きれた煙草

きれた煙草

ニコチンパッチなぞ、口に苦いだけの毒薬だ。
ガムのように噛むやつも、煙草のように吸うやつも、全部試したが全く効かない。あんなもの、所詮ライト・スモーカー更正のための鎮静剤だ。ちくしょうめ、愛煙歴二十五年のおれを馬鹿にするな。ちくしょうちくしょうちくしょうちくしょう。あー吸いたい吸いたい吸いたい……禁煙してても吸いてぇよぅ……。
これではどうしようもない。高杉正造は思い切ってトイレに直行し、洗面台で顔をばしゃばしゃ洗った。
排水溝から顔を上げて鏡を見ると、そこには当たり前だが水にまみれた自分の顔。四十五過ぎのおっさんの顔は、職業が刑事と言えども、凛々しくも渋くもない。煙草がきれているせいで、心なしかやつれているように見える。正造は大きくため息をついて頬を二回叩いた。
「あー吸いたい……」
自然と口から零れ落ちる言葉。喝を入れた意味がない。


妻の雅子から禁煙宣告を受けて、今日で一週間が経つ。ちょうど七日前の水曜日の朝のことだった。
「煙草課税するんですって」
日本経済に敏感な雅子は、みのもんたのニュースよりもいち早く、その情報をキャッチしていた。その後の展開に胸騒ぎがしつつ、正造は白米を食べる手を止めて聞いてみた。
「いくらに?」
「それが、千円くらい上がるらしいのよ。一箱千円よ、千円」
「そんなに上がるのか!?」
そんなこと聞いてない。ありえないだろ。なんで元の値段から二倍にも三倍にも跳ね上がる。なんで煙草なんだ。説明しろ財務省。
正造は千円の煙草と、現在の自分の小遣いとを算用せずにはいられなかった。煙草が千円に上がったとすると、自分の月々五万ぽっきりの行動費用でどのくらい買えるか。以前と比べて、どのくらい買う量を控えなければならないのか。頭の痛くなる問題だ。
箸の止まった正造を見て、カンの良い妻は夫の考えていることを見抜いたらしい。
「お父さん、お金の計算するより禁煙した方がいいわよ。本当に煙草が千円になったら、あなた国会の良いカモにされちゃうわ」
「えぇ!?」
どのくらい費用を切り詰めるかに執着していて、「禁煙」という方向には目が向いていなかった。もとより、禁煙なんてできそうにない。絶対、死んでも、できない。
しかし、雅子は禁煙という死刑宣告案が滅法気にいったらしい。「そうよ、禁煙しなさいよ」と弾んだ声で繰り返す。
「香苗も大学生になったし悟だって塾で忙しいし、家計、苦しいのよ。これ以上無駄な出費はできないんだから。お父さん、今から禁煙しなさいよ。税金上がる前から準備しておいたほうがいいわ」
「馬鹿言うな! 出来るわきゃねーだろ!」


……怒鳴り声で反論したにもかかわらず、禁煙、させられてしまった。
一家の大黒柱のメンツは、昭和から平成に上がるあたりで既に潰されているのは承知の上だったが、ここまで夫が足蹴にされる世の中になったとは。こんな世の中にしたのは誰だ。これも国会か、ちくしょうめ。
正造はぶつぶつと独り言を呟きながら自分のデスクに戻る。部下たちは敏感に正造の機嫌を察知し、なるべく波風を立てないように自分の仕事に従事する。正造としても、その方がありがたかった。今声をかけられたら、内容がなんであれ怒鳴り散らさずにはいられない。
「すみません警部、遅れました」
しかし、そんな中に必ず空気の読めない人間が一人はいるもので、それは大抵部下の河野薫の役所が多い。つくづく、機転の利かない部下である。
「馬鹿野郎! おま、コノヤローどこ行ってたんだコラ! おれのいねぇ時にくだらねぇいざこざ起こしやがって、謝って済んだら警察はいらねぇんだよ! 馬鹿! 分かってんのか!!」
普段よりパワーが二倍増しの自分の怒鳴り声を聞きながら、しかしその間も正造の心の中では「吸いてぇよー」という間の抜けた声は続いていた。
散々、「自分の非番の時に他の課の人間と喧嘩をした」という中学生のような部下を怒鳴り散らし、正造は舌打ちでその幕を閉めた。
「もういい、戻れ」
正造の開放の声に安堵の一息つくと、河野は一礼して持ち場に戻る。自分の大喝は全く意味をなさなかったんじゃないかと思うほど、河野の足取りは軽かった。最近の若い輩はどこか世間を舐めている。

