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 ――五日前――

 自己暗示が解除された。
 本来の人格と記憶が戻ってくる。
 慣れたものだ。驚きを感じるまもなく、本来の自分に立ち返った。
 目の前には、木造りの小さな家。
 玄関先には、手入れされた花壇に色とりどりの花が咲いている。写真で見た通りの風景だ。
 この家を目にした瞬間、自己暗示が解けるようにヨンは細工をしておいた。
 夢見がちな女子高校生から本来の姿に戻ったヨンは、高く掲げた指を鳴らす。
 パチン!
 素敵なログハウスだね。この先に、ヨンの通いたい美術学校があるんだよね。ここは、先生のご自宅なのかな? ……などと見当違いの予測を立てていた、コンの動きが止まる。
 「天真爛漫」を貼り付けたような、好奇心でいっぱいのコンの笑顔は消え失せる。入れ替わりに現れたのは、ロボットのポーカーフェイス。
 彼女を背後に従えて、ヨンはてくてくと歩き出す。
 手描きの野草のペイントが施された、牧歌的な入り口の木戸。小さな階段の脇には、色とりどりの花が鉢に入って並べられていた。
 絵本に描かれるような、可愛らしい一軒家。その背後にそびえる、無機質な長方形の研究施設は、粗雑に切りはりしたコラージュ作品に見える。両施設とも、持ち主は同じなのだが。
 しわがれた手で、ドアをノックする。
 「はい」と返事をしたのは男だ。それもかなり図太い声。
 ヨンは、日本の空港で出会ったシドという大男を思い出した。声質が似ているので、扉の向こうの相手もかなり大柄な男性に違いない。
 果たして、小さな入り口を潜って顔を覗かせた男は、シドに引けを取らない巨漢だった。入り口のアーチを支えるように掴んだ腕は、筋肉が山のように盛り上がっている。ラテンアメリカ系のシドとは違い、男の肌は白い。
 四角張った顔に不釣り合いなつぶらな眼で、東国からの来訪者を見つめた。
 男はアーチを掴んでいた手を離し、身振りを混えた辿々しい英語を、ゆっくりと話し出した。
「ハロー。ぼくは、イズン。貴方たち、お待ちしていました。エルザより、話、聞いています。ぼくの英語、わかりますか? エルザ、帰ってくるまで、中へ入って、お茶をどうぞ。オーケー?」
話し終わると、イズンはヨンを見た。
 透き通った青い目は、生まれ落ちたばかりの赤ん坊のような純粋さで輝いている。
 ヨンの目が、自分の意思を汲み取っていることを察すると、続いてコンの意思を確認した。しかし、彼女がまったく反応を示していないことを察して、不思議そうに首を捻った。
 Are you okay ? と聞かれると、コンは無表情に首を振る。
 ヨンの指先の動き次第で、彼女の行動はどうとでもなる。
 イズンは二人を小さな部屋に案内すると、大きな身体を丸めて、キッチンへお茶を淹れにいった。
 ログハウスの入り口が開いた時から、この家は様々な草花の香りがした。食物に使うものから、フレグランスや虫除けまで。広大なドイツの森で採れた野草の恵に預かりながら生活しているようだ。イズンの趣味だろうか。北欧神話に出てくる女神の名を冠した男の背中を、ヨンはさりげなく観察した。
 赤ん坊のような瞳、辿々しい喋り方(これは英語が拙いからでもあるが)、室内へ案内するときの穏やかな物腰、そして家中に漂う芳しき花香……一見すると、イズンは純朴な自然の中で育った、未発達の子供のようだ。
 しかし、彼は人を殺している。ささやかな身体の動きでわかる。彼の巨体はまるっきり木偶でくぼうというわけではない。
 ヨンは斜め向かいのダイニングチェアを見た。そこにはコンが、丁寧に両足を揃えて着席している。
 ……大方、イズンにも、止むに止まれぬ事情があるのだろうね。
 イズンは花柄の意匠を凝らしたティーセットを持ってくると、採れたてのハーブから煮出したお茶を淹れた。芳しい香りに毒性は感じられなかったが、ヨンもコンもティーカップには口をつけなかった。
 イズンは彼女たちにお構いなしに、繊細な手つきでお茶を飲み始めた。
 その間、つたない英語でぽつぽつと自宅周辺の気候や土地柄についての世間話をした。彼はつぶらな目をほころばせ、いかにも楽しそうに談話に興じた。と言っても無口な女性二人を相手に、一人語りを講じているに過ぎなかったが、彼自身は薄い唇から漏れるドイツ語と英語の発音の違いを、楽しんでいる風でもあった。
 しばらくして、外で物音がした。イズンが会話を切り上げると、急いで玄関扉を開けた。
 エルザ、と名前を呼びながら、白人女性を部屋に招き入れる。
 買い物帰りの彼女から、大きな紙袋を引き取ると、老女・エルザの腕を取り、うやうやしくダイニングへと導いた。
「ごめんなさいね、道路が混んでしまっていて」
エルザは流暢な英語で謝罪した。
「フィオリーナから、話は聞いているわ」
「どうやらそのようだね。そこの女神くんも承知のようだからね」
 この部屋に来て、ヨンは初めて口を開いた。
 フードの中から聞こえるしわがれ声に、エルザは意外そうな顔をしたが、すぐさま叡智えいちに満ちた目が互いの事情を察したらしい。
 二人の素性には触れず、首にぶら下げていた銀縁の眼鏡をかけ直した。
「どうやら話が早そうね」とエルザは微笑んだ。

