Remember. I love you.


 あのときのことを、今でも思い出すの。
 まるで、昨日のことのように。

 昔から、生命の神秘とか愛の行く末とか理性の裏側に、興味があった。
 齢六歳にしてあたしの持つ疑問は、「赤ちゃんって何処から来るの?」なんて可愛げのあるものではなく、「なんで大人ってセックスするの?」という具体的なもの。子供らしくない言い方で、あたしはかつて父に尋ねたことがある。親父はひとしきり爆笑した後、躊躇いもなく「ヤりてぇからだよ」と述べた。全く答えになっていなかったけれど、隠しだてしない台詞がいかにも寡夫かふっぽくてあたしは好きだった。
 その年の蒸し暑い夜のことだ。女の喘ぎ声がやけに大きいと思ったら、下階にいる姉妹の泣き声が混ざっていたようだ。
 あたしはウンザリしながらビデオデッキからアダルトビデオを取り出すときちんとカバーにしまい、押入れの奥へ突っ込んだ。以前、似たようなビデオをきちんと箱にしまわずに入れたら、鼠がビデオのビニールをビリビリに食いちぎってしまい、ひどく親父に叱られた事がある。加えて、こんな刺激の強いビデオが間違っても姉妹である彩の目に晒されてしまったら、彼女は人間不信に陥ってしまうだろうと思えたからだ。彩はあたしと違ってセックスに興味もなければ、知識も耐性もない。
 だからあたしは、事後処理というのか、その辺りの管理はきちんと行っている。今だって扉にはしっかり鍵をかけていたのだし。
部屋に静寂が戻った途端、下階の泣き声が勢いを増してひどくなり、あたしはしぶしぶドアを開けて一階に降りた。


「厭、厭、厭!」
リビングではあたしと同じ顔がしわくちゃに歪み、大声を上げて泣いていた。彩がこんなにハッキリと拒否の意を示すなんて珍しい。
「どうしたの?」
「凛ちゃん、お父さんがー」
彩はもう一つの自分の声に気がつくと、涙を流していない方の自分の下へ駆け寄った。あたしはそんな彩を抱きしめると、よしよしと頭を撫でてやる。彩の肩越しに向こうを伺うと、あたしたちの父親――龍頭正宗は困ったように頭をかいていた。
若干二十四歳の父親は女の子の機嫌を取る術が分からないらしい。
「お、お、お父さんが、お、お葬式に、い、い行けっていうー……」
 泣きじゃっくりの合間を縫って、彩は舌足らずな喋りで、なんとかあたしに事情を説明した。正宗はリビングのソファにドシンと腰を下ろし、自分の前髪をいじりながら、時折あたしたちに目をやっている。彩が言うようにこれからお葬式に行くらしい。正宗はノリのはったきれいなスーツを着ていた。
 彩から聞いた話では、正宗の知人が昨日亡くなったのでそのお通夜に行くということだった。彩にはなんとしてでも同行してもらわなければ先方に角が立つという。しかし、彩は絶対に、何があってもお葬式には行きたくないらしい。
「どうして?」と聞いたら、「お母さんを思い出すから」とのことだった。
 病弱だった母が死んだのは、あたしと彩が生まれてからすぐの事で、記憶に残っているはずがない。少なくともあたしは自分を生んだ母親のことなんて覚えていない。きっと彩も記憶のかけらにも引っかかっていないはず。故に母親のことはお葬式に行かないためのこじつけだろうが、いくらあたしが説得を試みても決して首を縦に振ってくれなかった。
 きっと彩は本能的に「死」を恐れているんだ。
 大人びた知識がない代わりに彩はそう言った霊的なものを感じ取る力に長けている。あたしは時折、彩の瞳がこの世の全てを見透かしているように思えてギョッとする。俗世の些事を超越したような、神がかった瞳。きっとこの子は霊感があるんだ。
そんな彩が、全身全霊でお葬式を拒んでいる。これは何を言っても考えを変えてくれそうになかった。
「父さん、駄目よ。彩、絶対葬式に行かないつもりだよ」
「むりやり連れていったら、もうお父さんとおしゃべりしない!」
あたしの判断に、彩の脅しも加わって正宗は唸った。目をつぶって暫く何か考え事をしていたが、困り果てた父親の目は彩ではなくあたしに向いた。
「凛……行くか?」


          ◆
 あたしは助手席でシートベルトを握り締め、運転する正宗の顔を伺った。さすが元ヤンのヤクザだけあって、先ほどの動揺はどこへやら。今は落ち着き払った表情で、ハンドルを握っている。
 あたしは我が子を上手くコントロールできないで狼狽する若い父親よりも、仕事をしている時の落ち着いた正宗が好きだった。めったに見せてくれない、家庭とは違う仕事の顔。正宗の瞳は何の感情もなく澄んでいて、殺伐とした雰囲気さえ漂った。横浜の様々なネオンに輝く正宗の横顔のライン。トンネルに入ると侘しいオレンジ色の光彩があたしたちに降り注ぐ。熱い炎の中、二人で燃えてしまっているよう。
 好きだ、とあたしはこの快い気持ちを再確認した。
 父さん、あたし、あなたが好きよ。この気持ちはきっと父親に対する愛情とは違うと思う。誰に教わったわけでもないのに、あたしには分かるの。男として、正宗が大好き。もうずっと前から、好きで好きでどうしようもないの。泣けてくる。
 娘ではなく女として、あなたを喜ばしてあげられたらいいのになあ……。
「凛」
あたしがぼんやりとそんなことを考えていると正宗は言った。
「煙草、吸ってもいいか?」
 あたしが頷くと正宗は車の窓を開けて懐から黒い煙草を取り出した。黒一色のパッケージ。デザイン性を全く無視したシンプルな煙草。中央に「JUNK&LACK」という文字が目に入ったが、日本語すら上手く読めないあたしには、それが何を意味する言葉なのか分からない。正宗は器用に片手で一本取り出し、オイルライターで火を灯すと噛み締めるように一服吸った。もっと正宗の声が聞きたくて、あたしは尋ねた。
「父さん、何で皆にあたしのことを秘密にするの? お出かけするときは必ず彩のフリをしなきゃいけないのは何故?」
 常々疑問に思っていたことだ。素直に双子として育てればいいものを、何故かあたしは色々な局面で彩の身代わりのような役目を仰せつかっている。そのことを除けば、正宗は分け隔てなくあたしたちを育ててくれているが、あたしは心中で光の中にいる彩に嫉妬していた。あたしだって龍頭凛というちゃんとした名前があるんだから、正式に正宗の娘として公表して欲しい。彩の代わりなんて厭。
 あたしが少しだけへそを曲げたのに気づいて、正宗は苦笑した。大きな手をあたしの頭に置いて、
「俺だけの凛でいて欲しいんだよ」
なんて甘えた声で言うので、あたしは機嫌を良くして正宗を許してしまった。
 実の父親だけに娘のことを熟知している。機嫌を取るのがとても上手。
 このままキスをせがんだら正宗はちゃんと応えてくれそうに思えたけれど、こわくてやめた。