二時間後、現場にいた同僚達や野次馬の数が少なくなったところを見計らって、アランとエリックは子供を、警察と連携している大学病院へと連れ出した。丁度、検視官である時籐ときとう小百合さゆりが病院で病理解剖をしている、という連絡が取れたからである。
 サユリはコンニチワ、とアランでも知る日本の挨拶を子供と交わした後、難しいアジアの言語で暫く子供とやり取りをした。子供は言葉の通じる相手に出会えた事で、幾分か笑顔を取り戻していた。
 暫くしてサユリはふぅ、と小さく息を吐くとアランとエリックに伝えた。
「この子、記憶をなくしているわ」
二人とも目を丸くしてサユリを見つめる。
「このガキが? マジかよ……」
アランは素っ頓狂な声を上げるが、サユリは首を縦に振るばかり。サユリの隣に立つ子供は、態度が急変したアランに声を押し殺して笑っていた。
サユリは静かな声で続ける。
「話を聞いたところによると、この子、川に落ちたところまでは覚えているらしいんだけれど、それ以前の記憶はないみたい。こうして普通に会話をしたりしている所から、日常生活に関することの記憶――例えば、歯を磨いたり、ご飯を食べたりすることね――は失ってはいないみたいだけど」
サユリは子供の金色の髪の毛を撫でる。そして静かな声で言った。
「それ以外の記憶は一切ないわ」

           ◆

 三日後、アランはサユリに呼ばれて大学病院へと顔を出した。
 あれから例の子供はサユリの指揮の下、身体検査や精神鑑定を受け異常がないか調べられた。その結果が今日出るということだった。その知らせを受けた時、アランはマフィアの水死体の捜査の真っ最中だったが、同じ捜査班のメンバーに無理を言って抜け出してきたのだった。
 大学病院の一室、サユリのラボに到着すると、そこには真剣な面持ちで数枚の書類を持ったサユリが待っていた。
「貴方っていっつも遅刻するわよね」
痛いところを突いたサユリの挨拶に、アランは頭を掻く。
「ちょっと、捜査の方が取り込んでいたんだよ」
「どうなの、マフィアの件は? 何か進展あった?」
「全く、お手上げだ。今日はマル被が沈んでいた地点から半径三十キロまで捜査範囲を拡大したんだが、何も証拠が出てこない」
アランがホールドアップをすると、サユリは手に持つ書類をひらひらとそよがせた。
「それじゃあ、これが今日一番の証拠になるわね」
「何? どういうことだ?」
驚いた表情のアランを手で制し、サユリは書類をめくる。
「あのジャパニィズ・ボーイの測定結果を報告するわ。少年の染色体はXYで男……当たり前ねこんなの。これといった深刻な持病も怪我もなし……強いて言えば、奥歯が虫歯になっていたことくらい。性感染症の疑いもなし、ついでにドラッグの使用痕も見つかってない。精神異常・錯乱もなし。それから、これが驚くべき事項なんだけれど、知能指数は135。けっこう高いの」
「高いのか?」
アランの言葉にサユリは頷く。
「少なくとも、貴方よりずっと優秀よ。それから……」
サユリは新たにページをめくった。今までの機械的な検査結果の報告と一転してかなり躊躇いがちに、一言一言をゆっくりと喋る。
「貴方の調査しているマフィアの水死体事件、この男の子の事件と同じ水流で起こったのよね。だから、この子も関わっているんじゃないかと思って、水死体の科学捜査班に連携調査を依頼したの。その結果が……見てよこれ」
サユリはある資料をアランに差し出す。そこには青と緑の波のようなグラフが四本のたくっていた。グラフの上には0~500までのメモリが振ってあり、数cm置きにグラフが急斜面の山のような形に盛り上がっている。ピークに達したグラフには「15」、「28」などの数値が表示されている。メモリの一番左隅には「XY(男性)」の記号。
「なんだこれ、どういう――」
「――こと? なんて、貴方まさか聞くんじゃないわよね?」
言うより先にサユリに釘を打たれ、アランは曖昧に笑う。どこかで見たような線グラフだったが、それが思い出せない。首を捻るアランにサユリは嘆息したが、やがて線グラフを指して説明した。
