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 あたしたちはまた暫く遊んだ。今度は、一緒に人形遊びをして。
 真一はあたしの名前を覚えるのがめんどくさかったらしく、依然としてあたしのことをねーちゃんと呼び、凛という名前は一言も口に出してくれなかった。それはそれで安心したけれど、あたしは少しだけ寂しかった。
 明日の告別式は真一も参列するのだろう。その時に彩の姿を見つけたら、どうなるのだろう。きっとあたしの事なんか忘れて、彩と友達になってしまうかもしれない。そもそも、今日あたしはこの場にいるはずのない人間だ。彩の代わりとして来たのだし、間違っても凛という名前を使うべきではなかった。だけど、真一にあたしの名前を呼んで欲しかった。彩とも正宗とも違う声で、あたしの名前を呼んで欲しかった。
 真一と遊んでいる間、そのことばかりが歯がゆく、あたしはこの焦燥感を紛らわすのに手を焼いた。真一に「凛」と呼んで欲しい。家族ではない誰かにあたしの存在を認めて欲しい。
 真一はあたしと目が合うたび、その大きな瞳を細めてにっこりと笑った。あたしが真一を殴ったことはもう記憶の彼方に消え去ってしまったかのように、屈託もなく笑う。
 あたしはその度に、真一って本当に馬鹿なんだ、と感心の域に入っていたが、嬉しくもあった。そんなことが三、四回繰り返されて、あたしはこの嬉しさが正宗と二人きりになった時の気持ちと似ていることに気がついた。今すぐにでもその肩に触れて、できることなら手の中に収めてしまいたい気持ち。ずっとこの人を見ていたい。様々なシチュエーションの中で見える人間のいくつもの表情、感情の動きを、それが例え軽蔑してしまうようなものであっても知り尽くしたい。もっと、あなたを愛させてほしい。
 まさか、そんなこと、あるわけない。
 あたしが好きなのは、お父さんだけだもん……。
 突然、遠くから誰かの足音がした。しっかりした歩調で草を踏み分け、裏庭へやってくる。
 真一はその気配すら気づいていなかったが、あたしは迎えが来たのだと直感した。途端、あたしの心は焦燥感でいっぱいになった。なんとかして、真一にあたしのことを覚えておいて欲しい。きっとこれから先、何年も会えなくなってしまう。恐らく、あたしたちが大人になるまでお互いに一目見ることすら叶わなくなる。彩の霊的な直感に似た閃きが、突如あたしの頭を掠め、その悲しい事実を確信して額がさっと冷たくなった。
「真一」
あたしは思わず彼の名前を呼んだ。真一がうん? と言いながら反射的に顔をあげた瞬間、あたしはあどけない少年の唇に自分の唇を押し当てた。真一はすぐにわっと悲鳴をあげてあたしの身体を突き飛ばした。あたしは無様にも、ぐちゃぐちゃした泥の中へ尻餅をついたが、めげずに彼の身体にしがみついた。真一は、なんやねん何すんねんと抵抗したが、年上のあたしの力の方が勝っていた。いずれ覆されてしまうのだろうが、今日ばかりは自分たちが子供であることに感謝した。あたしは泣きながら真一の首に縋り付いた。
「真一、真一、あんた、あたしのことちゃんと覚えていられる? 彩じゃないの、あたしは凛なのよ。分かる?」
「ねーちゃん、何言うてんねん」
「あたしたち、もう会えなくなるのよ。ずっと長い間、一緒に遊べなくなるの。あんたばかだから分かんないでしょ。……ねぇ、あたしのこと忘れないでいてくれる? 大人になっても、あたしの名前を覚えていられる?」
「お前、頭オカシイぞ」
「オカシくなんかないもん。何があってもあたしのことを、覚えているのよ。絶対に絶対に覚えているのよ。あたしも、あんたのこと忘れないから。約束。忘れないでくれたら、あんたとセックスしてあげる」
「どうでもええけど、苦しいねん。そろそろ離れてぇな、ねーちゃん」
 あたしは真一の首から腕を放す。真一は心の底からホッとした表情で息を吐き出した。
 やがて足音が段々と大きくなり、正宗と同じ年くらいの若いヤクザが姿を現した。彼も正宗と同様に黒いスーツを見にまとっている。あたしがギョッとしたのは、そのヤクザの片方の目が刃物で切り裂かれ、潰れていたからだ。傷はまだ新しい。そんなホラー映画のような顔に臆することなく、むしろ真一は嬉しそうにそのヤクザの下へと駆け寄った。
「けい兄ちゃーん!」
「若、お待たせして申し訳ございません」
真一ごときに敬語で詫びたヤクザは、真一の頭を撫でる。その間、片方だけの眼球は3m先にいるあたしの姿を捉えていた。あたしの、涙で濡れた眼や紅潮した頬を見止めると、ヤクザは真一の頭から手を離し、肩先を優しくつかんであたしの方に向き直らせた。
「若、何があろうともご婦人を泣かすような真似をしてはいけません。謝りましょう」
腰の低い割りに、“若君”である真一をちゃんと躾けているようだ。さっきまであたしから理不尽な扱いを受けていた真一はしばらくむずかっていたが、根負けして渋々頭を下げた。
 ヤクザは自身もあたしに詫びた後、あたしのお尻を軽く叩いて泥を飛ばしてくれた。真一はヤクザがあたしの傍で腰を屈めた際、背中に飛びついておんぶをねだった。先ほどのあたしとのやり取りは完全に頭の中から忘却されているようにしか思えなかった。実際、そうなのだろう。あたしと違って真一はまだ子供。面白くない話は、聞いた途端、頭から抜けていく。あたしは真一が子供であることに腹が立った。早く大人になってほしいけど、真一があたしより背が高くなって、声も低くなるころには、あたしのことなどとっく忘れてしまっているだろう。
 凛という名前、あたしに与えられた唯一のアイデンティティーを。
 真一を背中におぶったヤクザにあたしは片手を繋がれて、正宗のいる玄関先へと連れて行ってもらった。
 正宗はなにやら深刻な顔でおじさんと話をしていたが、あたしの姿――とりわけ、あたしの泣き顔を見取めると、口の端を引きつらせてニヤッとした。
「兄貴、また明日伺います」
正宗はおじさんに向かって丁寧に腰を折る。親父の手が後頭部に添えられ、あたしも丁寧におじぎをした。
「ねーちゃん、また遊ぼうな。今度は仮面ライダーごっこ、しよな」
やっぱり真一はばかだと思った。


