SCENE:3‐6 22時40分 ホテルの一室
力いっぱい背中を押される。前のめりに倒れ込み、膝を擦りむく。ひりつく熱、冷たい痛み。掌に食い込んだ砂利を払うと、血が滲んでいた。膝小僧にも丸い血がつぶつぶと浮かび上がっている。
泣いちゃいけない、泣くもんか。
そう思っても、涙が勝手に溢れてくる。悔しさに歪んだ唇に、しょっぱい味が流れ込む。
助けて、おにいちゃん……。
心の中でつぶやきながら、幼いさりゅは膝を抱える。頭上から、きゃっきゃっと甲高い子供の声が聞こえてくる。
――おい、砦っ子!
――あんたがいると、病気がうつる!
――学校に来んな。メーワクなんだよ!
髪の毛を引っ張られ、服を掴まれる。悪魔の笑いはますます高く、大きくなる。抵抗する気力もなくなり、心まで失いかけたそのとき、いじめっ子の輪をかき分けて男の子がやってきた。
うがあぁっ! と雄叫びを上げて、さりゅにまとわりついていた男の子や女の子を次々に引き離してゆく。
さりゅは涙をぬぐって、その子を見上げた。
細くて小さい背中は、ぜいぜいと荒い呼吸を繰り返して大きく揺れていた。
「ここは、ぼくに任せて!」とその子は言った。
「君は早くおうちに帰りなよ」
ハッとさりゅは息を呑んだ。見開いた目に、天井のライトがうつる。まばゆいオレンジ色の光。その隣には、シーリングファン。ゆるい速度で回転している。
情緒的な色彩のせいだろうか、来たことのない部屋なのにどこか懐かしい感じがする。
否、懐かしく感じるのは、さっきまで昔の夢を見ていたからか。
さりゅは上体を起こした。ぐっすり眠った感覚はあるのに身体が重い。
ぼんやりする頭に手を添えながら部屋を出ると、リビングにリリーの姿が見えた。繊細な手つきでページをめくり、一心に本を読んでいる。
全身を取り巻く太陽のオーラはなりを潜め、普段の振る舞いからは想像もつかない
ドラマの登場人物でもない、ファンに手を振る女優でもない、彼女が彼女だけに見せる真実の姿……。
見てはいけないものを見てしまった気がして、さりゅは少しだけ身を引いた。
そのときの、わずかな空気の揺らぎが伝わったらしい。
リリーはすぐさま顔を上げた。そして、恥ずかしがり屋の女の子みたいに、はにかんだ。
この瞬間を見られたことが誤算だったことを、
「グッモーニン、サユリ。隣に座りまセンカ?」
さりゅがソファに座ると、リリーは分厚いハードカバーを机に置く。
「きれいな表紙の本ですね。小説ですか?」
さりゅが興味を惹かれたのを見て、リリーは本を渡してくれる。
そうっと表紙を開く。装丁こそ美しい本だが、紙質は古めかしい。色褪せたページの端からいくつもの
何度も再読し、一文一文を丹念に読み込んだ痕跡がうかがえる。
英語は読めないけれど、リリーがどれほどこの本を大切にして、丁寧に読み返してきたかは分かる。
「リリーさんはやっぱり優しい。そうじゃなきゃ、一冊の本をここまで大事にできないもの」
「ありがとう、サユリ。でも、ワタシは決して優しい人間ではないのデス」
リリーは微笑む。その顔は悲しげだ。
「本を大切にしていたのは、それしか娯楽がなかったから。一冊の本を読みこんでいたのは、それしか本がなかったから。
ワタシは紛争地域に生まれ育ちました。毎日、身近な誰かが死にました。幼いワタシは家族を失い、ひとりぼっちになりました。パパに拾われなければ、大人になる前に死んでいたしょう。
この本は、ワタシが故郷から持ち帰った宝物。たった一つの思い出の品なのです」
突然の激白にさりゅは戸惑う。どんな言葉を掛けるべきか悩む。
その間も、リリーの独白は止まらない。
「パパはワタシを大切に育ててくれました。好きなことを好きなだけやらせてくれて、だからワタシは女優になることができた。
今度はワタシが恩返しをする番です。ワタシの愛するパパのために、パパの愛する祖国のために、ワタシはどんなことでもします。
それが、ワタシの使命だから」
「リリーさん……わたし、あなたになんて言えばいいのか分からない」
真っ直ぐなリリーの瞳に見つめられ、目をそらすことが出来ない。彼女の壮絶な過去を思うと、力になってあげたいが、自分を見つめる厳しい瞳はいかなる情けも受け入れそうにない。
そんな彼女が、過去を明かすのは何故だろう。
わたしに心を開いてくれているわけではないなら、今の言葉は「宣言」みたいなものだろうか。
だとしたら、何に向かって……?
様々な考えが頭を巡って、パンクしそうになる。
悩ましげなさりゅを見ていたリリーは、やがてクスクスと笑いだした。
「……そんなストーリーの本デス」
「……へ?」
「いわゆる、戦争モノデスネ」
「今のって、リリーさんの身の上話じゃないの?」
「英語の読めないサユリに、分かりやすく本のあらすじを説明してあげたまでデス。ワタシのビブリオトーク、いかがでしたカ?」
「ひ、人が悪いですっ! リリーさんの半生だと思って、すごく心配したのに! 面白そうな小説だけども!」
半泣きになりながら、もー! もー! と怒るさりゅを見て、リリーはクスクスと笑い続ける。
机の上の本は、いつの間にか、さりゅの知らない場所へしまわれていた。