SCENE:10‐2 8時30分 海砦レムレス 管理区 入り口
そっぽを向いた陸太の周りを、さりゅがうろつき回っている。何かを聞き出そうとしているようだ。二人を見つめる海斗の眼差しが優しいので、いつものじゃれあいの延長線上のことだろう。陸太の告白大作戦が成功している様子はない。
……どんな結末になるのかは、まだまだ先の話みたい。
映像が映し出されたノートパソコンから目を離す。しばらく待つと、海の向こうからメモリー・ラビットが戻ってきた。伸ばした人差し指へ、小鳥のように降り立つ。プロペラの耳を閉じるメモリー・ラビット。
「メメ、ありがとう」
声を掛けると、メモリー・ラビットはぴょんぴょん跳ねて、ユークの肩に飛び乗った。
穏やかな潮風が髪を撫でる。
ユークは今、海砦レムレスの入り口に掛かった、アーチ型の門の上にいる。
地上より五メートルほど高い位置にいるだけで、皮膚に当たる風の温度が違う。高い場所へ行けば行くほど、海風は透明度を増して、清らかな冷風に変わる。
肌に染み渡らせるように、ユークは両腕を広げる。
日光浴ってなんて素晴らしいのかしら。一日中、こうして日の光を浴びていたい。
ユークの身体は生まれ変わった。
脳以外のすべての器官を最新式のフィジカル・ヴィークルと交換した。
彼女にとって、それは第二の人生と言えるほどの神秘的な体験だった。目覚めてすぐ感じたのは、体感的な重さの違いだ。重力がなくなってしまったかのように、両手両足がスムーズに動かせる。歩くたび身体が宙に浮いた感覚がして、動作の機微も鋭くなった。
「パーツが新しくなった上に、貰い受けたフィジカル・ヴィークルは戦闘に特化したものだった。身体機能が向上するのは当然の結果だよ」とネムルは言った。
また「新しい身体」は、紫外線に当たっても劣化しない特殊な皮膚で覆われていた。以前のユークは、紫外線防止のフードを被らなければならなかったが、もうその必要はないのだった。
メモリー・ラビットの頭を撫でる。今までよりも敏感に卵形の曲線を感じる。
自分と同じ機械で出来たメメの冷たさや硬さ、フェルトでできた耳の柔らかさを指紋のついた指先が感じとる。
ユークは目を閉じる。
もっとたくさん世界を感じたい。この身体と五感を使って。
小さな欲望が、脳の奥深いところで煌めくのを感じる。
それは、経験したことのない強い想い。
数々の偶然が重なって、この世に生まれ落ちた
誰のためではなく、私のためだけに込めた願い。
この願いは、
ユークは目を開ける。ノートパソコンに、メモリー・ラビットが映した映像がリプレイされている。
金原海斗。
にこにこと笑う彼を眺めながら、ユークは思い出す。
さりゅの家に入る前、ぎゅっと海斗に抱きしめられたときのことを。
あの時間はなんだったのだろう。腕組みして考える。
「海斗は、私のことが好きなのかしら? ……いいえ、あの状況で好意を伝えることなど、普通しないわよね。海斗に限ってTPOを
恐怖が抑えきれなくなったのかしら? ……いいえ、あの後、海斗は冷静に行動していたわ。それもあり得ない。
フィジカル・ヴィークルから逃げ延びた勝利を共有したかった? ……意外と、あり得るわね。スポーツ観戦中に
ユークは考え続ける。メモリー・ラビットも、長い耳を組んで熟考の動作をする。
二人して考え込むこと十分。
「私のこと……好きなのかな」
ぽつりとユークはつぶやいた。
先に上げた三つの選択肢がぱぁんと弾けて、生身の頭脳は真っ白になる。
「私のこと、好きだったら、どうしよう……デートとか、するのかな」
頬に手をあて、ううぅ、とうめくユーク。
メモリー・ラビットも、長い耳をほっぺたに当てて動揺する。
新しいフィジカル・ヴィークルの調子を見るために、今日まで学校をお休みしたが、明日から登校が再開する。海斗とも顔を合わせることになるだろう。自分のことを好きかも知れない人と、どんな挨拶をして、どんな会話を交わせばいいというのか。
