6 夕闇が迫る海の上をアクアバギーが滑る。 「星屑ストア」でアルバイト中のナギから拝借したものだ。「宇宙プラザ」を探し回ってもセツナは見つからなかった。「曼荼羅ガレージ」にもいない。 往復船で居住区へ戻ろうとしたところ、海の上を進む一台の水上自転車を発見した。 乗り手の姿は見えなかったが、自転車はまっすぐに灯台を目指している。 セツナだ、と確信した。 レムレスを離れてしばらく経つと、突然波が荒れ始めた。まるで海の神様が怒り狂っているみたいに。 「ユーク……あなたは、神様なの?」 セツナも同じことを思ったらしい。俺が灯台に着いたとき、セツナは今にも泣きだしそうな顔でユークを見上げていた。豪雨の中、ユークの身体は光り輝いていた。そればかりか、片手が剣のように鋭く変形している。 どうしてあんな芸当ができるんだ? 姿を消したり、宙を飛んだり、俺にはできないぞ。 ……本当に、そうか? 俺たちは同じ夢を見ているんだ。存在条件は同じはずだ。彼女にできて、俺にできないはずがない。何かやり方があるんだ。自分の周りの物を、自在に操る方法が。 ユークが手を振り上げる。 時間がない。同じように手をかざして、俺は叫んだ。 「武器だ! 俺に武器をくれっ!」 瞬間、右手に馴染み深い柄の感覚がした。握りしめ、二人の間に割って入る。光をまとって現れた俺の刀と、ユークの手がかちあった。強度の高い金属のぶつかり合う音が響く。 「あなた、どっちの味方なの?」 ユークは怒っていた。完全に、直情的に、烈火のごとく。 反対に、俺は笑ってやる。 「俺は可愛い子の味方」 「裏切るのね」 「違うよ、二人の味方ってこと」 それは、本心だったのに。 ユークは信じなかった。俺を出し抜くと、セツナを荒れ狂う海の中へ突き飛ばした。 手を伸ばしても届かない。弾ける波音とともに、白い髪が、伸ばされた腕が、細い脚が、花飾りのついたサンダルが、黒い海へと引きずり込まれた。 「セツナぁっ!」 セツナを追って海に潜ると、冷たい水が全身に流れ込んだ。水圧が強い。ぶつかり合う海流に身体が揺り動かされる。真っ暗で何も見えない。 セツナの姿が、見当たらない。 「ユークっ、嵐を止めろっ!」 「セツナは灯台守じゃなかった。騒がれる前に始末しないと……」 「聞こえないのか!? 止めろって言ってんだよ!」 瞬間、水の流れが消えた。 大きく息を吸い込んで再び潜る。不気味なほどに静まり返ったただっ広い無の空間を沈んでゆく彼女がいる。手を掴んで引っ張り上げる。力の抜けた手足。冷え切った身体。血の気の引いた顔。陸に上げてもぴくりとも動かない。 「セツナ! 返事しろっ、セツナっ!」 肩を揺すって、名前を呼んでも返事がない。 セツナは息をしていなかった。 考える間もなく身体が勝手に動いていた。 胸を圧迫して、口に息を吹き込んだ。何度も何度も繰り返した。現実世界の蘇生法が夢の中で通用するか分からない。しかも、既に死んでいる人間に。 それでも、やり続けるしかない。 セツナ、セツナ、セツナ、セツナ! 生き返れ! 彼女の身体が大きく跳ねた。荒く咳き込みながら、大量の水を吐き出した。 呼吸が元に戻った後で、セツナはぼんやりと俺を見た。それからすぐに気を失った。 コートを脱いで冷えた彼女の身体をくるむ。 ぎゅっと抱き締める俺の腕は震えていた。息が詰まった。時間差で身体ごと潰されそうなショックがやってきた。 過去の記憶が――思い出すのも嫌な記憶が――呼び起こされる。静寂、泣き声、におい、音、光、死、闇、無力、絶望……星屑に侵された彼女の死顔。 ぐじゃぐじゃになりかけた思考回路をむりやり遮断する。 「ユーク……」 「な、何よ!」 「セツナを傷つけないでくれ。頼む。二度目は、耐えられそうにない」 「……分かった」 大きく息を吐き出した。すべての感情が消えるのを待って立ち上がる。 ユークはいなくなっていた。 セツナを抱えたまま運転席に乗り込んで、低速でアクアバギーを走らせる。 あの日の思い出がフラッシュバックしそうになるたび、耳を澄まして彼女の呼吸を聞いた。