SCENE:2‐1 18時55分 汐生町 水上邸
汐生町を一望できる小高い丘の上に水上邸はある。
雑多な海岸付近とは違い、そのエリアが上品な静けさに満ちているのは、広大な土地に対して住人が少ないからだ。
坂道を上ると西洋風の洒落た家々が見え始め、奥へ進むに連れ庭の広さと家の大きさは増してゆく。
その
「お見苦しい我が家ですが……」
「社交辞令にもほどがあるぞ」
冷静なツッコミを入れつつも、陸太の目はあちこちへ忙しなく動いている。
「さりゅがこんなに大きな家に住んでいたなんて知らなかったよ。これは、バラかな」
生け垣に触れようとした海斗を慌ててさりゅが止める。
「海くん、待って。この生け垣は、触れるとちょっと危ないの」
「トゲが刺さるってこと?」
「ううん。そういう意味じゃなくて……」
「何か特別な理由があるんだね。それなら陸太にも言っておかないと」
「りっくんも気をつけて……って、あれ? りっくん?」
さりゅは辺りを見回す。好奇心に輝いていた金色の瞳の少年は、
さりゅの後ろには海斗が、海斗の後ろではユークが肩をすくめ、彼女に抱かれたトカゲは黒い瞳を潤わせて虚空を見上げている。
次々と人がいなくなるホラー映画の主人公はこんな気持なのかな、とさりゅは
重い足を動かして、なんとか玄関扉へたどりつくと、いつものように独特な回数のノックをして、扉の
その間、玄関の端に取り付けられた、顔認証つきの監視カメラが、来訪者の顔を照合する。
このカメラはネムルの発明品だ。
以前は対象以外の人物を発見するとビーム攻撃を仕掛けるように設定されていたが、近年改良されて、世界中の犯罪者リストを参照する高度な識別機能が追加された。
「僕たちを家に招くのを
「でも、それだけじゃないはずよ」とユーク。
「最初のうち、陸太と海斗は、頭数に入っていなかったもの。私はこの家の機能を知っているし、もう慣れたわ。その上でさりゅが躊躇う理由を推測するなら……」
「……この香りかな?」
海斗が言い終わるや否や、重い音を立てて扉が開いた。
途端、むせ返るようなりんごの香りが、熱を
疲れた顔で扉にもたれると、その男――
「地獄へようこそ」
アップルパイ、アップルケーキ、アップルジャムにコンポート、シャーベット、アイスクリーム、りんごサラダ、りんご飴、焼きりんご、うさぎりんごの上にすりおろしたりんごソースがかかっている。
英国風のグレート・ホールにぴったりの古いダイニングテーブルの上に年代物の銀食器が美しく並べられている。さらにその上にありとあらゆるりんご料理が乗っている。ワイングラスに注がれているのは、もちろん果汁百%のりんごジュースだ。
「さあ好きなだけ食え。ちなみに俺は食わない」
ふんぞり返るように席へ腰掛けると、渚は足を組み、腕を組む。
にっこり笑って、
「もうたくさんだ」
向かいの席では、庭先のトラップから救出された陸太が服についた砂を払い、それをさりゅも手伝ってあげている。
庭園の石像に触れ、飛び出したロープに逆さ吊りにされた陸太を助け出したのは数分前のこと(救出に繰り出した渚は「猿は木の上にいるもんだし、このままでいいんじゃないか?」と言って陸太を怒らせた)。
「セキュリティ」という名目で、この家には他にもありとあらゆる仕掛けが施されている。
現在解除されているのは、エントランスとこの食堂だけで、安全地帯を一歩抜ければ庭園よりも無残な罠の
そんな説明を聞いた陸太は、珍しく目眩に襲われた。これは逆さ吊りにされていたせいではない。
「おいこら、ちゃんと説明しろよ」
「うん?」
「うん? じゃねぇ。バカ渚、あのトラップはなんだ? なんであんなものが庭先にある? それから、このりんごだらけの料理はなんなんだよ。どこから突っ込んで良いのか分かんねぇよ、もう!」
陸太は苛立ち紛れに貧乏ゆすりをする。それだけでは収まらないのか、手近なりんご料理を手当たり次第に口に詰め込み、りんごジュースで流し込んだ。上手く料理されているが、こうもりんごだらけだと胸焼けしてくる。
「俺が仕掛けた罠じゃないぜ」と渚。
「この家、さりゅたちが暮らす前からこうなっていたみたいよ。私とネムルさんは泊まったこともあるけれど、それは大変な目に遭ったわね」
陸太の向かいの席ではユークがトカゲにりんごを食べさせている。
無表情のままモリモリ食べるトカゲを見て、
「レムレスにいた他のトカゲたちも、ここへ連れてくるべきだったわ」と独りごちる。
「前住者はよほど変わった人だったんですね」ユークの隣席で海斗もしゃくしゃくとりんごを
「僕、このシャーベット好きだなあ。あとでレシピを教えてください」
「草介さん、ちょっと変わった人だったけど、優しかったよ」アップルパイを取り分けながら、さりゅは頷く。
「罠に引っかからないように、わたしの行動に合わせて仕様を変えてくれたりして。ね、お兄ちゃん?」
「まあ、さりゅには優しかったな。俺は何度か殺されかけたが、さりゅが元気に育ってくれたからオールオッケーだ」
渚が自分に取り分けられたアップルパイをユークに回す。
「ユーク、お前も食べろよ。俺がりんご
「私、食事は苦手なの。知ってるでしょ」
アップルパイを細かく切ると、ユークはトカゲの餌にする。
「それに、どうしてこんなにりんごがあるか聞いてないわ」
「これも草介さんなの」とさりゅは言い、一通のはがきを差し出した。
そこにはりんご畑にぽつんと佇む一人の男が写っていた。
ピントがぼけて顔はよく見えないが、服装はTシャツにジーンズ、頭に茶色いテンガロン・ハットをかぶっている。
細身でなで肩。両手で嬉しそうにピースをする姿は、まるで貧乏旅行中の大学生みたいだ。
彼の名は、ユークもちらと耳にしていた。
一年前、とある事情からこの家に厄介になっていたとき、たびたびその名前が出てきたのだ。
この館の主であり、「ベイサイド探偵事務所」の最高責任者であり、レムレスを出た水上兄妹の親代わりをしていた男。
軍刀の使い手で、レムレスより沖にある海軍基地とも繋がりがあるらしい。
レムレスに暮らし始めて何かと軍との関わりが多くなった今日、ユークはその男の情報を
「そいつがりんごの送り主なのか?」
陸太が尋ねる。フォークに刺したウサギりんごをくるくる回しているところを見ると、料理には飽き飽きしたらしい。食べ物で遊んじゃダメだよ、と海斗にたしなめられ、しぶしぶりんごを口に運ぶ。
「草介さん、今、世界放浪中で、色んな国のお土産を送ってくれるの……百キロ単位で」
「百キロ……じゃあ、まだこの他にもたくさんあるのか?」
「厨房の冷蔵庫に、二百個くらい」
ぶっ、と食べていたりんごを吹き出し、陸太は盛大に咳き込む。
「りっくん、大丈夫? りんごジュース飲む?」
「げほっ、げほっ……こ、この状況でりんごジュースをすすめてくるな! 水だよ、水……いや、りんごの味がしないものならなんでもいい!」
「待ってて。すぐ取ってくるから」
「それなら私も行くわ。このトカゲが夜を越せるところを探さなくちゃいけないから」とユーク。
二人は手を取り合い、用心深く辺りを見回しながら外へ出た。