SCENE:8‐4 16時20分 汐生町 水上邸
これは、抱擁だ。
その答えに行き着いた途端、ユークの身体は硬直した。もちろんフィジカル・ヴィーグルの不具合でない。様々な事件の上に新たな事件が積み上げられてしまったのだ。それも、かなりの難事件だ。
なんとか心を落ち着かせようと、震える唇から息を吐き出した。それでも、頭の中では「なぜ?」という疑問が渦を巻いている。
なぜ、海斗は私を抱きしめているの?
腕の力が緩んで、ようやくユークは解放された。
恐々と海斗を仰ぐと、彼はいつものように穏やかな笑みを浮かべていた。両腕で、さっと身体を抱き上げられる。優しいけれど、実務的な仕草だった。胸の鼓動は、彼が浮かべる微笑みに合わせて緩やかに脈打っている。
先ほどの間は、気のせいだったのだろうか? 抱き上げる前の動作が、たまたま抱擁に見えてしまっただけ?
それにしては力がこもっていたような……。
ぼんやりと物思いにふけっていたユークは、名前を呼ばれて我に帰った。海斗を見上げると、彼は険しい表情で屋敷の奥を見つめていた。二人が立っている石畳の果てには荘厳な扉があり、街一番の巨大な館が夕闇を背後にそびえている。水上家のお屋敷は、まるで
「ひとつ提案なんだけど」
「何かしら?」
「さりゅの家から助けを呼ぶことができないかな」
ユークは水上家の内部を思い出す。二階にある書斎に、電話機が設置されていたはずだ。衛星電話じゃないのでレムレスには届かないが、陸太か渚の携帯電話には繋がる。アクアバギーの乗り手である二人のうちのどちらかに現状を伝えることができれば、ネムルを連れてきてもらえるだろう。
ユークはごくりと喉を鳴らす。
問題は、この家に張り巡らされたトラップをどう潜り抜けるかだ。
背後のフィジカル・ヴィークルを見ても分かるように、一度でも罠に引っ掛かれば、身体を拘束されてしまう。その間に酸素供給システムが停止すれば、間違いなく死に至る。ここで助けを待つことも出来るが、いつ水上兄妹が帰宅するか分からない。
海斗も同じことを考えていたらしい。深刻な顔でユークを見つめる。「無謀な提案だったね」と沈んだ言葉尻に被せるように、ユークは言った。
「行きましょう」
「どんな罠が潜んでいるか分からないんだよ。庭園はともかく、屋敷内に仕掛けられたトラップを僕は知らない」
「心配いらない」
ユークはこめかみをトントンと叩く。
「私はこのお屋敷に住んでいたときのことを〝覚えて〟いるから」
「でも、君が暮らしていたときと罠の配置が変わっていたら?」
「そうね。この家のセキュリティを考えたら、罠が変化している可能性は高い……でも、私が〝覚えて〟いるのは、そっちじゃないの」
「罠じゃない?」
「そうよ」
ユークは微笑みを浮かべる。そして人差し指を突き立てると、銀色の髪の先をくるくると絡める。どこかで目にしたことのある仕草だ。
海斗は閃いたように目を見開く。
その通り、とユークは言った。
「私はさりゅの癖を〝覚えて〟いる。彼女こそ、この屋敷に囚われない唯一のイレギュラー。私の瞬間記憶能力で、さりゅになりすますのよ」
ユークを抱え直すと、海斗は遠慮がちに第一歩を踏み出した。
先日、りんご料理の
広い庭園を抜けると、焦げ茶色のオーク材でできた重厚な玄関扉に迎えられた。ドアの前にはライオンの頭部を模したドアノッカーがついている。
ユークの合図に従って、海斗は扉の一歩手前で足を止めた。見て、と彼女は床を指差す。どうしたことか、石造りの床の真ん中に四角い切れ込みのようなものが入っている。四角く空いた穴の上に、あとから石を嵌め込んだみたいだ。
……落とし穴。
しかし先日は、何事もなく通過できたはずだ。
