その日、いつも仲良くしている女の子の恋人がケイムショというところから出てくるというので、家には私とマサムネ以外、誰もいなかった。
 私は女の子からもらった漢字の学習ドリルで一生懸命勉強していた。最近ではテレビに映る看板やテロップもすらすらと読めるようになっていた。
 私たちの前には小さなテレビがあって、そこでここからそう遠くない中心街の飲食店で火事が起こったことを知らせていた。マサムネはテレビを消すと、私の名前を呼んだ。
 鉛筆を握る手を休めて彼の方を向くと、彼はふかふかのベッドにあぐらをかいたまま、片方の手で私を招いていた。いつになく彼の目は真剣だった。彼に導かれるまま、私はベッドへ入った。薄い毛布の中は高いマサムネの体温が充満していた。部屋にいるときは往々にしてそうだったが、彼は長い脚にジーンズを履いている以外は裸に近い格好をしていた。大きな腕に抱きすくめられると、南京錠のネックレスが頬に当たった。私たちは抱き合ったまま、互いの呼吸に耳を澄ませていた。こんなことはホテルに暮らして初めてだった。彼の身体からは甘い煙草の匂いがした。目を閉じて、その匂いをくんくん嗅いでいると、彼はくすぐったそうに身をよじらせた。
 私たちはごく自然にキスを交わした。
「真剣な話をしようとしてたのになあ」
「しんけんなはなし?」
「俺はもうじきここを出ていかなくちゃいけないんだ、っていう話」
言葉を失った。暗闇の中で私たちはじっと見つめ合った。長い沈黙のあとでマサムネは言った。
「俺はもうすぐ十八になる。そろそろ自分の生きる道を決める時だと思うんだ。身の振り方ってやつをさ」
太い喉仏が私の頬を滑って上下する。彼は痛いくらいに私の手を握りしめた。その手が微かに震えていた。
「知りあいの兄さん――と言っても俺とは親子ほどに年の離れた人なんだけど――が、俺を家族に迎え入れてくれるっていうんだ。俺は一人で身を立てるために兄さんに言われた勤めを立派に果たさなくちゃいけない。もちろん、死ぬほど痛いことや、涙も出ないくらい辛いことがあるだろうけど、賭けてみたいんだ。自分の可能性に」
私が痛がっていることに気づくと、マサムネは慌てて手を離した。しかしその手は頼りなげに数秒宙をさまよったあと、どうしようもなくなって私の肩に留まった。
「他の女たちには一人残らず話した。彼女たちは二度とここへは来ない」
「どうして?」
「みんな、他に帰る場所があるからさ。家族や、恋人や、友達や……」
マサムネの熱い手がワンピースの肩ひもに届いた。私たちはまたキスを交わした。彼の唇は湿っていた。彼自体が雨に濡れた犬のようだった。
「……アオイはどうする?」
「私に帰るところはないわ」
解かれた肩ひもがむずがゆい感触を残したまま皮膚の上を滑る。私の心を小さな風が横切ってゆく。この気持ちはなんだろう。胸の真ん中、むずむずして、苦しい。
「両親は?」
「リョウシン?」
「お母さんやお父さん。アオイを産んだ人たちはどこにいる?」
「知らない。そんなの」
「俺と同じだな」
彼は微かに微笑んだ。何十回と見慣れた笑顔でも、今日は少し違っていた。
 私は彼の笑みの裏に大きな決意と小さな困惑を読み取った。道徳心や良心から来る微かな躊躇が彼を沈黙のうちに留まらせていた。彼は苦しげに何度も私の髪を撫でた。何度も、何度も。
 だから、私は言った。
「私は、マサムネと一緒に行くわ。命がなくなるまで、一緒に行こう」
そのとき以上に、言葉を発することのすごさを感じたことは、今までにない。
 彼に出会ったことが「私」の世界の始まりだったとしたら、今この瞬間から、「私たち」の世界が始まったと言っても良い。
 感情の爆発が薄い皮膚の内側で起こって、彼は私を、私は彼を、強く抱きしめた。


 ……私はずっと、それを攻撃の手段だと考えていた。
 その多大なる衝撃は私に苦痛しかもたらさなかったから。
 今までに何度か、そういうことがあった。
 蠍の尾で突かれたように内部からじわじわと身体を蝕む……攻撃を受けた後はいつも世界から一人切り離されたように、私は闇の中に佇んでいた。泣くこともできない。
 本能的に恐れている、それは、何よりも避けなくてはならない攻撃の手段だった。
 それなのに、今の私は自分の一番の弱点をさらけ出し、マサムネの共感を強く求めていた。心の中はいつも以上に穏やかで、恐怖や動揺はまるでなかった。
「どうしてだろう……」
私の呟きに、一瞬だけ彼は動きを止めた。じっと私の目を見つめる。
 夜が水の中へ溶けてしまったかのように黒い彼の眼は、純粋なほど澄んでいた。その場所、孤独な魂の真ん中に、アオイ、と自分の名前を記しておきたい気がした。
 そうか、これは攻撃とは真逆の、愛情とか優しさとか喜びとか楽しみの上に立つコミュニケーションなのだと私は気づいた。
 私は束の間の眠りから覚めて、まじまじとマサムネの顔を見下ろした。マサムネ、と声をかけると、彼は寝ぼけ眼をこすって私を見た。照れたように笑う。そして、その目がぐるりと部屋を見回して、少しだけ見開いた。
 私を抱きしめていた腕を持ち上げて、宙を指差す。
「あれは、アオイの父親?」
「えっ?」
「すごく身体が大きい。スキンヘッドの白人。こめかみに十字の傷がある」
私は耳を疑った。咄嗟に彼の指先を追うが、そこには黄ばんでひび割れた部屋の壁が見えるだけだ。
「どこ? どこにいるの?」
私は大声でその人の名前を呼んだ。
「フェリーニ!」
裸のまま、ベッドから飛び出す。
 フェリーニの名前を呼びながら部屋中を探しまわるが、懐かしい彼の姿はどこにも見当たらない。戸惑ってベッドを振り返ると、マサムネはあぐらを組んで、煙草を吸っていた。私は肩を落として彼の隣に腰かけた。
「もうこの部屋にはいない。遠いところに行っちまったから」
「遠いところ?」
「うん。俺たちには理解できない、ずっと遠いところ」
頬を伝う涙を拭って、尋ねる。
「マサムネには頻繁にあるの? そういうことが?」
「ガキのころはひどかったけれど、今は滅多にない。よほど念の強い人間でなきゃ見えない」
「フェリーニはずっと私の傍にいたの?」
「分からない。俺が見たのは、二回だけ。てっきりアオイの父親かと思っていたんだけど」
それを聞いて私は理解した。
「だから〝幽霊の捨て子〟」
マサムネは頷いた。
「アオイに出会ったのも、そいつに導かれたからだよ。あの土管から、君を引っ張り上げたとき、俺は託されたんだ。君の運命を」
マサムネは細い腕を伸ばして、私の手を握った。マサムネの手は熱く、力強い。
 私とマサムネ。マサムネと私。
「一緒に行こう、アオイ」
返事の代わりに、私もぎゅっと握り返した。