その日、どのニュース番組にも速報が入った。フィアスがそれを知ったのは午前五時。朝刊を取りにホテルのロビーへ向かおうと、入口のドアに手を伸ばしかけたとき。見慣れない黒い紙がドアの隙間に挟まれていることに気づいたからだ。こんなもの、夕方にはなかった。深夜に届けられたのだろうか。それにしては、この階へ上がってくる人間の足音を聞いていない。
 イヤな予感がしてドアから紙を引き抜くと、それはただの紙切れではなく、一通の封筒だった。黒く薄い封筒。かさかさと音がする。差し出し人の名前はない。切手もなし。
 宛名の部分に、子どもが書いたような、たどたどしい白文字でこう書かれていた。


Herrn Firce und Fraulein Rin
親愛なるフィアスとリンへ


 名前の前につける敬称は、ドイツ特有のものだった。
「まさか、冗談だろ……」
 激しくなる動悸を抑えながら、慎重に封を破る。開けた途端、いきなり爆発する可能性もなくはなかったが、それにしては封筒の質量が軽すぎる。中身は手紙か、もしくは書類の類だろう。案の定、封を開けると、中から一枚の紙が出てきた。羊皮紙のように分厚い立派なもので、封筒の色と同じく漆黒、装飾ひとつない。大きさから、手紙というよりは名刺みたいだ。
 ここにも、ドイツ語で、子どもが書いたような金釘文字が書かれていた。

〝近々、君たちを私の世界に案内してさしあげましょう〟

 カードの中央に書かれたその一文から、フィアスは暫くの間目をそらすことができなかった。
 これは悪戯か? ……いや、そんなはずはない。セキュリティの厳しいこのホテルの二十階に、悪戯を施そうと考える人間なんていない。そもそも、一般人がこのフロアに上がってきたのなら、自分が気づかないわけがない。
 つまり、これは紛れもなく〈サイコ・ブレイン〉からのメッセージだということだ。それも、悪夢のようなメッセージ。
 他にも何か入っていないかと封筒をふるうと、まだ紙の中で音がする。逆さにすると、ぱらぱらと何かが足もとに落ちた。何か……薄い、貝殻のようなもの。貝殻に似て非なるもの。今までに何度か見たことがある。
 十枚あるうちの一枚をつまみ上げて、フィアスは溜息をついた。
「ツメ、か」


 手に取った新聞紙の第一面、一番目立つ部分に黄色と赤の見出しが躍っていた。
〝身元不明の男性遺体、発見〟
 ソファに腰をおろし、煙草をくゆらせながら、記事を読み進めていく。新聞は仰々しい言い回しを何度も繰り返し、的外れな憶測をところどころに散りばめていたが、情報だけを集めてみると大したことはない。
 せいぜい、横浜港に若い男の死体が浮かんでいて、皮膚の一部がはぎ取られた形跡があり、警察は身元の特定を急いでいる。そして、男の死因は、致死量以上のコカインを摂取したことによる急性中毒である、といったところ。全ての新聞で同じような事件概要を確認すると、フィアスは新聞をまとめてゴミ箱に捨てた。ソファに戻り、頭を抱える。部屋のカーテンは朝の光を遮断しきれずに青く光っている。仄明るい部屋に、黒い封筒と誰かのツメがよく見えた。ソファ前のテーブルの上に置かれたそれらは、見方によってはシックなインテリア小物に見える。元からテーブルにあったように、魔術的な早さでこの部屋に馴染んでしまっているのだ。
「キョウヤ、お前はどういう殺され方をしたんだ……」
十枚のツメを見ながら、フィアスは呟いた。
 このツメは間違いなく彼のものだ。横浜港に浮かんだ若い男の死体はキョウヤで、彼の「皮膚の一部」を〈サイコ・ブレイン〉は封筒に包んで親愛の証のように送りつけてきた。龍頭凛に見せたかったのだろう。悪趣味を通り越して下劣だ。フィアスはツメとカードを封筒にしまうと、壁際のキャビネットの、エアメールの束の中に突っ込んだ。凛には絶対に見せられない。友人のはぎ取られたツメなんて、むごすぎる。
 ただ、キョウヤの訃報ふほうは伝えなくてはならないだろう。ニュース番組のけばけばしいテロップを見る前に、知らせておいた方がショックもやわらぐ。といっても、この知らせを聞いて、凛がどのような反応をしめすのか、フィアスには全く予想ができなかった。予想が出来ない分、対処もできないだろうな、と自覚する。今だって、慰めの言葉一つ、思いつかないでいる。
 凛の部屋に続くドアをノックしながら、早くももどかしい思いがした。