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 車に揺られること一時間。静かな音を立てて車は空き地のような駐車場に停車した。父親は車のキーを取って運転席から降りる。習ってあたしもシートベルトをはずし、助手席から腰を上げた。駐車場を降りると、これからあたしたちの向かう葬儀場がすぐに分かった。駐車場から百メートルも行かないところに巨大な日本家屋が構えており、玄関先には肌色の提灯が揺れていた。黒一色の人の群れがぞろぞろとその中へ吸い込まれていく。白と黒の段幕が家の塀一面に張り巡らされ、夏の生暖かい風にそよそよと揺れている。たくさんの花飾りが玄関を彩っていなかったら、手の込んだお化け屋敷みたいだ。

 あたしは父親に手を引かれ、その参列に加わった。出かけに着せられた彩の黒い洋服は、大きさはちょうど良かったけれど、あたしの好きなデザインじゃなかった。正宗がその家の人間にお悔やみの言葉を言い、お香典なんかを渡している間、あたしは俯いて、このスカートのデザインセンスについて考えていた……全く、あの二人のどっちが、こんなセンスの悪い服を選んだのかしら。
 五分で受付が済んだらしく、親父はあたしの後頭部に軽く手を添えて先を促した。
「おい、中に入るぞ」
「ねえ、父さん。この洋服、全然可愛くない。なんでこんなの買ってくるのよ」
父親はかがんで、あたしにだけに聞こえる声で囁いた。
「お前は彩と違って、本当にそういうのにこだわるなぁ」
「今度、あたしをデパートに連れて行けばいいんだ。そうしたらもっと可愛いの、見つけて来られるもん」
「分かった分かった。また今度な」
 父親はあたしを連れて広庭を通過し、荘厳な家の中へと導いた。がたいの良いおじさん達と揃って靴を脱ぐ。高い位置にある下駄箱に手の届かなかったあたしに代わって、近くにいたおじさんが靴を入れてくれた。優しく微笑んだおじさんの顔には皮膚と同化しているものずごい傷跡があり、やっぱりヤクザだと思った。このお葬式に来ている人間の殆どがそういう類の人なんだろう。現にあたしの父親だって、元ヤンで、現役のヤクザなんだし。
 玄関から何度も廊下の角を曲がって、やっとご霊前へと辿りついた。広壮なお屋敷から想像がついた通り、会場は鬼ごっこができてしまうくらい大きく、二百人以上の人間でごった返していた。人の群れで祭壇はよく見えなかったけれど、高い位置に飾られた遺影は見える。おかしなことに男女二つの写真が飾ってある。女の人も男の人もまだ若く、穏やかな笑みを浮かべて写真に写っている。自分たちが年若くして死ぬだなんて全く予想していない彼らの笑みにあたしの胸はざわついた。
「父さん」
あたしは思わず正宗の手を強く握った。正宗はあたしの視線が二つの遺影に注がれていることに気づいて、静かな声で説明した。
「二人、この家の息子夫婦が亡くなったんだよ。交通事故で。だから、今日は二人のお葬式なんだ」
そんなの、聞いていない。彩が執拗に葬式を拒んだのも、その特殊な感性が死んだ人間の数に気づいたからかもしれない。あたしは二つの死体を前に腕に鳥肌が立つのを感じた。あたしにも本能的に死を恐れる気持ちがあったらしい。ゾクゾクと迸る寒気の中、かろうじて平静を保っていられるのは、右手に正宗の体温を感じているからだ。
 しかし、その手も喪服を着た中年男性が現れると離れてしまった。正宗はその場に正座し、喪主のおじさんに重々しく頭を下げた。おじさんも目を少し伏せたまま軽く頷きを返す。
