SCENE:5‐2 14時40分 汐生町 繁華街
からだ、とユークは思った。
わたしのからだ。
突然の事態にきちんと頭が働かない。一旦、頭を真っ白にして、再び自分へ意識を向ける。
思っていることを、漢字に変換してみる。
私の、身体。
動かない。
もちろん、実際に漢字変換したわけではなく、あくまで感覚的なものだ。感覚的なシフト作業。
大丈夫、とユークは思う。動かないのは作り物の肉体だけで、思考回路はきちんと作動している。私自身がおかしくなったわけじゃない。
目の前では陸太がおろおろしている。名前を呼んでいるようだが、聴覚に繋がるコードの接続がおかしいのか、くぐもっている。
陸太の顔は視界の上の方にある。つまり、こちらを覗き込んでいるような態勢だ。後頭部に太ももの筋肉の動きを感じるので、どうやら
あるいは、もたれていた身体がたまたま彼の膝の上へ倒れてしまったのか。
どちらにしても、嫌だ。
陸太に膝枕をされている状態は、嫌だ。
身体よ、動け。
脳からの指令だ。動け。
……ダメだ。
漠然と命じているのがいけないのだろうか。目的意識を持って、命令を下した方が良いのかも。
ユークは陸太の顔を引っぱたくため、右手を動かすことに意識を集中させる。
右腕よ、動け。
右手よ、動きなさい。
右手の人差し指よ、動いてください。
右手の人差し指の第一関節様、どうかお動きになってください。
身をよじりながら、動け動け動け動け動け動け動け――――っ! と脳みそをじたばたさせてみる。もちろん、身体は石のように固まったまま動かない。
こんなこと、今までになかった。疲労感よりも、絶望感に打ちひしがれて、しばらくの間、何も考えられなかった。
ただ、脳と繋がり続けている頭部の五感を感じながら、ぼんやりと陸太の顔を見上げた。
陸太はユークの名前を呼び続け、ある時点で何かに気づいたようだ。
さっと血の気が失せた顔で、
「ユークが、死んだ……」
震え声でつぶやいた。
「ユークが、死……」
「愚かっ!」
「わあっ!」
「なんで私が死ななきゃいけないのよ!」
「ご、ごめん……」
ふぅ、とユークは溜息を吐く。なんだ、喋ることは出来るのか。
陸太の手を借り、ベンチに座らせてもらう。
バランスを保てず、ぐらりとよろける身体を陸太は慌てて支える。
「どういうことだよ、ユーク……」
「私にも分からない。ひとまず携帯電話で海斗を呼んで」
電話をかけた五分後、通りの向こうから海斗が駆けてきた。その後ろには、レムレスで留守番をしているはずのネムルの姿がある。
ネムルはユークの手をぎゅっと握ったが、感覚を失った脳には何の感触も届かない。
ささやかなショックを胸のうちに隠して、ユークは言った。
「ネムルさん、どうして街にいるんですか?」
「ボクのことはどうでもいい……それより海斗の電話で話を聞いた。海砦に帰ろう、ユーク」
「僕につかまって」
と、海斗が手を差し伸べるより先に、渚がユークを抱き上げる。
よいしょ、と軽くジャンプして態勢を整えると、明朗に笑った。
「ははは、すげぇ重いな。ひょっとして着痩せするタイプか?」
「なっ……! あ、あなた、この状況で、言うことなの!?」
「この状況だから言えるんだよ。お前、手も足も出ないんだろ?」
うっ……、とユークは言葉に詰まる。せめてもの救いは、口の中が動き、思い切り歯噛みが出来ることくらいだ。
「海砦に戻ったら、覚えていなさい!」
震え声で言い捨てると、ユークは青筋を浮かべたまま目を閉じる。
渚とネムルは互いの顔を見合わせ、短く頷いた。
「そういうわけで、俺たちは海砦に戻る。海斗とチビ猿も家に帰れ」
「誰がチビ猿だっ! バカ渚!」
ムキーっと怒り狂う陸太を背後に追いやって、海斗は口を開く。
「僕たちも海砦に行きます」
「来なくて良い。あとは俺たちでなんとかする」
「僕はユークが心配なんです」
「心配なら家でしな。行くぞ、ネムル」
渚の後に続いて、ネムルも歩き出す。しかし、数秒の逡巡ののち、再び海斗の元へ戻ってきた。
「仕事を頼まれてくれるかな?」
腕に持っていたノートパソコンを掲げる。
「とても重い」
海斗は無言でうなずくと、ネムルの手からノートPCを受け取った。
連れ立って道を歩きながら、ネムルは聞いた。
「君たち三人、何をしていたんだ?」
「オレ! オレのデートの予行演習!」
海斗の隣で、得意げに陸太が手を挙げる。
「オレ、さりゅに告白するんだ。さりゅをたくさん笑わせて、オレも毎日を楽しく過ごす!」
「今も十分楽しそうだが、さらなる高みを目指すのだな」
「そういうこと! ネムル博士も、オレの恋路を応援してくれるか?」
「うん。尽力したまえ」
おう! と答えて、陸太は、にっと笑う。
反面、海斗はいつもの笑みを消し、真剣に何かを思案している。
ネムルは、彼の横顔をちらと見ただけで、何も言わなかった。
揺れる視界をぼんやり眺めていたユークは、ふと気がついて目を動かした。
背後を見やると、後方を歩くネムルたちがどんどん引き離されている。渚の歩調が速いせいだ。
横抱きにユークを抱えて歩く渚は、そのことに気づかない。
小さく鼻歌を歌いながら、さくさくと先へ進んでいく。
「何を焦っているの?」ユークは尋ねた。
「あなたがいつもより早足なのは、何かに焦っている証拠。あと鼻歌。機嫌が良いときは邦楽、余裕のないときは洋楽を歌う……面白い癖よね」
歩調が緩んで、視界の揺れが弱くなる。何重にもブレて見えた渚の目がユークに向いた。
「つくづく思うね。お前が敵じゃなくて良かった」
「ねぇ、私の身体、どうなっているの?」
「さあな。俺は機械のことは門外漢だ」
「確かにそうね。でも、貴方の癖は語っている――私の身体、危険な状態なんでしょう?」
「危険といえば、危険かな。でも、危険じゃないものなんてこの世にあるのか? 例えば海砦レムレス。あの場所は要塞で、火をつければ機密情報が飛び散る情報の火薬庫だ。俺の家も罠だらけで危険がいっぱい。謎の女・リリーちゃんも危険だし、ネムルもチビ猿も金原海斗も、ある意味では危険な存在だ。果たしてこの世に、安全地帯はあるのかどうか……」
「そんな逃げ
ユークは小さく溜息を吐く。
「もう一つ、あなたの癖を教えてあげる……それは、頭の回転の速さを、出さなくて良いときに出すことよ」
「それって悪いことなのか?」
「ほとんど致命的なくらいよ」