「お前を泣かすなんて……さすが“若君”だな」
帰りの車で正宗はニヤニヤしながら独り言のように呟いた。しかしその言葉は、ちゃんとあたしに向けてある。
「泣かされてないもん。あたし、あいつのことぶん殴ってやったんだから」
あたしの必死の弁解にも正宗は聞く耳持たず、まだニヤついてる。そしてポケットからいつもの黒いパッケージの煙草を取り出すとフィルターを口に咥えた。宵闇の中にziipoの小さな火が浮かび上がる。そして、霧のような煙。
「この際だから教えてやる。凛、どうしてお前のことを秘密にしているか、分かるか?」
「知らないわよ、そんなこと」
つっけんどんなあたしの言葉に正宗は苦笑しながら頭をかく。そして少しだけ恥ずかしそうに告げた。
「俺はお前に〝凛〟って名前をつけたかったんだ。お前が生まれたとき、彩と違ってお前は泣きわめく事もせずに、じっと俺の目を見据えていたんだ。その眼が凛としていて、中々しぶとそうな感じだった。凛という名前しか、お前には似合わないような気がした。だけど……」
「だけど?」
正宗はへへっ、と少年みたく笑った。
「役所で認証されなかったんだ。〝凛〟という漢字は子供の名前にはつけちゃいけないそうだ。わけが分からん。だから、お前のこと、隠した」
「はあ?」
「文字通りの意味だよ。凛のこと隠してるんだ。文字が認証されるまで。誰にも知らせない。どこからバレるか分からないもんな」
「それで、あたしには彩のフリをさせてるの?」
「……怒ったか?」
「怒るというより、呆れた。すぅっと前から思っていたけれど、お父さんって、ばかだったんだ」
正宗は笑った。
「今頃、気づいたのか?」
「正宗のばか。ばか、ばか」
「俺のばか」
「……ねぇ、父さん。ばかのついでにキスしてよ」
「なんでだよ」
「キスしてくれたら許してあげる。まだ正宗だけの物でいてあげる。幼いのは今のうちだけよ。あたしも彩も、すぐに女になっちゃうんだからね」
「お前はそんなセリフをどこで覚えてくるんだ?」
「父さんの、エッチなビデオ」
「……俺のせいか」

……煙草くさい。

          ◆

 翌日の告別式は彩が出た。あんなにも葬式を嫌がっていたのに、自ら進んで「行きたい」と言いだしたのだ。正宗はもちろん快諾し、あたしは一人お留守番。夕方になって、告別式から戻った彩に今日の感想を聞いた。おとせが美味しかったと彩は答え、少し間をおいてから、何故かあたしに頭を下げた。
「凛ちゃん、ごめんね。真一くんにちゃんとお別れを言いたかったよね」
 彩もあたしと同じく、別れの予感を感じたらしかった。やっぱりあたしたちは双子だ。半年後、あたしたちの予感は現実のものとなり、あたしと彩は正宗の手を離れ、全国に名を轟かした犯罪組織の下で育てられることになる。どういう経緯いきさつで正宗があたしたち姉妹を売ったのか分からない。もしかしたら、あの葬式の日、既に正宗はヤクザの組や犯罪組織に話をつけていたのかもしれない。


 ただ、あたしは大人になった今でも、幼い日の真一くんとの出会いをちゃんと覚えている。多分、死ぬまでずっと覚えている。生憎、真一くんの方はあたしや彩のことは記憶に留めることができなかったみたい。十七年ぶりの再会だというのに、あたしを見ても彼は懐かしんでくれなかった。ただ笑顔はあの頃のまま、あたしの知ってる真一くん。
 果たされなかった約束のことを思うと、少し悔しい気もするけれど。
 今はただ、二人の再会を喜んでおくことにするわ。