君の傍にはいつだって


 周囲にはオトナがいた。人数ははっきりしない。一人の時もあれば、七人以上の大所帯の時もある。全員、北欧系の血が混ざっている。俺を取り巻くように輪を囲んで、じりじりと追い詰めてくる。身の危険を感じて後ずさると、腰の辺りをしたたかに打った。
 振り返るとすぐ後ろに橋の欄干があり、それを超えた先、十メートル下の地上では大きな川が混沌こんとんの渦を巻きながら、絶えず獲物を待ち構えている。
 恐怖に戦いて、すぐ傍にある太い腕に抱きついた。数多のオトナの中で唯一、俺の味方。俺はその人物を信頼していたようだ。殆ど、盲目的に。
 ――恐いよ、父さん。
 歯をガチガチ震わせながら、そのようなことを口早に訴えた。恐怖でいっぱいだったが、心のどこかで、このオトナが助けてくれると信じていた。オトナは俺より何倍も大きい。頑丈な体つきをしていて、殆ど巨人と言っても良いくらい。その見事な腕っ節で、目の前の悪党どもを一人残らず殴りとばしてくれるはず……そうだろ、父さん?
 父親は咄嗟とっさに小さな俺の身体を抱き上げ、俺は彼の熱い体温に安堵する……のも束の間。
 ずっと、何物にも代えがたい信頼を置いていた唯一の肉親は、大きな手で俺の首を締め上げる。驚きのあまり暴れる事もできず、俺はそいつの目を――水を含んで眼球が白く変色した目を凝視する。父親の皮膚はどろどろに溶け、肥大化している。
 水死体だ。
 ひとしきりなぶられて、そして彼は締め上げていた両手をぱっと離した。欄干の上から、俺は真っ逆さまに川底へ落っこちる。
 水の中は無音だ。暗くて、冷たくて、息が出来ない。最後の酸素を吐き出しながら、俺は疑問と絶望に苛まれている。

 どうしてだ……どうして俺はあんたに殺されなくちゃならない? 
 ずっと、ずっと信じていたのに!
 どうしてぼくを殺したんだ、父さん!


 目を開ける。天井の小さなライトが視界に届いた。呼吸は荒く、全身に冷や汗をかいている。胸糞の悪い夢を見た。フィアスは眠っていたソファから上体を起こす。頬に水が滴って、汗かと思い跡を辿ると、それは目じりに続いていた。
 ルディガー・フォルトナー。聞き慣れた名前を小さく呟く。
 ドイツに生き、アメリカで死んだ小物のマフィア。世界から追われる身となった男。半分同じ遺伝子を持つ、生物学上の父親。
 今から十七年前、そいつの行いが原因で、一緒に始末されかけた。ルディガーはヨーロッパ中の悪党から恨みを買っていて、世界中を逃げ回っていた。七年も、八年も。逃亡中に子供ができてもなお、追跡の手は緩むことがなかった。そしてアメリカへ亡命の最中、ルディガーは某の人間に橋の上から突き落とされた……親子もろとも。自分はかろうじて一命を取り留めたが、ルディガーは駄目だった。
 相当のショックがあったためか、橋から落とされる以前の記憶は何一つ覚えていない。自分はどこで生まれたのか。名前は? 生年月日は? 全てルディガーが冥土の土産として持って行ってしまったようだ。
 ただ、一つ、忘れがたい事実がある。
 今まで何回も夢に見てきたから、それは真実なのだろう。
 橋の上から自分を放り投げたのは、殺し屋ではない。
 紛れもなく、ルディガー・フォルトナー。

 ふと、キッチンで何かを炒めている音が耳に届いた。まるでこれ以上あの事件のことを考えるのを阻止するかのように。
 龍頭凛が料理をしているらしい。ジュージューと食欲のそそる音を出している割に、鼻に届く臭いに違和感がある。焦げ臭さというか、魚臭さというか……死臭を具体的な臭いとして提出した答えがこれだと思えるような。フィアスは眉をひそめる。関わり合いになりたくない気持ちでいっぱいだったが、面倒を起こされては厄介やっかいだ。仕方なくソファから立ち上がる。
 キッチンでは案の定、凛が料理をしていた。白い煙を充満させながら、肉と野菜と魚を同時に大きな中華鍋に放りこんで、近くにはラー油とオイスターソースの空瓶が転がっていた。悪臭の原因は大量のオイスターソースから発せられる磯臭さだったらしい。鼻の上に汗を掻きながら、大きなおたまで大鍋をかき混ぜている。食材はどれも黒ずんでいる……。
「何を……したいんだ?」
 途中で質問の内容を変えて、フィアスは言った。声を聞いて、凛はフィアスの存在に気づいたらしい。背を向けたまま、
「料理してるの」
忙しげに答える。
「暇だったから、久しぶりに料理をしようと思って。これ食べたら、貴方の記憶も戻るかも知れないわよ!」
「……前回料理をしてからどのくらい経つ?」
焼き過ぎて真っ黒になった豚肉をひっくり返しながら、凛は宙を仰ぐ。
「そうね……十年ぶりくらいかしら。十三歳の時、彩と二人でバースデーケーキ作ったの。それが最後かな」
「それは……結構なことだな」
「もう少しでできあがるからね」
「やっぱり一人分じゃないのか」
「やだ。こんなにたくさん、一人で食べきれるわけないじゃない」
「そうだよな……」
 話をしている間にも状況はどんどんひどくなっている。が、本人は至って真面目にやっているらしい。あからさまなこの違和感に気付かないというのも、ある種の才能だ。放っておけば、自分まで「料理の餌食」になるのは必至。
 フィアスは携帯電話を取り出すと、後ろ手に本郷真一に電話をかける。
 数秒の果てに真一の嬉しそうな声が聞こえて、すぐさまフィアスは凛に携帯電話を渡した。
「ホンゴウマイチが、君に重大な話があるらしい」
「えぇ? 悪いけれど、後にしてくれないかしら? 今お料理中なの、分かるでしょ?」
「今すぐにでも、話がしたいそうだ」
「うぅーん……」
「料理は俺が見ておくから、出てやってほしい。向こうは相当、切羽詰まっている」
凛は暫く無言で料理を続けていたが、区切りのついたところで携帯電話を受け取った。その場で話し始めようとする凛の腕を取って、フィアスはリビングへと連れて行く。他の部屋と同様に、リビングとキッチンは鍵付きのドアを挟んで隔たりがあるのだ。静かな部屋で話したい内容らしい、とかなんとか、多少無理のある理由をこじつけて、凛を混沌の部屋から連れ出すと、ドアについた鍵をかけ、完全にこの殺人部屋は密室状態になったわけだ。
「フィアス、分かってるわよね? あたしの料理がダメになったら、あんたのせいよ。 真一くんと話がついたら、すぐ戻ってくるから!」
扉の向こうから、龍頭凛の声が聞こえてきて、思わずため息が漏れる。最近はどうにもあの女の尻拭いが多い気がする。あながちそれは間違いではないだろう。洋服の調達、寝室への付き添い、そして料理の後始末。
 どんどん、ガードの仕事からかけ離れているような……。
 煙草とは違う焦げ臭い白煙の中、懐からJUNK&LACKを取り出すと、仕事の前にやるように、景気づけに一口吸い込んでシンクに捨てる。とりあえず、不穏な煙をたなびかせている大鍋をゴミ箱に捨てて、問題はそれからだ。