「兄貴、この度はご愁傷様で……」
「もう言うな、正宗。仕方がないことだ。奴らは自然の摂理が少し早く来ちまっただけのことさ。悔やんだところで、嘉一かいちは戻って来ん」
あたしは、そう言いながらもおじさんが目を潤ませたのを見逃さなかった。親父の義兄であるこの年配のヤクザも、身内の死をバサリと切り捨てることは難しいらしい。義弟に堂々とした素振りを見せていても、心の内はやりきれない思いでいっぱいなのだ。人生の酸いも甘いも噛み締めた男の目に浮かぶ涙を、あたしは見逃さなかった。
「ところで、そちらのお嬢さんは、彩ちゃんかい?」
しんみりとした空気を切り替えるように、おじさんはあたしを見て微笑んだ。「ちょっと見ねぇ間に、大きくなったな」
「はい、六歳になりました。あとちょっとで七歳です」
あたしは慌てて作り笑顔を見せて答える。おじさんは益々笑みを深くし、「そうかいそうかい」と言って微笑んだ。親父に促され、あたしはぺこりとお辞儀する。正宗も少し表情を和らげた。

 僧侶の読経が流れ、焼香が済み、無事に会葬を終えた。おじさんの娘夫婦の告別式は明日の十時に行われることになった。身内だけの小さなお別れの会らしいが、おじさんと兄弟の契りを結んでいる正宗も参列する。明日は彩に行ってもらおうと思いながら、長時間の正座で痺れた足を揉んでいると、正宗はあたしを抱き上げた。つま先に正宗の身体が当たるとビリビリ痺れたが、もうそんなこと気にならない。
「俺は兄貴と話があるから、お前は裏庭に行っていてくれないか?」
正宗が言った。どうして裏庭なんだろう? 首をかしげその質問をすると、正宗は微笑んだ。
「娘夫婦にはご子息がいらっしゃるんだが、その“若君”ってのが葬儀を抜け出して裏庭で遊んでいるんだ。俺の用事が済むまで、その子と遊んでやってくれ」
親父に抱きかかえられたまま、玄関先まで運ばれ、有無を言う暇なく靴を履かされた。
「悪いな。後でなんか美味いもの、食わせてやるからよ」
親父はあたしの頭を撫でると背中を押して屋敷から締め出した。
 あたしはなす術もなく帰り際の人ごみの中を縫うように“若君”の待つ裏庭へ歩を早めた。


          ◆
 裏庭は普段は日が当たっていないのか、夏でもじめじめとしていた。地面はぐにゃりとした感触で、緑色のコケがたくさん生えている。地下排水を繋ぐマンホールの凹凸に躓いて危うく転びそうになった。台所の窓際に設置された室外機が低い唸りを立てている。あたしは気味の悪さを感じながら、なんとか小さな男の子の姿を見つけた。その子の近くには巨大なカサブランカが咲いていて、まるで“若君”を護っているように思えた。台所からは金色の明かりが漏れ、“若君”も聖母の花も金色に照りかえっている。
 それはこの世のものとは思えない、幻想的な光景だった。
「だれー?」
あたしの気配に気づいて、彼は顔をあげた。女の子のように大きな瞳があたしを捉えた。
「あんた、だれ? 俺になんか用?」
彩と似て舌足らずな喋り方。関西を匂わせるアクセントの発音で、あたしは喪主のおじさんが、亡くなった息子夫婦は生前大阪に住んでいたと話していたことを思い出した。
「まず、自分から名乗るのが礼儀でしょ」
年下の少年は、あたしのつっけんどんな挨拶に少々びくついたらしく、一瞬気弱な表情を作ったが、すぐににっこりと微笑んだ。
「俺、まいち。本郷真一。いつもは大阪におんねんけど、今日はじーちゃん家に遊びに来とるんや。ねーちゃんも、じーちゃん家に遊びに来たんか?」
遊びに? おかしな表現をする男の子だ。
