黒のジャケットにスラックス、血色を隠す
見かけは普段の自分に戻ったが、どれも生地の薄い安物だ。デスクワークには差し支えないだろうが、この生業ではいささか力不足に感じる。
端的に言えば、戦いの最中に破れそうで気掛かりだ。
赤信号で停車中、裾や襟に触れていると、
「不満そうだな」
真一が声を掛けてきた。
「日本が世界に誇るファスト・ファッションの着心地はどうよ?」
その声は、満足感に満たされている。
時藤家での五日間、ずっと同じ洋服を着回していたのだ。真一にすれば、新しい洋服に着替えられただけで
「俺は好きだけどね。安いし、着やすいし、Tシャツの柄もイケてるし」
リクライニングシートにもたれて、幸せそうに
信号が青に切り替わる。
フィアスは勢い良くアクセルを踏みこんだ。
ぐあっと悲鳴を上げながら、座席に引きつけられる真一。
突然の衝撃に目を白黒させたものの、すぐさま立ち直ると、運転席へ向けてこらっ、と怒鳴りつける。
「フィアス、八つ当たりすんなよ! 食ったもん吐き出すとこだっただろっ!」
「俺はただ、青信号でアクセルを踏んだだけだ」
「そういうのを八つ当たりっていうんだよ! どぅーゆーあんだーすたん?」
「You’re not making any sense.(何を言っているのか分からないな)」
「日本語使えよ! ここは日本だぞ!」
「先に英語……らしきものを使ったのはマイチだろ」
途端、後部座席から吹き出したような笑いが起こった。
堪えきれなくなった凛が、お腹を抑えて笑っている。
「貴方達、いつもそんな漫才してるの?」
「……」
フィアスと真一は気まずげな視線を交わす。漫才じゃない、と否定する側からケラケラした笑い声にかき消されると、言い返す気力もなくなった。
ごめんごめん、と謝りながら、凛は目尻の笑い涙をぬぐう。
「アジトに行けば、貴方のスーツもあるわよ、きっと」
ああ、とフィアスも頷く。早くアジトに辿り着きたい。アジトの武器庫には、入念に手入れされた最新式の銃火器が何種類も保管されている。
服装のことはともかく、武器や弾薬を調達しなければ生命に関わる。
フォックスとの戦いで使用していた銃やナイフを回収しきれず、始末されてしまった今、身につけているグロック19が唯一の銃器だった。
最低でもバックアップ・ガン(今のメインアームがそれに該当するのかも知れないが)と、真一と凛に携帯させる護身銃くらいは欲しい。
時藤家を出発した後、朝食のメニューにうるさい二人を静かにさせるため、ファミリーレストランで食事をとった。
その際、フィオリーナに連絡し――電話に出たのはシドだったが――新しいアジトの場所を聞いた。
横浜市内から外れたものの、神奈川県内の某施設の地下にあるらしい。
ここから三十分程度の距離だ。
「本当に、良い天気ね」
凛がサイドガラスに額をつけ、空を見上げる。退屈をしのぐ子供のように、小さな声で歌を口ずさむ。甘い歌詞の、ありふれた流行歌だ。
のびやかな歌声を聞きながら、晴天にも傘が必要だ、とフィアスは思う。
弾丸の雨は、いつだって唐突に降ってくる。
雨水が一滴落ちるように、着信音が鳴った。
真一がディスプレイを一瞥し、珍しいな、とひとりごちる。もしもし、と応答して数秒、平和に浸りきっていた寝ぼけ眼が見開いた。
「……茜? 茜なのか?」
茜? おい、大丈夫か? 間を置いて呼びかける。繋がってはいるものの、確かな反応がないようだ。
「何か変だ……いつものアイツらしくない」
真一がハンズフリーのボタンを押し、車内に通話主の声を響かせる。
と、少女の呼吸が聞こえてきた。
押し殺したような細さだが、息遣いが荒い。
「深呼吸しろ」真一の電話に向かって、フィアスは言った。
「ゆっくり、三回だ。数を数えるぞ……一、二、三。そうだ、上手いぞ。そのまま続けて」
取り出した自分の携帯電話でシドに電話を掛ける。コール二回で繋がった。
「マイチに掛かってきた電話を逆探知しろ」と指示を出すと、察するものがあったのだろう、「了解」と手短に答えてシドは作業に取り掛かる。
再び、少女に呼びかける。
「落ち着いて、深呼吸……話はできるか? 無理にとは言わない。話せる状況じゃないなら大丈夫だ」
電話からは震える吐息が聞こえるばかりだ。話手が静かな分、背後で聞き馴染みのある音が騒々しい。
銃声だ。
それも、連続射撃の音。
サブ・マシンガンかアサルト・ライフル……戦場に近い場所に彼女はいる。身の危険が迫っているのだ。
何でも屋だ、とシドの応答と同時に、カーナビに地図が送られてきた。少女を示す赤い点は、建物の真横で明滅している。
「なんでだよ! あれだけ近づくなって言ったのに!」
「マイチ、少し静かにしろ……シド、空の目は使えるか?」
――ああ、見えた。何でも屋付近で、男が銃を乱射している。
「了解」と返事をして、フィアスは真一の電話に目を向けた。
「アカネ、今から助けに行く。建物の中に入れるか?」
くっ、と堪えるような溜息が聞こえ、初めて小さな応答があった。
――無理。鍵、ない。
その声は涙で滲み、恐怖に震えていた。
――か、鍵……ないもん!
