shake hands

「悪い知らせだ」大男が言った。特注サイズのジャケットを脱いで、ソファの上に軽くかける。
「ギャングのいざこざに巻き込まれて、目をつけられてる。家がもぬけの殻だったのはそういうわけだな」
深いため息をつく。
「二人殺してる」
 フィオリーナは携帯電話を操作しながら、入り組んだダウンタウンの地図を巨大なスクリーンに映し出した。大男の太い指が差した場所はダウンタウンの中でも、ロウアー・イースト・サイドの外れだった。
 様々な人種が入り乱れて暮らす場所。近くにはホームレスシェルターもある。情報収集にはもってこいだ。
 おそらく、二ヶ月前の殺人事件のせいで地元の連中がピリピリしているところへ、火をつけるようなことをしたのだろう。
「シド」
 フィオリーナは、彼女の影武者である大男−−シド・バレンシアを呼ぶ。彼は短銃身ショットガンをホールスターに装備していた。フィオリーナも頷く。
「警察の介入より前に、なんとしてでも探し出します」
「ギャングよりも先に」
「彼自身の裁きより先に」
シドは神妙に頷いた。
「そう。それが問題だ」


 あれから、長い時が経った。
 フィオリーナの敷いていた警戒網を潜ってやってきたのは、少女の形をした運命だった。
 龍頭彩。〈あの組織〉に所属していた実験体。フィオリーナが彩の正体に気づいたのは、二ヶ月前、彼女が殺された直後だった。
 血液を入手し、彩が先天遺伝子の生殖に適する特殊なDNAを持っていたことを知った。それはかつて失った、アオイという少女の塩基配列えんきはいれつとも一致していた。
 かつて〈あの組織〉から奪還したアオイは、日本で龍頭彩という子供を生んだ。
 その子供は〈あの組織〉から脱出して、同じように〈あの組織〉から逃げ伸びたアルド・ディクライシスと出会った。
「シット」フィオリーナはつぶやく。ルディガー、これは貴方の遺志なの?
 半日近く、市街地を探しまわっても見つからなかった。アジアンの多いこの界隈では人目につきやすいプラチナ・ブロンドも目撃情報は皆無だった。
 イースト・リバー沿いの遊歩道に出ると、遠くにウィリアムズバーグ橋が見える。その先はブルックリン地区だ。
 龍頭彩はロウアー・マンハッタンとブルックリンを行き来しながら、ロックバンドのライブ鑑賞を趣味としていたらしい。彼女がこの場所で見た数々の夢を、アルドも傍で見ていた。
 謎めいた過去を持つ、彩のことをどう思っていたのだろう。アルドの気持ちは、フィオリーナには分からない。
 ただ一つだけ真実なのは、彼は恋人を殺した人間に復讐しようとしている。ギャングを殺したのは自分の目的を妨害されそうになったからだ。正当防衛ではない。彼は殺人を犯した。橋を渡って、こちら側に来てしまった。フィオリーナは唇を噛んだ。
 十数年ぶりにアルド・ディクライシスと再会したのは、それから二日後だった。粘り強い聞き込みが功を奏した。付近を張っていると、昼近くに古いアパートメントから彼が出てきた。
 白くぼやけた曇天どんてんに、プラチナ・ブロンドは輝きを失っていた。
 パーカーにジーンズ、ハイカットのスニーカー。彼の格好は、カレッジにいる学生と変わりなかった。
 視線を感じて、アルドは立ち止まった。ポケットに隠し持った銃を握り締めたのがフィオリーナにも分かった。
 ハイ、とフィオリーナは声をかけた。
「あなた、ジョーよね? ロイの友達の。こんなところで会うなんて、びっくり!」
アルドはポケットから手を抜いた。
 ゆっくりと振り返る。
 灰に煙った青色の瞳。残酷ね、とフィオリーナは思う。
 彼は、数十年前に小さなフィオリーナの身体を抱いて、別れのキスをした彼だった。