「違うよ。何でそう思うの?」
「庭のボンボン、見たやろ? 人がぎょうさん、おったやろ? 今日はじーちゃん家でお祭りがあんねんで」
真一が嬉しそうにはしゃいでいるのを見て、あたしは頭がくらくらした。いくら物心のつかない子供といえども、両親の葬式をお祭りと勘違いするなんて。
 真一はカサブランカの下から立ち上がるとあたしのそばへ駆け寄ってきた。馴れ馴れしい子供だ。真一は大きな目を細めてにっこりすると手に持っていたおもちゃの人形をあたしの眼前に突き出した。ビニール製の、朝早くに放映されている戦隊モノの人形だ。
「ねーちゃん、オーレンジャー知っとるか? 俺、めっちゃ好きやねん。見て見て、かっこええやろ」
「別に……」
「なんや、東京の人間はノリが悪いなぁ」
「ここ、横浜よ。神奈川県」
「どっちでも一緒やん、そんなもん」
「全然違うよ!」
さすが、関西の人間だけあって、真一と話していると漫才をしているような気持ちになる。あたしは溜息を吐きながら正宗が早く迎えに来てくれることを祈った。
 あたしたちは暫く個々に遊んでいた。真一は地面でオーレンジャーを走らせ、あたしは上空でおぼろげに輝く月を眺めていた。時折、両親を亡くした真一の将来をふっと考えたが、全然想像ができなかった。この子はこれから先、いったいどうやって生きていくんだろう。あたしのお母さんも死んでるけど、まだお父さんや彩がいるから、寂しくない。だけど、この子はひとりぼっちなんだ……。
 二十分程、そうしていただろうか、ふいに真一が呟いた。
「父ちゃんも母ちゃんも、遅いなぁ」
あたしはギョッとして真一を振り返る。どうやら独り言だったようだ。真一は地面を見つめたまま、一人遊びに熱中している。
真一はあたしよりずっと幼い。“死ぬ”という言葉の意味をうまく理解できていないようだ。だからこの盛大なお葬式をお祭りと履き違えて、もうこの世にはいない両親の迎えを待っているのだろう。
「お父さんとお母さんなんか、来ないわよ……」
あたしは呟いた。真一は人形を動かしている手を休めて、腑に落ちない顔であたしを見る。その間抜けな表情にイライラして、気づくとあたしの口からは次々と残酷すぎる真実が溢れ出した。
「あたしの母さんとおんなじで、あんたの両親は死んじゃったのよ、交通事故で。もうこの世にはいないの。もう二度と会えないの。どんな奇跡が起ころうとも、絶対に絶対に、会えないんだから。そのくらい気づきなさいよ、ばか!」
いくら鈍感な真一でも、真っ向からあたしの怒りに当てられ、わけのわからないことを言われ、さすがにカチンときたようだった。大きな目を三角に吊り上げ、あたしを睨む。
「何言うてんねん。お前、頭オカシイんとちゃうか? 俺の父ちゃんと母ちゃんが死ぬわけないやろ」
「頭がオカシイのはどっちよ! あんた、仏壇の前のお棺を見なかったの? あの中に死体が入っているんじゃない!」
「そんなわけ……そんなわけあるかい! アホ! 大体死ぬってなんや! 父ちゃんも母ちゃんもこの前まではちゃんと傍におったわい、ぼけ!」
「だけど今はいないじゃない! 死んじゃったからいないのよ! もうあんたの傍には誰もいないんだから!」
頭に血が上って、あたしは思い切り真一の頭を叩いた。平手ではなく拳骨で、叩くというよりは殴りつけた。真一の固い頭頂に右拳が当たって、あたしは指骨に一瞬鋭い激痛を覚えた。骨が折れちゃったかも。でもそんなこと、どうでもいい。
 もうこんな馬鹿の面倒を見るなんて厭。正宗、早く迎えに来て!