「はあ? 合鍵はっ?」
怒鳴りつけるように真一が叫ぶ。
「合鍵! 事務所の合鍵持ってるだろ!」
――せ、せやった……。
がさごそと鞄をまさぐる音が聞こえ、短い捜索の果てに鈴の音がした。鍵についたストラップだろう。清涼な音とともに、カチャリと解錠の音がして、すぐさま扉が閉まる。
呼吸の乱れは一段と激しくなったが、しんと静まり返った室内に、外野の銃声は小さくなった。
「励まし続けろ。穏やかに」
真一に命じ、フィアスはフロントミラーを覗く。心配そうにやりとりを見守っていた凛と目が合った。
「リン、トランクからアタッシュケースを取ってくれ。少し重いかも知れない」
凛が車内後部に身を乗り出して、銀色のケースを引っ張り上げてくる。ケースの中には、わずかながら予備の弾倉が入っている。すべての弾倉を受け取ると、上着のポケットに突っ込んだ。
次いで自分の携帯に、分かったことを教えてくれ、と話しかける。シドは上空から解析したことを端的に伝えた。
その情報によると、真一の事務所がある馬車道の歩道橋に車が突っ込んで炎上しており、血塗れの犠牲者が何人も倒れているという。男は、何でも屋付近をうろつき、さらなる獲物を探している。所持している武器はAR-15系のフルオート。死体を戦利品と考えているのか、
「AR-15? そんなもの、どこから持ち出したんだ」
――恐らく、〈サイコ・ブレイン〉のオモチャだ。犯人ともどもな。
「瞳は赤いか?」
――言わずもがなだ。映像を送る。
カーナビの画面が切り替わり、リアルタイムの映像が映し出される。
ライフル銃を構えた男が、何でも屋の周りをうろついている。無秩序な動きだ。覚束ない足取りで、足元の死体や車、街路樹など目についたものへ衝動的に銃弾を撃ち込んでいる。
男の片腕は燃え盛っている。車が炎上した際、服に引火したらしい。痛覚が麻痺しているのか、重度の火傷を気にも止めていない。ディスプレイ越しに狂気が薄れると、見えない観客に向かって、曲芸を披露しているようにすら見えた。
後部座席から身を乗り出して、凛も映像に目を向ける。
「何よ、これ……」
通話の傍ら、真一もカーナビに目を移し、ごくりと唾を飲み込んだ。
様々な機器を中継しているため画像の荒さは否めないが、オモチャのような銃を振り回す男の目から、赤い筋が滴っているのが見てとれた。
生き延びるための反動――後天遺伝子の末期症状が顕れている。現在は、殺人の快楽に興奮冷めやらぬ様子だが、時期に身の毛もよだつ恐怖が訪れる。
悪夢のようなフォックスの末路を思い出し、フィアスは車のハンドルを強く握った。この怪物が、自分の遺伝子から創り出されているのだと思うと吐き気がした。
「始末する」
静かにつぶやく声は、錆びついた金属のように乾いていた。同乗者の視線が自分に集中するのを肌で感じながら、はっきりと断言した。
「自分で蒔いた種だ。自分で摘み取る」
――ちょ、ちょっと待て!
慌てたシドの声が、微かなノイズを通して響く。
――相手の獲物をよく見てみろ。現装備で制圧するには厄介な相手だ。ここは大人しく、日本の特殊部隊が来るのを……
「知り合いの子供が巻き込まれている。悠長に助けを待っている時間はない……それに、シドも映像を見ているだろう?」
――あ、ああ。
「俺が殺られると思うか?」
いや、と即座に否定するシド。
その後、ご無沙汰ぶりの不気味な笑いが聞こえてきた。フィアスは、電話を自分の耳から10cmほど遠ざけ、シドの笑いが収まるのを待つ。
ライフル弾を受けるより、この笑い声を聞いている方がずっと苦痛だ。
「この戦闘は……」
シドの笑い声を遮るように、フィアスは強い口調で告げた。
「……リハビリ戦にちょうどいい」