「もう聞きたい事はない。大人しく警察が来るのを、待ってもらおうか」
フィアスが犯人の傍から立ち上がろうとすると、すかさず犯人が口を開いた。
「待ってくれ! 俺にも聞きたい事がある。どうして警察側に、こっちの世界の人間が介入しているんだ!」
犯人の声は不思議に思っていると言うよりは、不満を吐き出しているように感じた。
 彼のいう「こっちの世界」というのは、ヤクザの世界だろうか。フィアスはヤクザと一番繋がりの強い本郷真一に視線を走らせた。真一は教室の入り口で、泣きだした荻野茜をなだめている。
「あれは、ヤクザじゃない」
「嘘を言うな、俺たちはにおい・・・で分かるんだ。あの男はどう見たって俺たちの世界の人間だ。それがなぜ警察に……」
「話すことはない」
フィアスは吐き捨てると、上着のポケットから携帯電話を取り出す。そろそろ捜査本部へ連絡を入れないと、警官達の緊張は今頃ピークに達しているだろう。
 この作戦を実行に移す直前に聞いておいた荻野刑事の電話番号を記憶していた。岸本警部から、捜査本部に設置されている電話の番号も知らされていたのだが、怒りを心頭に発している一課の人間より荻野刑事の方が具合の良いように思えた。この作戦を叶警視長を使って捜査本部の連中に知らせた時、顔を蒼白にさせている刑事達の中で一人だけニヤリとしていたのが荻野刑事だったのだ。
 携帯電話を手にしていると、一人の女子生徒が席を立って、フィアスの元にやってきた。外国人と見間違えるような金髪にところどころピンクのエクステンションをあしらった、派手な外見の生徒である。全体的に趣味や雰囲気が瀬谷直樹と似ていると思って、黒板の前にいる直樹の方に目をやると、ちょうど直樹と目があった。直樹は泣きそうな顔で目の前でにこにこしている女子生徒を指さしている。
銃使いガンナーのお兄さん」
奇妙な呼び名で名前を呼ばれて、フィアスは顔をしかめた。
銃使いガンナー?」
「あたし、あなたのこと、ずーっとそう呼んでるんです。直樹のバイクにぶっぱなした時、超カッコよかったから!」
少し前の、大岡川に直樹が沈んだ日、近くに彼女もいたようだ。記憶にはないが、そういえば直樹がバイクで突っ込んできた時、バイクと同じくらい大きな女の悲鳴が聞こえてきたような気がする。
「君がアンナか」
フィアスが言うと、室井庵奈はきゃーっと黄色い悲鳴をあげた。
「名前、覚えててくれたんですかっ? 超嬉しいっ!」
「ナオキがうるさいくらい、君の名前を呼んでいた」
フィアスは黒板の前で唇を噛んでいる直樹を見る。今にも庵奈の元へ飛んでゆきたいのだろうが、それを渾身の力で押しとどめているようだ。その場で絶えず足踏みをしていた。庵奈はフィアスの目線の先にいる直樹にチラリと目をやって、フンと怒ったように鼻を鳴らした。
「あんな弱いヤツ、どうでもいいの。別れたんだし、もう関係ないの。……それよりも銃使いガンナーのお兄さんって、彼女いるんですか?」
庵奈は上目づかいにフィアスの顔を覗き込んで、そのまま体の方に目線を落としてから――どうしたことか、目を丸くさせた。そして小さくため息をつくと、「やっぱそうだよねぇ」と独りごちる。
 庵奈はそれからしばらく黙ったまま、髪の毛のエクステンションをくるくると指に巻きつけ、直樹にちらちらと目線を泳がせていたが、やがてフィアスににっこりと笑いかけた。
「あたし、直樹のとこに行きますね。アイツ、あたしがいないとホントどうしようもない男だからさ」
器用に机の間を縫って直樹の元へたどり着くと、庵奈は勢いよく直樹の首筋に抱きついた。
「直樹、超恐かったぁ!」
直樹は一瞬驚いた顔をしたが、すぐににこにこしながら、「アンナぁー」と甘えた声を出している。
「面白い奴らだ」
呟きながら、フィアスは荻野刑事の番号に電話をかけた。


「携帯電話のスピーカーをオンにして、近くにいるキシモト警部にも聞こえるようにしてください」
