SGNAL.


二年間同棲していたフランス帰りの女は言った。つい、一週間前のことだ。
「そろそろ子供が欲しいですって? それじゃあ、アンタとはここでお終いね」


「はい、どいてどいて」
 ざわめく野次馬の群れを強引に通り抜ける。奴ら、この事件が発生して二時間以上もたっているというのに、一向に減る気配はない。
 この中で銃弾でも一発ぶちかましてやろうか? そうすれば、この人ごみもあっという間になくなるのではないか? いや、100Hzの銃声よりも、彼らの話し声、ざわめきの方が大きいに決まってる。これは得策ではないな。無駄な抵抗はやめよう。
 全く、奴らは警察をその辺の植木かなんかだと思っていやがる。いつか、全員まとめて職務執行妨害で逮捕するぞ。
 アランは内心で彼らにそう毒づいた。百人の人ごみの中に、一人でもサイキックな能力の持ち主なんかがいて、自分の心の内を読み取っていればいい……などという、くだらないことを祈りながら。
 皮肉な歓迎者たちを押し抜けると、アランの目の前には数台のパトカーや救急車が頭の赤いランプをギラギラさせながら停まっていた。同僚から聞いた話では、今回の事件に死者はいないとのことだったが、これではまるで大災害や大規模テロ直後のような有様である。アランは思わず口笛をひゅうっと吹いた。
「たかが子供一人にご苦労なこった」
皮肉を九十パーセント程含んだアランの呟きに、近くにいた警官が振り返った(彼は身体を張って、見物人たちをこれ以上現場に踏み込ませないように、足を踏ん張っていた)。
 アランよりも一足先に現場に辿りついていた、同僚のエリックである。
「遅かったな」
「ああ。ちょっと渋滞にハマってな。――ったく、緊急事態だってサイレンを鳴らしてんのに、誰も道を開けやしねぇ。車だけじゃない、あそこにいる野次馬たちもだ」
ニューヨーク市民はとことん俺たち警察をバカにしてやがる。アランは人種の様々な同胞をなじりながら、さらに現場の奥――事件現場の中心部へと足を進めた。野次馬の相手はウンザリしたのか、後ろ盾のようにしてエリックも付いてくる。
 現場といえども、なんてことはない。アランの目の前に姿を現したのは、昨日も一昨日も三日前も同じ、全く代わり映えしない河川敷の光景だった。(もっとも傷害事件ではないので、当たり前なのだが)血も飛び散っていなければ、惨殺死体もないし火薬の臭いの残る薬莢も転がってはいない。黒のジャンパーを羽織った某の人間で賑わっていることを除けば、アランが通勤時に通るいつもの河川敷となんら変わりはなかった。むしろ――周囲がどんちゃん騒ぎのせいだろうか――川のせせらぎがいつにも増して穏やかに見える。
「昨日のマフィアの一件に……」
背後でエリックが口を開いた。
「……関係があるかも知れないそうだ。あれは君の管轄かんかつだったろ」
「だけど、あの事件は何十キロも下流でのことだ」
 アランは昨日の或る男(エリックの言うとおり、マフィアと絡んでいる可能性が高い)の水死体を思い出して、微々たる吐き気に襲われた。あの水風船のようにむくんだ顔、白く濁った目……腐敗状況から、ここ二、三日以内に死んだ可能性が高いとされている。今頃は検死の方で、その水気たっぷりのファニーボディーにメスが入っている頃か。アランが本腰を入れて捜査を開始するのはその後だった。
 滑稽なファット・マンの姿を想像したら、競り上がる吐き気がニヒリストのような味気ない嘲笑に変わった。
「まあ、昨日の事件に関係しているか否か、被害者に会って話を聞けば分かるだろ。その子供に会わせてくれ」
アランが尋ねると、
「会ってもいいけれど、ちょっと問題アリなんだよなぁ」
エリックは困ったように頬を掻いた。