 悪夢の中で何度も追いかけ、いつも雪の中へ消えてしまう彼だった。
 子供の頃に輝いていた無邪気な好奇心は、残骸も見当たらなかった。
 危なっかしいほどの人懐こさや警戒心のなさは、記憶を失った上に築かれていた一過性のもの−−防衛本能の一種だったのかもしれない。
 アルドの本質は、遺伝子上の父親と同様に憂いを帯びている。
 色素が薄いだけでなく、アルドの顔は血の気が引いて真っ青だった。目の下にクマが出来ていて、繊細な顔は憂鬱に陰っていた。肉体的に疲労困憊し、精神的に追い詰められてもなお、その目は殺すべき相手を求めて喘いでいた。
 彼はフィオリーナを見て、何かを思い出そうとするように数秒の間、考え込んだ。
 それから彼女よりも、自分自身に言い聞かせるように「人違いだな」とつぶやいた。
「ジョーに会ったら宜しく伝えておくよ」そして足早に通りを歩き始めた。
 フィオリーナも後に続く。
「ねぇ、これからどこに行くの?」
「それが目的?」
「そうね、本当はね」
 悪いけど、と面倒くさそうにアルドはつぶやく。
「誰かとデートする気分じゃないんだ」
「どこに向かっているのかだけ教えて」
「カレッジ。これからエジプト考古学の講義に向かうところ」
嘘ばっかり、フィオリーナは外見相応の声で楽しげに笑う。
「貴方は二年前にカレッジを卒業したはずよ、アルド?」
 アルドは立ち止まった。銃を取り出し、目立たないよう下ろした手に携える。
 発砲する気のないことは一目で分かった。リボルバーは安全装置が外されていなかった。そして現実での戦いよりも、彼は自身の中で繰り広げられる復讐心と道徳心のせめぎ合いに躍起やっきになっていた。
 あと一発でも銃弾を放てば、彼の中で何かが崩壊する。瀬戸際まで追い詰められているにしても、やはりその変動は、恐いものであるらしい。
 正常な人間が、正常性を保てなくなること。常識の枠を突き破り、善と教えられてきたもののすべてを裏切ること。それがいかなる恐怖を伴うものか、頭では理解できていても、正常に生まれついていないフィオリーナは経験したことがない。
「アルド・ディクライシス」フィオリーナは彼の名を呼ぶ。
「血塗られた過去から生還した貴方には、約束された未来があった。日の差す場所で、正義を貫いていく資格があった。たくさんの人たちが守ってくれた人生を、注がれた愛情のすべてを裏切って、貴方はこちらの世界に来てしまったのよ。それがどれほど罪深いことか、分かってる?」
つぐないはするつもりだよ……すべてが終わったら」
「死は、償いのうちに入らないわ」フィオリーナは低い声で言った。
「やすやすと、ガールフレンドの元へ行かせるわけにいかないの」
アルドは顔を上げた。瞳に混乱と動揺の色が揺らいだ。
 君は、と言いかけた彼の言葉を遮って、フィオリーナは続ける。
「もちろん、刑務所の檻の中へも、ギャングのアジトへも、行かせるわけにいかない。それから貴方自身の手でつちかってきた良識に、食い潰されるわけにもいかない。生き延びるために、わたくしと手を組むのよ」
フィオリーナは言った。
「Brace yourself.(覚悟を決めなさい)」


 高層ビルの上階へ戻ってきたフィオリーナと、その背後に佇む青年を見てシドは腕を組んだ。
「よく来たな、アルド。我々は君を探していた」
それから、彼が知る多言語の一つ−−日本語に切り替えて、フィオリーナにこっそり告げる。
「しかし……今にも死にそうだな。銃口を口の中へもっていきたそうな顔してるぞ」
「あんたの巨体からすれば、誰だってそう見えるはずだ」アルドも日本語でやり返す。驚くシドから目をそらし、つまらなさそうに付け加えた。
「秘密の会話は日本語と英語以外でやってくれ。ドイツ語にも要注意だ」