予め、フィアスはそう言って電話をかけた。すぐに荻野刑事の「ああ」という承諾が聞こえ、電話の向こうに警官達の微かなざわめきが聞こえてきた。フィアスは出来る限りゆっくりと言葉を繋ぐ。
「いいですか、よく聞いてください。たった今犯人2名を確保しました。人質8名、全員無事です」
電話先で何人かが小さく歓声を上げた。途端に岸本刑事の声で、「すぐに向かわせろ!」という指示も耳に届いたので、フィアスはいつもより声を大にして言った。
「その命令は待ってください。まだ誰も校舎に立ち入らせないように! ……私は叶警視長の特別任務でここにやってきました。普通では考えられないようなやり方で人質を解放した。その方法や、こちらの存在をマスコミに知られると厄介なんです。できれば、私を最初からいなかった事として、この件を処理して頂きたい。部下を一人置いて行きます。彼と事件解決までのストーリーを上手く作ってください」
フィアスはちらりと直樹を見た。直樹はこれから刑事達の質問攻めの渦に巻き込まれることなど露知らず、幸せそうな笑みを浮かべて庵奈と抱きあっている。
「それからキシモト警部の部下を二名お借りしても良いですか? この校舎から半径150m付近の民家に車が駐車してありますので、それを須賀濱中学の裏門まで運んで頂きたいのです。車のキーはサイドボックスの中。車種は……」
フィアスが説明を終えると、最後には電話先に岸本警部の声がした。大分げんなりとしているようだったが、「できる限り早く手配しよう」と言ったので、フィアスは安堵した。「我々が無事に校舎を出たら、連絡します」と言ってフィアスは電話を切った。
犯人から聞いた情報が真実だとすると、一刻も早くこの場所から抜け出さなければならない。それも誰の目にも注目されずに。
 フィアスは教室の入口へ向かうと、瞳を濡らした茜と相変わらずの軽口を叩き合っている本郷真一の肩を叩いた。
「ホンゴウ、帰るぞ」
「え? このまま、警察が来るのを待つんじゃないの?」
「犯人から聞き出した。やはり、この事件は〈サイコ・ブレイン〉が一枚噛んでる。一刻も早く、この場から立ち去るに越したことはない」
そう言うとフィアスは茜に向き直る。
「もうすぐ、お前の親父と警察がここに来る。それまで他の高校生たちを世話しておいてくれるか?」
茜が頷いたのを見てから、フィアスは大混乱を巻き起こした2―Aの教室を出て行った。「またな」と真一も言いながらすぐ後に続く。
 あっという間に2人の影は安堵の雰囲気に包まれた教室から姿を消した。

 それから数分も経たず何人もの警官がワッと雪崩れ込んできた。みな紺色の防護服に身を包み、頭にはヘルメットを被っている。これがかの有名なSATの突入劇か、と茜は思った。犯人を確保するチームと人質を保護するチームに分かれているらしい。きれいに区分けされた、人質保護チームに肩を支えられながら茜は教室から外に出た。
 高校の外は一種異様な空間だった。いつもはたっぷりと余裕を持たせた学校の正門が警察の拵えたテントや数多の制服警官で埋まっているし、赤いサイレンを光らせながら救急車や護送車が何台も停車している。どこから抜け穴を探しだしたのか、マスコミのカメラのフラッシュが一斉に鳴り響き、お祭りのようなありさまだった。
 後ろからぽんぽんと肩を叩かれたので振り返ると、室井庵奈の姿があった。彼氏はいいのか、と尋ねると庵奈は校門の前に造られた報道陣の輪を指さす。そこには何本もマイクを向けられている瀬谷直樹の姿がある。直樹は嬉々とした気持ちを隠し(それでも口元は歪んでいる)、神妙な顔つきでインタビュアの質問に答えている。
「手柄の殆どは、銃使いガンナーのお兄さんのものなのにさ。アイツは弱いくせに、目立ちたがりなんだから」
そう言いながらも、庵奈の目は笑っている。
「今回はえらく壮大な復縁やったね」
茜が言うと、庵奈は大きな入道雲に覆い隠された空を見上げた。