          ◆

 子供は茶色の毛布に包まっていた。なるべく自分の面積を大きくしないようにしたいのか、丁度体育座りをするような体勢で、大人用の即席椅子の上に縮まっていた。そして、茶色いマントの上に乗っかった小さな顔は青白く、不安な表情に歪んでいるのだった。
 身動き一つしない小さな体躯たいくとは反対に、北欧を思わせる大きな灰青色の瞳は、忙しなく泳いでいる。色の薄いブロンドは水に濡れ、額にぴったりと張り付いている。毛先から滴った水が、絶えず頬から顎へと滑っていく。まつげの長い、中々賢そうな顔をした男の子だ。
 果たして、年齢はどれくらいだろう。二桁にまでは満たないと思うが、いかんせん、子供のいないアランに、外見だけでこの子の年齢を判断することは至難の業だ。
「やあ、ボク」
アランは出来るだけ優しく子供に問い掛ける。
「年はいくつだい?」
子供は答えない。ただ、つぶらな瞳をパチパチさせながら、アランを見返すだけだ。アランはもう一度、同じ質問を投げかけたが、またもや戻ってきたのは無言の空気だった。うん、ともすんとも答えない。子供は瞬きを繰り返しながら、首を傾げるだけである。
 ひょっとして心因性記憶障害でも起こしているのだろうか?
 何らかの原因で、多大に精神的ショックやストレスを受けたりすると、一定時間だけ記憶傷害を起こす事があるという。もしや、それか? この〝小さな彼〟はその障害に掛かっているのだろうか。アランは一瞬そんなことを考えたが、その推理も〝彼〟の一言で的外れだということを知ることとなった。
〝彼〟は数秒黙り込んだアランを、目を瞬かせて見ていたが、やがて口を開いた。そこから出てきたのは、クリアに響く違和感のある言葉だった。
「オジチャン、ナニイッテイルノ? ボク、ゼンゼンワカンナイヨ」

          ◆

「確かに、問題アリだな」
アランは唸る。隣ではエリックが三、四冊の分厚い辞書をパラパラとやっている。本の表紙にはそれぞれ、「English - japanese Dictionary(英和辞典)」、「English - Chinease Dictionary(英中辞典)」、「English ? Corean Dictionary(英朝辞典)」と記されており、アランでも見たことのない「English‐ Indian Dictionary(英インド辞典)」なんていうマニアックなものまであった。二人がパラパラと辞書をめくる中、外見は北欧の人間のそれなのに異国語を操る子供は、尻の座りが悪いのかどことなく落ち着かない様子でことの成り行きを見守っていた。
「今朝、ジョギング中の男性が〝彼〟を見つけてね――川岸にびしょぬれの泥だらけで立ち尽くしていたらしい。声をかけても反応がない、抜け殻のような状態だったんだよ」
インド語辞典をめくりながらエリックがこの事件の経緯を説明した。
「〝彼〟(子供を親指で指し示して)、幾分か回復してきているけどね」
言葉が通じないのだから、コンタクトの取りようがない。だからこんなに捜査が長引き、野次馬が沸いていたのだ。
「やっぱり、ジャパニィズかな」
やがてエリックが唸りながら言った。頬杖をついた怠惰たいだな姿勢で辞書をめくっていたアランから英和辞書を取り上げる。
「アジア方面の言語に違いないんだ。チャイニィズとは違ったアクセントだし、コリアンは今なにかとニュースで騒いでいるから、耳にした覚えはある。――どうも、この子の使っている言葉とは違うみたいだ――僕、日本語だけはあまり聞いた事がないんだ」
「俺ぁ、外国自体興味がないからなぁ。チャイニィズもジャパニィズも聞き分けがつかねぇよ」
「つまらん男だな、君は」
そんなことを言われても、興味が無いのだから仕方がない。アランにはこのNYの治安維持で手一杯だ。
 やがてエリックは英和辞書のあるページを捲ると、やや声を高くして発音した。
「……何て言ったんだ?」
アランが横から尋ねると、エリックは答える。
「彼に、〝何が起こったのか〟って聞いたんだよ。――君、手伝う気がないなら、ちょっと黙っていてくれ」
へいへい、とやる気のない返事をして頭の後ろで手を組むと、アランは二人のやり取りを見守った。エリックが次々と違和感のある言語を発していく中、子供は腑に落ちない顔で首を捻ったきり、何の返答もしなかった。
 うーん、と頭を掻くエリック。眼鏡のツタを持ち上げると、また辞書と睨めっこをしてはよく分からない言葉を発する。しかし、子供は困惑した表情で首を捻るばかりだ。
「おいおい。全然通じてねーじゃねぇか」
「おっかしいなぁ。確かに日本語だと思ったんだけど」
「お前の発音に問題があるんじゃないのか?」
アランの言葉にエリックは肩をすくめる。そして、しぶしぶといった様子で、「そうかもね」と認めた。
「誰か、専門家に聞いた方がいいかもしれない。翻訳の専門家とか」
「ジャパニィズのエキスパート……サユリはどうだ?」
アランの呟いた古い友人の名に、ああ! と閃いた様子でエリックは手を打った。大きな声に、訳の分からない様子で首を捻るばかりだった子供がびくっと肩を震わせた。