「いい? これはね、STR法っていう、とってもメジャーなDNA鑑定法なの。人間、一つの遺伝子座には必ず父親と母親、二つの型が組み合わさって出来ているってことくらい、警察学校で習ったでしょ? これはその二つの型の調べたいほうの遺伝子を差し引いた残りにして、親の遺伝子と重ね合わせて検証する方法なの。今回の場合は、母親の遺伝子を調べるというような形にして、彼と水死体のDNAが合致するかどうかを調べてみたのね。結果、父親の遺伝子座と九十九パーセント一致したわ」
「つまり……あのガキとマル被は親子なのか?」
アランは思わず声を荒げた。サユリは神妙な面持ちで頷く。
「あのガキは今どこに!?」
「水死体と血縁関係にあると分かった瞬間から、貴方のチームの手の内よ。今は事件の事情聴取に当たってる――って言っても、彼は記憶をなくしているから、そこから大した情報は得られないでしょうけれど。まだこの病院内にいるはずよ」
 突然、部屋の外でバタバタと、運動会の徒競走でもしているかのような音がした。床が微かに振動する。病院に似合わない騒々しい音は段々と大きくなり、それが子供二、三人の他愛ない鬼ごっこなどではないということが分かった。大人の大きな声が聞こえたからである。
「誰か! 彼を捕まえてくれ!!」
言うや否や、ラボの扉が乱暴に開け放たれた。滑り込むように小さな人影が侵入して、扉近くに立っていたアランの腰に激突する。アランは微かによろめいたが、どうにか持ち直した。
目下を伺うと、いましがた話題になっていた子供がプラチナに近いブロンドを揺らしながら腰に抱きついていた。子供は恐怖に強張った顔つきでアランを見上げると、必死にドアを指差して何やら捲くし立てている。昨日と同じ、アジアの言語だ。
「何て言ってんのか分かんねぇよ」
「〝酷いことをされた〟〝怖い人たちが追いかけてくる〟」
すかさずサユリが通訳をする。
子供は何かを訴えかけるようにアランを深く見据えたが、アランには理解できない。サユリだけは感心したように溜息を漏らすと、
「一度ここへ来ただけなのに、この広い病院の中でもう私の部屋を記憶している。さすがだわ」
科学者の目になって子供をじっと見据えた。きっとこの子供の持つ知能指数に興味があるのだろう。一体、何が〝さすが〟というのか。これだから生物学専攻のインテリは困るぜ、とアランは呟いたがサユリの耳には届いていないようだった。
アランは自分の腰から子供を引き離すと、彼の目線の位置まで腰を屈めた。子供は不安な顔をしたまま、絶えずラボの外に気をやっている。先ほどの大人たちの足音はラボの前を通過して、彼方へと吸い込まれていった。
「あー……もしかして、事情聴取が恐いのか? 知らない大人がたくさんいたりして?」
サユリが日本語で通訳すると、子供は頷いた。
「いえす」
……一丁前に英語の応対を覚えやがって。
子供の訛った「いえす」を聞きながら、何だかいじらしくなるアランである。
「それで、逃げ出してきたのか?」
「いえすいえす」
子供は大きく頷く。事情を説明しているうちに、事情聴取での恐ろしい出来事が頭の中で回想されていたようで、子供の大きな瞳には涙が浮かんでいた。彼は俯くと小さな肩を震わせた。
「おいおい、泣くなよ男だろ?」
アランは子供を抱き上げ、涙を拭いてやる。
しかし、アランは分かっていた。生物学的上の父親は水死体で発見された上、全ての記憶を失っている彼の立場で、泣くなという方が無理な注文だ、と。
「死」というものをまだ正しく認識できない年の彼だから、恐らく自分の置かれた立場も理解していないのだろうが、それでも不憫に思えてならなかった。
アランに抱っこをされた子供は、いつの間にか泣き止んでいた。自分の130cmの視界から175cmの世界に目が届くようになった事が楽しいらしく、興味津々に辺りを見回していた。子供の感情の切り替わりは早い。アランは苦笑した。
「泣いていたと思ったら、もう笑ってやがる。……ガキってのは、単純な生き物なんだな」
隣でサユリが微笑んだ。
「まったく、貴方とおんなじね」