「その石の上に私を寝かせて。さりゅと同じくらいの体重の人間が乗っても落ちないわ」
「本当に?」
「私の記憶が正しければね。海斗は石を踏まないように気をつけながら、ノッカーを二回叩いてくれる?」
「二回で良いんだね?」
「ええ。ゆっくり叩いて」
言われるがまま、海斗はゆっくりと二回叩く。すぐさま、ユークが穴の中へ落ちそうになった場合に備えて身構えた。
大丈夫。ユークの声と同時に、扉は軽やかに開いた。重厚なのは、見せかけに過ぎないのかも知れない。
体重に注意しながらユークを抱き上げて室内へ入る。
どんな仕組みでできているのか、壁際に備えつけられたランプが次々と点灯してゆく。照らし出された大理石が炎の照り返しできらりと光った。
玄関前のホールは上階へ続く
前回は観察する余裕がなかったが、改めて屋敷を見回すと、その広さ・大きさに途方に暮れる。
「二人暮らしにはもったいないね」
「だからといって、生命を粗末にしてはいけないわ」
「それもそうだね」
玄関扉からホールへ続く道はゆるやかな階段になっていった。ユークに指示された通り、階段の右端を選んで下る。
下り切ったところへ、
「身をかがめて!」
慌てたユークの指示が飛ぶ。さっと腰を折ると、その上を振り子の鉄球が通った。普段通りに歩いていたら、身体中の骨が粉々になっているところだ。
「さりゅはこの階段を降りたあと、ちょっとだけ前傾姿勢になるの」安堵の息とともに、ユークは言った。
細かすぎる癖までインプットされた、完全無欠のセキュリティー。海斗の頬に汗が滴る。
「さりゅは一度も罠に掛かったことがないのかい?」
「私が見た限りでは一度も。罠の存在にさえ、気づいていないことが多いわ」
ここまで来ると、罠がすごいのかさりゅがすごいのか分からなくなってくる。
書斎へ向かうべく、螺旋階段を上がってゆく。ここでも壁際のランプに次々と火が灯った。
二階はUの字を描くように二本の廊下が続いていた。同じ作りのドアがどちらにも等間隔で設置されており、一番奥で二つの廊下がカーブを描いて合流する。螺旋階段のある中央部は吹き抜けになっており、左右の廊下のてすりから、階下が見下ろせる。
その上を歩くのがもったいないくらい豪奢なペルシャ織の絨毯に立つ。左右の廊下は鏡に写したように完璧なシンメトリーになっている。
「書斎は一番奥の部屋。ちなみに、ここに並んだドアのどれかが渚の部屋とさりゅの部屋に繋がっている。私とネムルさんが居候をしていたときも、部屋のどれかを使わせてもらっていたけれど、それは過酷な生活だったわ」
「どの部屋を使っていたのか覚えていないの?」
「覚えていない。部屋の中身はランダムで入れ替わっていて、覚えられないようになっているの」
セキュリティーを通り越してもはやSFだ。海斗の心を読み取ったかのように、「次元のねじれではなく、ただのカラクリよ」とユークは付け足した。
「さあ、この場所も罠がいっぱい。気を引き締めて進みましょう」
さりゅは、廊下の右側を歩いていたらしい。細心の注意を払いながら、同じ方向を歩く。歩幅や足の重心の掛け方なども、あらかじめユークから指示されていた。まるでダンスのレッスンだ。しかし、細かな指示が功を奏したのか、廊下を渡っている間、罠に遭遇することはなかった。書斎の扉の前に立つと、海斗はほっと息をついた。
「さて、ここからはどう動けば良いのかな」
書斎の扉は天辺がアーチ型にカーブした、観音開きになっていた。四隅に花の彫り物が施されており、真鍮製のドアハンドルも同じ飾りがついている。つい手を伸ばしたくなるほど美しい
「触っちゃダメよ」案の定、ユークはぴしゃりと制した。
「まずは貴方の目の高さより十センチほど下の部分を軽く叩いて。ノックするみたいに」