 真一は一瞬何が起こったのか分からないような顔をしていたが、すぐに頭のてっぺんを押さえ、うっうっうっと小刻みに震え出した。はっとしてあたしは我に帰った。心臓がドキドキと激しく脈打っている。真一を殴った手は早くもじっとりと汗をかき始めていた。その場にうずくまって痛みに堪える真一と、立ち尽くしたまま肩で息をしているあたし。
「……と、父ちゃんも母ちゃんも、死んでなんかないもん。死んでなんかないもん」
やがて真一は蹲ったまま、か細い声で呟いた。大きな瞳からは次第に大粒の涙が溢れ、間もなくぐずぐずと泣き始めた。
「な、何やねんお前、い、い、いい加減なこと言うな。あほぅ……」
いい加減じゃないもん、真実だもん……、あたしは思ったが、とても口に出して言えなかった。いつの間にかあたしの目からも涙が溢れて頬を伝い、喉が締め付けられて言葉に出来なかったのだ。
 それは真一の為に流れた涙ではなく、あたしの母親を思って零れた涙だった。あたしは今までなんとも思っていなかった母親のことを思い出したのだ。
 思い出すといっても、記憶にすら残っていないお母さん。未来永劫、会うことができないお母さん。悲しかったのは、あたしはお母さんの代わりに正宗を喜ばせてあげることが出来ないと、気づいたことだった。あたしも真一と同じで、両親は死んだりしない。死んだとしても、いずれ戻ってくるだろうという漠然とした期待を抱いていた。しかし、死者は蘇らない。お母さんはこれからもずっと死んだままで、あたしは大切な人を失った正宗の心の傷を癒してあげられない。それが、何より悲しかった。
 あたしはボロボロと涙やら鼻水やらを流している真一の傍にしゃがみ込んで、頭を撫でた。彩が泣いた時、よくそうしてあげたように。真一の髪の毛は短くてザラザラして手が痛くなったけど、あたしの殴ったところに目立った傷は見られなかったので安心した。
「……ねーちゃんの母ちゃんも、死んだんか?」
鼻をすすって、妙にガラガラした声で真一は聞いてきた。あたしは頷く。
デザインの悪いスカートからあたしはハンカチを取り出して、真一の顔を拭いてあげる。
「ねーちゃん、寂しくないんか?」
「あたしには父さんがいるから、平気だもん」
「ねーちゃん、強いなぁ」
「別に、強くない」
「ねーちゃんは……」
「ねぇ、その“ねーちゃん”っていうの止めてよ。あたしにはちゃんとした名前があるんだから……」
 あたしは凛、と言いそうになって口をつぐんだ。この子に、あたしの本名を明かしても良いものか、正宗との約束が脳裏をよぎった。


 物ごころのついた頃から、正宗には、家の外にいる間はずっと彩でいろと厳しく言われている。彩と呼ばれたらあたしは返事をし、自分を龍頭彩と名乗る。ずっと前から定められてきたルールだ。当然、真一の前でも彩と偽らなければならない……。
 真一は頭の上に疑問符を浮かべてあたしの顔を見ている。純真な瞳があたしを真っ向から捉え、あたしはなんだか背中がむずむずした。彩の名前を名乗っても、なんだか嘘がばれそうな気がした。それ以前に、この子には彩という名前であたしを受け入れてほしくないと思った。正宗と同じように、真一にはあたしのことを凛と呼んでもらいたい。あたしを、ちゃんと受け入れてほしい。
「龍頭……凛」
 あたしは結局、本名を名乗ってしまった。意を決して重大な秘密を明かしたにも関わらず、真一の反応は、ふーんという素っ気無いものだった。
 正宗やこの家の人間の前で本名を呼ばれても困るので、あたしの名前を人前では絶対呼ばないでね、あたしは好きな人にしかこの名前を教えたくないんだから。人前では凛じゃなくて、「彩」って呼ぶのよ、とあたしはかたく釘をさした。真一は理解したのかしないのか、ぼんやりとした頷きを返したが、未だ腑に落ちない顔のまま、後頭部を掻いたりしている。
それから少しだけ経って、
「ねーちゃんはねーちゃんや」
真一はそんな結論を出したので、あたしはひどく脱力した。