何度も自分に言い聞かせた。 セツナは生きている……あの頃とは違うんだ。 商業区へ戻ると、坂のふもとにネムルが立っていた。びしょ濡れの俺たちを見るや、小さな顔が恐怖にこわばる。 「心配すんな。眠っているだけだ」 身をかがめて、セツナの寝顔を見せてやる。 ネムルは深く息を吐いた。安堵とも疲労ともつかない溜息。大きな目の下にはやつれた皺と寝不足のクマができていた。 「セツナをそっとしておいてくれないか」ネムルは言った。 「幸せな眠りの中で見守ってあげてくれ。渚、これは命令じゃない。友達からのお願いだ」 「……分かったよ」 その瞬間、ネムルを取り巻く緊張の糸が切れた。爪を削がれた猫みたいに、彼女を取り巻いていたどす黒いベールまでもが剥がれ落ちた。 疲れた顔で俺を見上げたのは十六歳の女の子……いや、あの頃よりずっと弱々しい、大人の世界に押し潰された少女だった。 「どうやっても君の存在は消えない」 ネムルは疲れた顔で笑った。 「ユークの力を借りているんだな。二人してこの世界を覆そうという魂胆か。お手上げだよ。ボクには邪魔する手立てがない。せいぜいこの身を挺して、君に蹴りを喰らわすのが関の山さ」 フルパワーで脛を蹴られる。 「……ものすごーく、痛いんだが」 「夢なのに、リアルだろう?」 ネムルは白衣の裾で口元を隠して笑う。 「渚はこの世界が嫌いか?」 「いや……、嫌いじゃない」 「それならずっとここにいればいい」 「そういうわけにもいかないだろ」 「どうして?」 ネムルは首をひねる。 「理由が知りたい。君が現実に固執するのはなぜだ? この世界にはさりゅもいるし、セツナもいるのに、どうして君は帰りたがる?」 「えっ……」 考えたこともなかった。 俺は妹を取り戻しに廃墟レムレスへやってきただけだ。七年前の世界が夢の中にでき上がっていて、さりゅもネムルもその中で生活しているなんて想像すらしていなかった。 ガラスケースに入ったのはネムルを救い出すためだけど……救い出すって、一体何から? ネムルは幸せそうだ。少なくとも、「MARK-S」にいたころより遥かに幸せに違いない。さりゅだって七年前のオレに守られながら生活している。オレはオレで大変そうだが――セツナを失うほどの悲しみはまだ経験していない。 セツナが存在していることで、すべてが丸く収まっている。 そう。この世界にはセツナがいるんだ……。 そのとき、腕の中から呻き声が聞こえた。俺たちは顔を見合わせる。 この状況、どう説明すればいい? ユークは? 灯台は? 嵐の海で溺れたことは? ネムルの行動は素早かった。セツナの上に手をかざして、目を閉じた。 水に濡れた彼女の洋服がみるみるうちに乾いていく。ものの数秒で、海に落ちる前の状態に戻った。同じように俺にも手をかざして水気を飛ばしてくれる。 非現実的なことだらけの世界で、もはや驚かなくなってきたが……。 「お前も魔法が使えるんだな」 「魔法じゃない。明晰夢だ。ボク一人の夢でないため力の及ぶ範囲は狭いが、服を乾かすことくらいはできる」 「明晰夢ってなんだ?」 「そこから始めなきゃいけないのか。じゃあ魔法で良いや、魔法魔法」 ウンザリ顔で、手をひらひら振るネムル。 くっ……。学者風情が、庶民を馬鹿にしやがって。 「さあ、走れ」ネムルが坂道のてっぺんを指差す。 「セツナを連れて宇宙プラザ≠ワで走れ。後はボクがなんとかする」 「なんとかって、どうすんだよ。この状況、ごまかしようがなくないか?」 「いいから走れ。君の取るに足らない才能を生かすときだ。ニンジンぶら下げた馬のように走れ。止まる術を知らないイノシシのように走れ」 「……ひょっとして、俺のこと馬鹿にしてる?」 「馬鹿にしてない。見下してる」 「同じだよ!」 ネムルが笑った。 甲高い少女の声は幸福な音楽のように夏の夜に響いた。 目覚めの気配が漂うセツナを抱え、商業区の坂道をひた走る。 そこには夢も現実もなかった。 俺がいて、セツナがいて、ネムルがいる。 それだけだった。 |