シドとフィオリーナは顔を見合わせる。シドが大袈裟に肩をすくめる動作をする。フィオリーナがソファをすすめると、アルドは首を振って、出口のそばへ移動した。
 壁にもたれて、深く息をつく。青白い額には汗が浮かんでいた。
 フィオリーナに向けた目を、軽くこすってアルドは続ける。
「ここで話を聞く」
「いつでも逃げ出せるようにか? 残念だが、逃げた先は刑務所だ」
「逃げはしない。捕まるわけにいかないからな」
アルドはポケットから黒いパッケージの煙草を取り出すと、口にくわえる。
 火をつけ、煙を吸い込んだところで咳き込んだ。すぐにパッケージへ押し付けて、強引に火種を消した。シドは再び肩をすくめる。
「わたくしはフィオリーナ・ディヴァー。彼はシド・バレンシア。わたくしたちは、ある組織を運営しています。公に出来ないことを取り扱う組織です」
「あんたたちはマフィアか?」
「どちらかというと殺し屋に近いかも知れません。武器や麻薬の売買はしませんし、仕事の依頼は政府の用命がほとんどです。警察組織からの依頼もあります」
「それでも、殺しは殺しだ」
そうです、フィオリーナは頷く。
「殺しは殺しです」
アルドは何も言わなかった。フィオリーナも何も言わない。沈黙がシックな調度品に色取られた広間に漂う。
 彼の疲労が限界に達していることがフィオリーナにも見て取れた。幸いだったのは、自分の頭を撃ち抜く前に、所持していたS&Wを回収しておいたことだ。アルドがソファに座らなかったのは、少しでも体勢を崩すと卒倒してしまうと予感したからだろう。
「先ほども言いましたように、わたくしの目的は貴方を生き延びさせることです。無用な呵責かしゃくに打ち勝って、本懐ほんかいげてください。そのために必要なすべての技術を教えます。資金も提供しましょう」
「ずいぶん気前が良いんだな」あえぐようにアルドは言った。
「NYには俺くらいの連続殺人犯なら掃いて捨てるほどいる。そういった奴らを集めて、手ほどきするのがあんたの役目か?」
「いいえ」
「それなら、どうして? ……どうして俺なんだ?」
フィオリーナは口を開いた。ルディガー・フォルトナーのこと、龍頭彩のこと、そして自分の秘密を今この場で打ち明けてしまいたい衝動に駆られた。しかし、既にアルドは多くのものを背負いすぎていた。
 残酷な出来事を見続けた灰青色の目は疲弊し、狼狽ろうばいし、恐怖していた。
「僕は好きな人を、悲しませたくないな」と光の中にいた少年は言っていた。
 フィオリーナは目を閉じる。
 これから、わたくしは好きな人を悲しませることをたくさんするだろう。
 しかし、今はまだ……。
「これまでの経歴を踏まえてのことです」フィオリーナは言った。
「逆転した正義の中で、貴方は今まで以上に良い仕事をすると思います。ギャング殺しの犯人として捕らえられる前に、手に入れたかった。アルド・ディクライシス、貴方は我が組織に必要な人材です」
フィオリーナは彼の元に近づいた。拳銃など握ったこともなさそうな、入念に手入れされた右手を差し出す。アルドは一瞬身を固くしたが、躊躇いがちにその手を握った。指の長い、器用そうな手だった。
 本当は、手を繋ぎたかったの。
 フィオリーナの中で、今では見る影もなくなってしまった少女がつぶやいた。
 少女は鏡の中に消え、ルディガーも雪の中に消えた。
 残されたのは彼の息子と、成長したフィオリーナだけだった。
 握った手から力が抜け落ちた。
 慌ててその腕を支えたときには、青年は意識を失っていた。
「先が思いやられるな」
お手上げだというようにシドはホールド・アップする。フィオリーナは苦笑しながら、それでも大男がこちらへやってくる前に、ぎゅっと強くアルドを抱きしめた。