十七歳になるとき、コンも二十七歳になっている。
 早く次の誕生日が来ると良い。
 わけもなく、そう思った。