 イズンの腕を支えに、エルザはゆっくりと歩き出した。
 孫と祖母の散歩風景のように見える二人から少し距離を保って、ヨンとコンも後に続く。
 カーキ色の中型トラックはログハウスから離れた場所に駐車してある。荷台に積んだ檻には雨除けの軍用シートがかかっていて中は見えないようになっている。
 麻酔が切れたようで、シートの向こうから微かな唸りが聞こえている。
 コンがシートをめくると、籠もっていた糞尿ふんにょうのにおいが鋭い針となって鼻をついた。
 獣臭より強烈な、生き物の臭い。
 赤目の周りには無数の蝿が飛び回っている。
 直射日光に当てられると、赤目はわずかに後退したが、瞬く間に気力を取り戻し、外界目掛けて飛び上がった。破れた洋服が陽の元に照らされ、みすぼらしい全身があらわになる。浅黒い身体に打ち傷と注射痕が見えた。これはシドの打撃と麻酔針によるもので、赤目の驚異的な回復力によりほとんど完治していたものの、表皮の赤黒い変色は元に戻らず痛々しく残っていた。
 しかし、全員の気を引いたのは、正気を失った赤い双眼から、血が溢れ出ていたことだ。
 赤目は滂沱ぼうだの血の涙を流していた。
 静かな一堂の中で、エルザの溜息が目立って聞こえた。
 獣の尾を引く鎖がピンと張ると、反動でひっくり返り、ひとかたまりになった糞尿を、その身体で蹴散らした。
 イズンがすかさずエルザを後ろ背に隠す。彼はけがれのない眼差しで汚物に塗れた獣を見据えながら、腰にくくりつけていた銃を構える。
 これは万が一、赤目が檻を突き破って出てきた場合の防御策だ。
 ヨンが手振りで合図を送ると、コンが片手に持っていた麻酔銃を構える。
 確実に仕留めるため、檻の傍へ近づいていく。
「お嬢さん、その辺で止まりなさい!」
イズンの背後でエルザが厳しい忠告を投げかけた。
「あの涙は感染するのよ!」
 立ち止まれ。近づくな。
 ヨンは一段と強い指示をコンに与える。
 ……撃て!
 コンの構えた銃から発射された麻酔が、赤目の肩先へ突き刺さった。
 甲高く一声鳴くと、赤目はばたりと倒れて動かなくなった。
 敵が無力化したことを入念に確かめ、イズンは肩の力を抜いて、手にした銃をホルスターに戻した。ドイツ語で何がしかをつぶやくと、彼に同意するようにエルザも頷いた。二言三言、ドイツ語での会話がやり取りされる。
 彼らが本格的に話し合いを始める前に、ヨンはおぼつかなげにイズンに掴まり立ちをする、エルザの元へ近寄った。
「後天遺伝子について、フィオリーナも預かり知らぬ事実があるようだ」
 ヨンは、フィオリーナから後天遺伝子の話を聞いていた。後天遺伝子は遺伝子注入トランスフェクションによって増え広まるという事実の他に血液感染のリスクもあるのか。
 フィオリーナには伝えたところ、とエルザは答えた。
「先日、送られてきた遺伝子で動物実験を行った結果が今日出たのよ。宿主の生命力が低下したとき、後天遺伝子は感染性のある物質を作り出し、血液に乗せて体外へ放出する。血の涙による血液感染――それが彼らの生存戦略だと分かったの」
なるほど、とヨンは頷く。
 それが確かなら、後天遺伝子は、「遺伝子」というより「ウィルス」に近い働きをする。
 感染する狂気とは、前代未聞である。
 そのとき、檻の中からか細い獣の唸りが聞こえた。コンが撃った麻酔銃で身体は麻痺しているものの、赤目の意識を奪うまでは行かなかったようだ。
 檻の暗がりに横たわった赤目は、怯えた声で、しばらくの間、鳴き続けた。
「〝臨界反応〟……古典的だけど、良い着眼だわ」
エルザが遠目に檻を見ながらつぶやいた。
「本当に、ルディガーみたいなことを言うわね」