どうしよう……、どうしよう……。
「こんなの、ただの空想に過ぎないわ!」
苦悩から醒めたユークは両拳を握りしめる。
「そうよ! あれだけの動作で、私のことを好きだなん……てっ」
そのとき、ずるっ、とお尻がアーチを滑る音まで聞こえた気がした。体を動かしすぎたせいで、バランスを崩したのだ。
真っ逆さまに、地面に向かって落ちてゆく。
嘘……という言葉が思い浮かぶ。
0.5秒にも満たない、転落中に思ったことはそれだけだった。
――どさっ。
「ぐうぅっ……!」
誰かのうめきが聞こえた。自分の身体が、抱きかかえられている。
「ユーク!」
名前を呼ばれて、放心状態から我に帰った。
「おーまーえー……俺がいなかったら、どうするつもりだったんだよ!」
「な、なぎさ……いたっ」
シルバーリングのついた指が、ユークの額にデコピンする。
生まれ変わった鋭利な五感に、今のは痛い。
「なにするのよ! 痛いじゃない!」
「あのまま落ちていたら、もっと痛いことになってただろ。
「くっ……」
「デコピンされること」と「高いところに登らないこと」の関連性はないはずなのに、なぜか言い返せない。親に叱られた時、小さな子供はこんな気持ちになるのだろうか。せめてもの反抗に、むくっとした膨れツラを作ると、ユークは立ち上がる。
それから両目を交互に抑えて、視力の具合を確かめた。
「目がおかしい」
「えっ、また故障か?」
「むしろ、今まで以上に世界が美しく見える」
「へぇ、それなら良かったじゃないか」
渚がにっこり微笑んだ。
その顔が、ひときわ眩しく輝く。
キラキラしていて、底抜けに明るい、非現実の色。
ユークは渚を凝視する。
嘘、でしょう?
「そんなのって、ないわ……」
「なんだ? 今度はどうした?」
「た、大したことじゃ……」
「お前の顔、かなり赤いぞ。怪我の次は病気か?」
心配そうにユークの顔を覗き込む渚。両手でユークの頬に触れると、「熱い」とつぶやく。
「フィジカル・ヴィークルも風邪引くのか? まあ、夏風邪はバカが引……」
「わっ、私に気安く触るな! このヘンタイ探偵っ!」
「うわっ、急に暴れ始めた。なんなんだよ。反抗期か?」
「そうよ! ただの反抗期っ! だから私に近寄よるなっ!」
新たに身についた身体能力で、二三歩後ろへ飛び退る。ごしごしと両手で頬をこすりながらユークは言った。
「……ところで、貴方は何をしに来たの?」
「おお、そうだった!」
渚は思い出したように、持っていた鞄の中からDVDのケースを取りだす。
「システマティック・ウォー ファイナルシーズン」と書かれたタイトルと、リリー・タイガーのベストショット。
リリーの片手にマシンガンがついており、
表紙を見ただけで、地球の存亡をかけた戦いが繰り広げられる内容だと分かる。
「徹夜で見ちゃってさ」と語る渚の目には紫色のクマが出来ていた。
嫌な予感を覚えつつ、ユークは尋ねる。
「システマティック・ウォーって、学園恋愛ものじゃなかった?」
「違うんだなーこれが!」
ちっちっち、と指を振る渚。
「確かに第一シーズンは、眠くなる恋愛ドラマだが、第二シーズンからは超ぶっ飛んだSFアクション大作に変わる。リリー
とんでもない内容を熱く語る渚に、いつかのデジャヴをユークは感じる。
彼もまた、怪物の特殊メイクと爆発シーンが大好物に違いない。
「ファイナルシーズンは、ぜひとも曼荼羅ガレージのでかいスクリーンで
いそいそと「曼荼羅ガレージ」へ続く坂道を上る渚。
振り返り様、「早く来いよ!」と手招きする。
彼の中では、ユークも一緒に鑑賞することになっているようだ。
「私は人の心の闇を描いた、猟奇殺人犯が出てくる映画しか見ないのだけれど……」
はあ、と溜息を吐きながら、ユークは渚の元へ向かう。