「直樹でガマンするしかないじゃん」
「ガマン?」
茜が聞くと、庵奈は静かな溜息を、ピンク色のグロスがはげかけた唇から吐き出した。
銃使いガンナーのお兄さんには、女がいるんだよ。さっきあの人の首にすっごいキスマークついてるの、見ちゃったんだ。あたしの経験から言わせてもらうと、あれはかなり執念深い女のものだよ。そんな女に目ぇ付けられたら、恐いじゃん」
「アンタ、あの状況で、そんなとこに注目してたんか」
「あたしも直樹の首にドぎついの、つけてみようかな」
げっそりとした顔の茜を尻目に、庵奈はぎゃははははっと甲高く笑った。


 
 須賀濱中学の裏門は静まり返っていた。警察側が100m以内に避難令をだしたのだから無理もない。暫くその場で時間を潰していると、遠くから地面を擦るタイヤの音が聞こえた。黒い車体を艶めかせ、フィアスのBMWが颯爽と現れたのだ。フィアスと真一の前で停車すると、ドアを開け、中から二人の刑事が現れた。
 一人は黒い髪の毛の、少しばかり童顔を残した顔の刑事、もう一人は茶色く明るい髪の毛をした、ホストとも見間違うような刑事。どちらともフィアスと変わらないくらい、年若い。念のためにそれぞれの警察手帳を見せてもらうと、警察手帳に載っている顔写真と二人の顔は一致した。黒髪の方は、河野、茶髪の方は島崎、というらしい。
 島崎刑事は丁寧に頭を下げると、「岸本警部の使いで、車、お届けにあがりました」と言った。河野刑事もはっと気づいたように慌てて頭を下げる。フィアスも軽く会釈した。
 その時、真一のジーンズのポケットから振動音が聞こえてきた。真一が「悪い」といって携帯の画面を開く。
 ウンザリした顔で、
「……じーちゃんだ」
刑事の前でヤクザの元締めである笹川毅一と通話をするのは良くないと思ったのか、真一は携帯電話を耳にしたままBMWの物影にひっこんでしまった。そこからひそひそと囁くような声が聞こえてくる。二人の刑事に真一の声は届かなかったようだが、常人より少しばかり五感が敏感になっているフィアスには真一の声も、電話先の笹川毅一の声でさえも微かだが聞こえていた。相変わらず跡目存続の件でのもめごとが絶えないらしい。
 真一はあたふたしながら笹川毅一の電話に応えている。
「違うよ、じーちゃん。立てこもり事件は、シマで起きた争いごとだけど、じーちゃんの権威が弱まったからじゃない。ヤクザの下衆が首謀者だったけど、その裏では〈サイコ・ブレイン〉が……いや、だから、じーちゃんのせいじゃないんだってば……うん、うん。そりゃあ、そうだけど……」
真一の電話は中々に長引いた。フィアスはその間、懐からJUNK&LACKを取り出し、一服することにした。すぐ傍にいた河野刑事と目があったので、何気なく煙草を差し出すと、河野刑事は嬉しそうに一本拝借した。この男も、煙草には目のない人種らしい。
「君たちは、持ち場に戻らなくていいのか?」
フィアスが聞くと、JUNK&LACKを吹かしている河野刑事を呆れ顔で見つめながら、島崎刑事は答えた。どことなくウンザリしたような口調だ。
「俺たちの仕事は、立てこもり事件が解決するまで・・・・・・・・・・・・・・・ヤジウマを中に入れないよう、言われていただけですから」
そして島崎刑事もスラックスのポケットからマルボローを取り出すと、100円ライターで火をつける。
「貴方方を見送ってから、現場に戻ります」
「そうか」
 数分もすると電話を終えた真一が少しやつれたような顔で戻って来た。無言のまま助手席に乗り込んだかと思うと、座席に大きくもたれかかってぐったりしている。立てこもり事件の次の課題が、早くも真一の前にさし出されたようだ。
「車をありがとう。キシモト警部にもそう伝えておいてくれ」
フィアスが感謝を述べると二人の刑事も敬礼してそれに応えた。

 こうして、真夏の立てこもり事件は、幕を閉じた。