「ねえ」凛が言った。
「もう襲ったりしないから、傍にいてくれないかしら?」
フィルター近くまで届いた灯を灰皿にこすりつける。
「あたしが眠るまで、ガードしていて。ね、今夜だけ。いいでしょう?」
 フィアスは最後に煙を大きく吸い込むと、から薬莢のような、フィルターだけになった煙草の吸い殻を灰皿の上にそっと置いて、凛の後へ続いた。無垢材でできた黒塗りのドアを開くと、東京湾景がすみずみまで見渡せるオーシャンビューが目に入る。壁一面がガラスでできたそこは、色とりどりのネオンライトがシャボン玉のように浮いていた。
 凛は百万ドルの夜景の上にシルクの布でできたカーテンをひく。ベッドの脇にあるスタンドライトの紐を引くと暗闇に覆われたこの部屋に、電気仕掛けのかがり火が灯った。
 凛は小さなあくびをするとベッドに身体を滑り込ませた。ベッドから少し離れた、ドアの近くの壁にフィアスはもたれかかる。さて、彼女が眠るまで何をしよう? 思案を巡らせていると、「ねぇ」と甘い声がフィアスを呼んだ。
「眠る前に、一つだけ、いいかしら?」
凛が手招きする。フィアスが凛の傍で身をかがめると――「そう。もっと傍へ来て。もっと」――凛が口を耳元へ近づけて、ひっそりと囁いた。
「一つだけ、聞かせてちょうだい」
「何を……?」
「貴方の、本当の、名前」

 その言葉を聞いたとき。
 永遠のような一瞬、時が止まったかに思われた。

 フィアスは凛をまじまじと見つめる。嘘だ。まさか、知っているはずがない。日本へ来てから、誰一人として打ち明けていないし、それどころか、アメリカに暮らしていた頃もその秘密を知っているのは、指折り数え上げられる程度しかいないのだから。
 しかし、彼女は、知っている。これは、どういうことだ?
「フィアス。貴方の本名はアルド・ディクライシス……その名前も、生まれたときに名付けられたものじゃない」
「どこでそれを知ったんだ?」
「〈サイコ・ブレイン〉よ。あいつら、貴方の素性を知っていたわ。貴方のその驚き方からすると、きっと、貴方自身より彼らの方が詳しい」
「まさか。そんなこと、あるわけない」
虚ろな目で床を見つめるフィアスに、凛は不安げな表情で問いただす。
「ねえ。本当に、貴方は自分の名前を知らないの? それどころか、自分の誕生日も、家族の名前も覚えていないの?」
 フィアスは暫く黙ったまま、何も言えなかった。凛がその事実を知っていると言うことにも驚きを隠せなかったが、それ以上に〈サイコ・ブレイン〉が自分の過去を知っているかも知れないということに、言葉を失ってしまった。
 彼らは一体何を知り得ているのだろう、自分が十年以上探し続けても見つからなかった、その秘密の何を……。
「全てを知らないわけじゃない」
やがて、打ち震えた声でフィアスは言った。
「父親らしき人物の名前は知っている。ルディガー・フォルトナー。ドイツの、くだらないチンピラだ。十七年ほど前にアメリカで殺された。他にも、これまでに調べ上げたことはたくさんある……ただ……」
「貴方の記録がないだけ、ね。そして、貴方自身の記憶も」
凛がその言葉を継いだ。フィアスは小さく頭を振って、深い溜息を吐く。この女は一体どこまで知り尽くしているというのか。彩にさえ、あまり話したことがないと言うのに。
「何もないんだ……俺を証明するものが。戸籍も、写真も、ルディガーの家系図にも俺の名前は記されていない。自分の名前を示す手がかりになるものは――十七年間調べ上げてきた中で、何一つ出てこなかった」
「哀しいわね」
 凛がベッドから身を乗り出して、フィアスをそっと抱きしめた。官能的とは程遠い、同情を含んだ優しい抱きしめ方だった。もしかしたら、彼女は本来、心の優しい女性なのかも知れない。〈サイコ・ブレイン〉によって、形がいくらか歪んでしまっただけで。
 やっぱり、彩と似ている……そんなことを一瞬思って、フィアスはやんわりと凛の腕を解いた。
「同情なんてしないでくれ。そういうのは、もうウンザリだ」
「ごめん……でも……」
凛は俯き、小さな声で言葉を繋げた。
「でも、希望は見えてきたでしょう? どうしてかは分からないけれど、〈サイコ・ブレイン〉は貴方の過去を知っている。五年前の決着をつけることで、貴方自身の過去にもケリがつく……そう信じて、良いんじゃないかしら?」
〝過去に決着を付けてきてください〟……一年前、アメリカでフィオリーナに言われた言葉を思い出す。
 あのときはてっきり、五年前の「過去」のことを言っているのかと思っていたが、もしかすると、自分自身の「失われた過去」というニュアンスも含まっていたのかも知れない。きっと、そうだ。フィオリーナは自分と〈サイコ・ブレイン〉の間に、彩以外のコネクションがあることを知っていた。どうしてそれを教えてくれなかったのか。フィオリーナ自身にも何か策があるのか。
 とにかく、このことを知った以上、一刻も早く〈サイコ・ブレイン〉を、ネオという人物を、日の下に引きずり出す……何としてでも。そして、過去のすべてにケリをつけるのだ。
「ありがとう。君のおかげで、この戦いに別の希望を見出せそうだ」
フィアスが素直に礼を言うと、凛はにっこりとほほ笑んだ。