 引き渡しが完了した。
 端的なメッセージを、フィオリーナのアドレスへ送信した。
 攻撃的で血液感染しかねない赤目を非力な老婆へ託すことに抵抗があったが、エルザは穏やかな微笑みを浮かべながら「心配しなくて良い」と言った。
 彼女の見つめる先に屈曲な男神イズンがおり、彼がこれからコンの役割を受け継いで、赤目を監視するらしい。
 無邪気なイズンに頼りなさを感じないでもなかったが、これ以上の心配は余計なお世話だ。
 ヨンは深入りするのを辞め、その日はエルザの研究施設の空き部屋に宿泊した。
 翌日、エルザはご丁寧にも近くの町までヨンとコンを送り届けてくれた。
「車の運転、慣れたものでしょう? 独身生活が長いと、ボケる暇もなくてねぇ」とクスクス笑うエルザは、天才科学者に似合わない、チャーミングな笑顔を見せた。
 町といっても、ここは首都から遠く離れた西ドイツの田舎町だ。
 空港へ向かい、日本へとんぼ返りをするにも丸一日はかかるだろう。
 貴方がたとフィオリーナに、とエルザからもらった手作りジャムやお菓子を食べながら、ヨンはコンに新たな暗示をかけた。

 海外留学の下見は終わり、我々は日本へ帰るところ。
 絵画教師のエルザからたくさんの手土産をもらい、日本にいる元ルームメイトのフィオリーナにもお裾分けをしに行くところ……。
 嘘と真実の境目が曖昧になり、ヨン自身も自分が誰なのか分からなくなる。

 そうだ……わたしはヨン。
 十七歳の高校生。
 姉のコンと日本に帰る。
 美術学校への進学を、真剣に考えなければならない。
「ヨン、ゆっくり考えていいからね」
「……ゆっくり?」
「自分の将来について。とても大事なことだから、ゆっくり考えて、答えを出してね」
 姉のコンが、溌剌とした笑顔を向ける。
 うん、とヨンも微笑んだものの、心にわずかな波が立った。
 自分の将来について。
 とても大事なこと。
 ……私の将来? 私には未来があるの?
 そこはかとない違和感を覚えないでもなかったが、進路に対する不安ということにして、ヨンは気にしないことにした。