「この辺かな?」
「そう、その辺り」
とんとん、と乾いた木の音が響く。すると、小刻みに地面が揺れ始めた。扉の向こうで床板の軋む音がする。それ以外にも、物を引きずるような音、何かが壁にぶつかる音など様々だ。かなりくぐもって聞こえるので、扉には防音措置が施されているのだろう。直接耳にすると、かなりの轟音に違いない。地響きは小さな地震程度に、二階全体をゆらゆらと揺らす。体勢を崩すほどではないが、不安になる揺れ方だ。
「扉の向こうで、何が起こっているのか分かる?」
ええ、とユークは頷いた。
「書斎が作られているのよ」
「作られている?」
「そうよ。ページを開くと、挿絵が立体的に飛び出してくる絵本があるでしょう? 仕組みはあの本と同じ。普段の書斎は細かく畳まれて収納されているの。正しい位置をノックしたときだけ、床が広がって、どこに出しても恥ずかしくない完璧な書斎が出来上がるってわけ」
海斗は耳を澄ませる。今もなお部屋の騒音と地響きは続いている。
「人間の技術でそんなことができるのかい?」
「人間の技術でしか、そんなことはできないわよ」
「量子レベルで分解されていた書斎が、再物質化されているわけじゃないんだね?」
「量子分解ではなく、ただの収納術。精密に計算された職人技よ」
海斗は微かに首を振った。
「参ったな」
物音がしなくなった。
海斗はユークをそっと地面に下ろし(これもユークが指示してきたことだ)、身をかがめて両開きのドアを開け広げた。
予想していた通り、前方から放たれた鉄球が頭上を通過し、背後の壁に開いた穴へ吸い込まれていく。小さな罠にいちいち驚かなくなったのは、良いことなのか悪いことなのか分からない。
顔を上げて、部屋の中を見渡す。現れたのは壁一面が本棚になっている、立派な「書斎」だ。たった今出来上がったばかりとは思えないくらい歴史的な威厳を漂わせている。年季の入った家具を順々に見ていくと、回転式ダイアルがついたアンティークな電話機に行き当たった。扉を背にして左側。マホガニーの書物机の上にちょこんと乗っている。
「書斎の床は見せかけに過ぎない。大きな穴の上に、横幅の狭い通路が嵌め込んであると思ってくれていい。必ず重心を掛ける前に爪先で地面を探ってね」
ユークを抱えて書斎を歩く途中、海斗は一度だけ足を踏み外しかけた。フローリングに見えていた床の一部分がくるりと回転し、底なしの暗闇が顔を覗かせたのだ。慌てて体勢を立て直したものの、風に吹かれた風見鶏のように床板はしばらく回転していた。
「渚さんもよくこんなところで生活できるな。普通の人間ならとっくの昔に死んでいるよ」
書物机のそばに腰を下ろし、海斗はほっと息をつく。
「そうならないために、ナビゲートしてくれる人間がいたのよ」ユークが言った。
「貴方にとっての私みたいに」
「この家の前住者だね」
「そうよ。今は遠くにいるみたいだけれど」
「どんな人なんだろう」
「私も、とても気になっているところ……」
ユークは眠たげなあくびをすると、海斗の胸にもたれかかった。
「脳に、送られる、酸素が、薄くなってきている……」
小さな声でつぶやいたあと、気合を入れ直すように目を見開く。眠気を振り払うユークを見て、プログラミングで動く人形の機械と女の子の頭脳を乗せた機械の違いを海斗は実感した。
「急ごう」
ユークを抱いて、立ち上がる。
机の上に乗っかった、電話機に向けて手を伸ばす。
指先が、枝のような取手の受話器に触れた……そのとき、
「ダメ!」
ユークが叫んだ。
身をよじって腕の中から抜け出すと、机の上に転がり落ちる。
受話器を握ったままの海斗の手に彼女の身体が覆いかぶさる。
天井に穴が開く。
巨大な雨粒のように、いくつもの鉄球が落ちてきた。