いらいらしたままお昼が過ぎ、午後が過ぎ、夕方になった。その間勿論煙草は吸っていない。吸えば自分の洋服に煙草の臭いがつき、警察犬よりするどい嗅覚を持つ妻は見逃しはしないだろう。
吸いたい吸いたい、と連呼するより本気で喫煙した方がいいかも知れない。ニコチン・パッチに慣れなければ、いずれ自分は崩壊してしまう。
正造は本気で煙草の持つ依存性の怖さを感じた。
そんなことを考えながら、足を運んだのは、署の喫煙ルームだった。一日に三回、多いときで六、七回活用していたこの場所。無意識に足が運んでしまった、恐怖。
「あ、高杉警部」
名前を呼ばれて正造は声のする方を見る。喫煙ルームの長椅子に腰掛け、煙草をふかしていたのはあの河野薫だった。
「おう」
「あれ? 奥さんから禁煙令が出てたんじゃなかったんですか?」
挨拶より先に、河野はずけずけと今一番癪に障っていることを口に出した。
最近の若い奴らは礼儀よりも好奇心が先に足を出すのか。あまりの非常識さに正造は呆れる。
「なんでお前、それ知ってんだ」
「いや……」
河野は口ごもる。そのついでに持っていた煙草を口に運び、一煙吸った。
禁煙中の上司に喧嘩を売るとは良い度胸じゃねぇか。正造の無言の怒りを感じ取ったのか、河野は慌てて煙草を近くの灰皿に捨てた。
「それよりも警部、禁煙って辛くないですか。俺も一時期禁煙しようかと思ったけれど、三日坊主でしたよ」
話題の変え方がヘタクソな奴だ、と思いつつも正造はあえて問い詰めようとしなかった。大方、自分の禁煙の裏事情を知っていたのは、情報通の島崎が絡んでのことだろう。問い詰めるのであれば、島崎の奴だ。
「禁煙、つれぇに決まってんだろ。おれにとっちゃ空気が吸えねぇのと同じことなんだからよ。だけど、煙草が課税するんだ、そうも言ってらんねぇだろ」
「ああ。なんか三日くらい前に、みのもんたがそんなこと言ってましたね」
おれの女房のほうが、みのさんよりよりも四日、情報早いぜ。正造は何故か少し誇らしい気持ちになった。
「千円だとよ。お前、どう思う?」
この部下は煙草課税という事実をどう捉えているのだろう。多かれ少なかれ、不満に思っているに違いない。些細な好奇心から正造は聞いてみたが、つれない部下は相変わらず表情一つ変えずに肩先を少し動かしただけだった。
「俺が何か言ったところで、国会の動きが変わったりするんすか?」
面白くない奴だ。ちょっとは上司に合わせて不満を吐き出してもいいものを。最近の若い奴らは上辺すら取り繕うことが出来ないのか。
「いいよなぁ、所帯持ってねぇ奴は。女房の愚痴を聞くことも無ければ、自分の好きなように給料使えるんだからよ。どうせお前、税金上がっても平然と自販機で煙草買うんだろ? いいねぇ悠々自適で」
嫌味ったらしい上司の言葉にさずがの河野もカチンときたようだった。懐にしまった先程の煙草を取り出すと、正造に差し向けた。やけに派手なパッケージだ。花柄の紋章のような飾りがツタのように張り巡らされている。
「警部、良かったらこれあげます」
「おれは喫煙してるって言ってんだろ。それにそんな女みたいな煙草吸えるか」
黒と白を基調にした中、上品なピンク色が散らしてある細長い箱。いかにも女性用に装飾されているように見える。
「Noireっていうんですよ警部。女みたいな煙草、じゃなくて女の煙草なんです。だからタールの量もニコチンの量も、他の煙草に比べると控えめで少ないし、灰の匂いよりかメンソールの匂いの方が強い。Noireなら吸ったって、奥さんも気づかないと思うんですけど」

河野は様々な――それこそ五十を超える――種類の煙草を吸い尽くしていることで部署でも有名だ。まるでワインのソムリエのように、毎日違う煙草に口を付けている。二十五年間ハイライト一筋の正造には、理解できない吸い方だったが、それ故Noireなどという女性ものの煙草に詳しいことに納得できた。

「まあ、奥さんの言いつけを守らずにNoireに浮気するかどうかは、警部の自由ですけど」
妙な言い方すんな!
正造が怒鳴るより先に、河野は正造にNoireを渡す。そしてスタスタと喫煙室から出て行ってしまった。
今のは煙草通である河野の、さりげない仕返しなのだろうか。つくづく、食えない部下だ。
手にしたNoireは花柄の煌びやかな装飾を見せ付けながら、喫煙を促していた。なんだか、十年ぶりくらいに、女から誘惑されている気分……。
正造はスラックスの左ポケットをまさぐる。いつもの場所には、捨てるに捨てれなかった百円ライターが十分な量のオイルを揺らしながら眠っていた。
なんて都合の良いシチュエーション。自分の柄に似合わず、「運命」などというくだらない、勘違いも甚だしい衝撃を、感じてしまうではないか。
正造は笑わずにはいられなかった。

「久しぶりに、浮気、しちまうか」