しけた煙草

しけた煙草

金網にもたれ掛かり、河野薫は煙を吐き出す。
細長い煙草の箱には灰色の小さな星が規則正しく印刷されている。今日は、セブンスターな気分。
スモーカーの間では特に重いと言われているセブンスター。確かに、昨日吸ったヤツ(なんだっけかなぁ……名前が思い出せない)よりも舌がピリピリする。
「ああ、世の中ってのは疲れることだらけだなぁ」
ボソリと薫はつぶやいた。ここ、雑居ビルの小さな屋上には自分ひとりしかいないが、それでも大きな声で憤懣を吐き出せるほどオープンな人間ではないので、小さく。
そもそも、刑事たる人間がオープンであってはいけないと思う。
推理小説なんかに、やたらと図体がでかくて、声もでかくて、短気で汚い言葉遣いの刑事が出てきたりするが(TVドラマでは梅宮辰夫や陣内孝則なんかが演じる役所だ)、刑事2年目の自分に言わせるとそんな一癖のある男には今まで会ったことがない。
同僚や上司はみんな(目つきがやけに鋭いのはお決まりだけども)至って普通。むしろ濃いキャラがいなくて物足りなさすら感じている。
(憧れなんて、所詮裏切られるものなんだなぁ……)
薫はかつて刑事課を夢見て、交番勤務に励んでいた頃の自分を思い出していた。
あの頃は、ベージュや紺の上着にスラックスの刑事たちにひたすら憧れを抱いていたのだ。

警察官を小学生の頃から夢見ていた薫にとって、警察官になれたことは奇跡のように思えたが、いざ仕事をしてみると、自分の思い描いていた警官像とは大きくかけ離れていることを実感せざるを得なかった。
まず、日ごろからカッコいいと思っていた警察官の制服。着てみると動きにくい。動きにくい上、冬は寒いし夏は暑い。通気性に優れていないのだ。
不謹慎なようだが、警察官の仕事も想像していたものよりずっと地味でやりがいを感じられない。
大きく期待を裏切られたような気がした。

それからは、颯爽と警察署へ出入りしている刑事課の人間に憧れを見出した。自分が本当になりたかった姿は彼らなんだ!と啓示めいた衝撃を受け、2年前やっと配属になったのに……なんか、違った。 しっくりこない。
あれほどまでに熱望していた「刑事課」という肩書きが、どこか薄っぺらいもののように感じられる。
(もしかしたら、俺の目指していたものは、警察組織じゃなかったのかも知れないな)
それじゃあ、自分の目指していたものはなんだ?むしろアレか? 子供向けのTV番組で言うところの〝悪の組織〟ってヤツか?
そんなことをふと考え、薫は苦笑した。
(悪の総帥にでもなれたら、なんて素敵だろう。治安や秩序は、守るよりも壊すほうが簡単だし、スカっとするもんな……)
日本の明日を支える人間にしては不謹慎も甚だしいが、「善人になるよりも悪人になるほうが簡単だ」という昔の言葉に少なからず同意してしまう薫である。
(いいなぁ……悪の総帥なんてのは。トップに立つ人間は、上司からお叱りを受けなくて済むんだもんな……)
そんなことを考えた矢先、まるで意図したかのようにポケットの携帯が鳴った。携帯の小窓を見ると「島崎」の文字……同僚の島崎元からの着信だった。
「もしもし?」
「もしもし~? じゃねーよ! お前、今、どこにいるんだ!?」
「どこって……まだ新宿にいるけど」
「じゃあ、すぐ戻って来い!高杉さんがお前のこと探してるんだよ! ホラ、この前高杉さんが非番の時に、お前他部署の人間とモメただろ?あれで怒ってんだよ、きっと」
(ホラ来た……上司のお叱りが)
薫はセブンスターの煙をため息と共に吐き出す。
島崎はさらにウンザリするようなことを言ってきた。
「高杉さん、最近奥さんから煙草禁止令出たらしくて、余計にイライラしてるぞ。お前、今吸ってるだろ?お前が煙草の臭いプンプンさせて来たら、さらにひどい雷が落ちるかもな」
薫は思わず煙草を地面に落とした。
(何で俺が吸ってるの、分かったんだ? ……刑事のカンか?今の)
尚も島崎は、高杉さんがどれほどおかんむりなのかを面白半分に語りだそうとしたが、それより先に薫は携帯を切った。ついでに電源も切ってしまったので、島崎から嫌な電話はもうかかってこない。
足元の煙草からはもくもくと白煙が立ち込めていた。薫はそれを拾い上げ、口に銜える。
早々に署へ引き返したほうが良いのだろう。良いに決まってる。だけど……せめてこれ一本だけ。
これから高杉さんにどやされるであろう嫌な未来を想像したら、煙草が苦く感じられた。
薫は上着の懐から携帯灰皿を取り出し、吸殻を捨てる。

「……しけた味だ」

今更、煙草の臭いは取れない。

≫その後の薫。