正宗と最後に会ったのも屋上だった。
 ドアの向こうから、あのうるさい気配がした。重い扉を蹴り上げ、ずかずかとやってくる。
 晴れた空の下、黒いロン毛が白く⁠⁠照り返る。羽織った革ジャンの肩口も白色だ。
⁠⁠ 数日風呂に入っていないのか全体的に脂ぎっている。肩にかけたバッグを⁠⁠下ろすと、アルドの隣に腰掛けた。
 差し出した手に、煙草とライターを渡す。乾いた皮と水分を含んだやわらかい土。親子なのに凛とは違う。性別が違うからか。野性的な⁠体臭が紫炎に混ざる。
 眉間にしわを寄せて煙草を吸う。痛みをこらえるような味わい方だ⁠。入院中、禁煙を課されていたのだろう。手元にストックもないんだろう。
「それ、やるよ」
「何言ってやがる。俺様のもんだ」
はいはい、と⁠⁠答えながら、二本目の煙草をもらい、ライターを借りた。
 正宗の顔は左右対象ではなくなっていた。右半分が不自然に引きつっている。引っ張り上げた皮が、彼の右目と口角をわずかに吊り上げている。ニヒルな笑いに見えなくもない。
⁠⁠ 撃たれた患部にガーゼが貼ってある。右肩の銃創は革ジャンに隠れて見えない。左手で吸っているところを見るに、完治まで時間がかかりそうだ。
「それでも行くのか?」とアルドは尋ねた。
「どこかへ⁠⁠?」
「韓国⁠⁠かタイ」と正宗は答えた。
「まだ決めてない。安く美容整形できるところ。まったく日本はケチくさいよな。手術すんならちゃんと最後までやれ⁠⁠ってな。美形専用の治療コースがあってもいいくらいだ」
 相変わらず、滅茶苦茶なことを言う。
 傷を見せてもらう⁠⁠。処置は適切に行われている。皮膚の引きつりを除けば、銃創は目立っていない。客観的立場から観察結果を伝えても、彼の耳には届かないだろう。イかれているから。
 何に対しても独自の目線を持っていて、今の顔は⁠⁠彼の美意識にそぐわない。だから治しに行く。
 傷が塞がらないうちに切ってもらった方が手間が省ける、と合理的すぎることを言う。
 顔の話をすれば、眼帯の話にもなる。
 アルドの左目を見て、正宗は吹き出した。
「青と赤で紫って! お前は⁠絵具えのぐか!」
頬の傷を痛がりながら、腹を抱えて笑っている。複雑な人体の単純さが、正宗の笑いのツボらしい。フリークスやビックリ人間が好きそうだ。ゲラゲラとひとしきり笑ったあと⁠⁠、上機嫌に背中を叩いてくる。
「かっこいいじゃん。ロックだよ」
「ロックは好きじゃない」
「気に入らないんだ?」
「⁠⁠主義主張のうるさいものは好きじゃない」
「いつまでもガキくせーやつ……まあいい。今日は言いたいことがあってな。言わずにおくこともできたんだが、⁠⁠元・相棒のよしみだし、娘のこともあるから伝える。耳かっぽじってよく聞きな」
 その前に一服させてくれ。正宗は煙草をくわえる。差し出された一本をアルドも吸った。
 結局のところ、禁煙できていない。
 渦中にいたときに比べると、一日の喫煙数は見違えるように減った。せいぜい二、三本。ストレスではなく習慣だ。
⁠⁠ なんとなく吸う煙草はうまい。屋上の景色を見ながら吸っていると心が落ち着く。非喫煙者になれる日が来るのか。果たして、自分はそうなりたいのか。
 ハーブティーや、凛のにおいや、本や論文、その他⁠⁠心の落ち着くものを増やしながら、自然と煙草を忘れていく形がいちばん上手く行きそうだが、どうだろうな。
 このくだらない考え。平和だな、と思っていると、正宗が言った。
「〝マフィアの勘〟は使えないぜ」
断言する、と言い添える。
⁠⁠「〝マフィアの勘〟は二度と使えない」
「その話、したか?」
「いいや。見舞いに来た、任侠王子から聞き出した。ぺらぺら喋ることで、事件の謎解きが出来る〝マフィアの勘〟。お前はその勘を使って数々の難事件を解いた。⁠警官時代はヒーローだったらしいな。だが、⁠⁠⁠それもおしまいだ。試してみろよ。使えなくなっているはずだから」
 アルドは周囲を見回す。試そうにも、試せるものがない。屋上は平和だ。
 ただ、正宗の話し方は相変わらず凄みがあり、説得力がある。勘の良い男から勘の話をされると、妙に納得する。
⁠⁠ 正宗も屋上をぐるりと見渡す。ある地点で目を細めた。
 何かを⁠ている。
 視線の先を追うが、そこは貯水槽の影が伸びた、ただの暗がりだ。地面に生えた雑草が、日向に比べて萎びている。
 試したか? と暗がりを見つめながら、正宗は言った。
 試せるものがない、とアルドは答えた。
 正宗は新しい煙草に火をつけた。三本目は断った。喫煙はもういい。健康を害する。
「ああいうものは使えない方が良いんだ。余分だからな」
「余分?」
「俺たちには関係ないもの。嫌だろ? 好きでもない女に付きまとわれたりしたら。ぐちぐちと好きだ好きだって言われたらやる気も失せるだろ? そういう余分だよ」
「マサムネは、⁠⁠女以外の例え話ができないのか?」
「いちばん良い例えだろ、今の」
煙草の吸殻を地面に押しつぶす。負傷していない肩先にバッグを引っ掛け立ち上がる。
「実力を試す⁠⁠、良い機会だと思⁠⁠いな⁠⁠」
正宗はニヤリと笑った。
「死ぬ気で頑張れ。男だろ?」
 はあ、と曖昧な返事をする。根性論。感覚的。よく分からないが、分かったよ。
 戦いの最中に答えた返事を今日も返す。
 そんなことより、重要なのは……。
 ドカドカと不遜な歩き方で来た道を引き返す、革ジャンの背をアルドは引き止める。
「おい、⁠黙っていなくなるなよ。リンに言ってから行け」
「もう言ったよ」
正宗はポケットから携帯電話を取り出した。
 ショッキングピンクの携帯ケースに、ハートマークがプリントされたラブリーな外観。安っぽいストラップにもハートマークの飾りがついている。
 げんなり⁠⁠顔のアルドを見て「凛の趣味だっての」と面倒くさそうに⁠⁠頭を掻く。
「三日前に言った。そしたら、〝すまほ〟を持たされた。唯一の身内なんだから、たまには連絡しろってさ。俺の娘は⁠⁠無理や我慢が好きらしい⁠⁠な」

 ……ということは、あのデザインは嫌がらせか。
 正宗が去った後で、アルドは考えた。
 ショッキングピンクに、べたべたしたハートマーク。
 どちらとも、彼女の趣味じゃない。
 嫌がらせ。ハート。二律背反。嫌いだけど好きなんだろう。
 面白い親子だな、とアルドは思った。