真一と入れ替わるように、岸本警部が捜査本部へ戻ってきた。様々な所へ視線を飛ばしていた他の警官たちが一斉に岸本警部を仰ぐ。岸本警部はすぐフィアスに目線を向けると言った。
「俺の上司と話をしてきた。確かに、叶警視長は貴方を認めているようだ……だが……しかし……」
語尾を曇らせ、岸本警部が唸る。やはり土壇場で突然現れた見知らぬ男がチームの連携を乱しはしないかと懸念しているようだった。他の刑事も顔を曇らせて、あるいは面倒くさそうにフィアスを見ている。
 ただ、荻野刑事だけはテントの入り口に目を凝らして真一の行方を追っている。フィアスは周囲を一瞥してから、改めて岸本警部に目線を戻し、言った。
「ご安心ください。私は貴方がたのやり方に手を出すつもりはない」
フィアスの一言に岸本警部が鋭い目を皿のように丸くして、不思議そうな顔をする。他の刑事たちは一斉に怪訝な顔に変った。それじゃあ、あんたは何のつもりでここへ来たんだ、と誰かが口を開きかけたが、それよりも先にフィアスは言う。
「私はカノウ警視庁の命でやって参りましたが、それはこの事件の詳細を知りたかったからです。主犯はどのような人物で、なんの為に立てこもっているのか、犯人の要求は何なのか、それらの情報さえ掴めれば私の任務は終了したも同然です。この現場の指揮を始めとする、犯人との交渉や人質の救出はもちろん、有能な日本の警察官である皆さんにお任せするつもりです」
捜査に乱入される心配はないと知って、岸本警部は微かに安堵の表情を浮かべた。見れば他の刑事たちも安心したような、しかしまだ納得のいかないという複雑な顔をして各々首を捻ったり頭を掻いたりしている。フィアスは気配を消すと、音もたてず、テントから抜け出した。
 真一はテントからわずかに離れたところにある外灯の一つにもたれかかっていた。両手はスカジャンの左右のポケットにつっこんだまま立ちつくしているその姿は、学校をサボっている不良生徒のように見えた。眉間に皺をよせ目を閉じたり開いたりさせながら、時々視線を宙に泳がせている。意図的にフィアスと目を合わせようとしない。フィアスはこのままこの男を置いて、テントに戻りたい衝動に駆られたが、忍耐力をもってなんとか踏みとどまった。
 フィオリーナの命令で、この厄介な程熱情的で侠気のあふれる若造から目を離すなと仰せつかっているのだ。まだ紛争の絶えない地域に駆り出された方がマシだった。
「俺たちは傍観者だと言ったはずだ」
「分かってる」
「俺はこの事件に〈サイコ・ブレイン〉が関与しているかどうかを知りたかっただけだ。人質の救出が目的じゃない」
「ああ」
真一は外灯にもたれたまま、ずるずると腰を低くし、やがて地に尻をついた。あぐらをかいた体勢でフィアスを仰ぎ見る。
「だから、どうやったらあんたを説得できるか、考えてたところ」
「無駄な努力だな」
フィアスは切り捨てると、懐から黒い煙草を取り出して咥えた。ここから犯人の視界に入ることはないだろうが、万一を考えて外灯から5m離れた体育倉庫の屋根下に移動した。荻野刑事も同じように考えたのか、屋根下のじめじめした雑草の中に2,3本、煙草の吸殻が落ちていた。
 Zippoのライターで火を灯すと、煙草というよりは香に近いJUNK&LACKの甘い香りが広がった。肺にまで10ミリのタールを流し込むと、このうだるような暑さも気にならなくなった。一本目を吸い終わり二本目に差し掛かろうとしたところで、真一がやや声を大にして言った。
「俺たち友達だろー? 助けてくれ……じゃなくて、助けてやってくれよー俺も協力するからさぁ」
「駄目だ。ここで目立った行動に出ると後で厄介なことになりかねない。大人しく日本の警察が動くのを待て」
真一はもどかしそうに下唇を噛む。フィアスは犯人が立て篭もりを続けているであろう2―Aの教室の方を仰ぎ見た。聞いたところによると、犯人は二人グループでどちらともが拳銃を所持しているという。少人数グループの犯行だが、犯人は興奮状態にあるらしく警察側は迂闊に手が出せないらしい。長期戦になりそうな予感がした。
 三本目の煙草を吸い終わったところで荻野刑事がテントから出て来るのが見えた。ポケットから煙草を取り出しているところを見ると、彼も再びニコチンを摂取しにきたらしい。体育倉庫の下のフィアスに気がつくと、背広を正すような素振りを見せながらのっしのっしと此方へ向かってきた。
「ライターをあのテントの中に置いてきちまったようだ。兄チャン火ぃ、貸してくれるか?」
フィアスがZippoの火を荻野刑事に近づけると、刑事は身をかがめて口に銜えた細長い白色に火を灯した。そのまま吸い込んだ煙を大量に鼻から吐き出す。
「どうもあのテントの中は居心地が悪ぃな。みんなピリピリしてやがる」
 それはそうだろ、と隣でフィアスは煙草をふかしながら思っていた。誰もがいつ人質に危害が加わるか、気が気ではないのだ。その点、荻野刑事の鷹揚とした態度は、異端に見える。実の娘が人質にもなっているのに、荻野刑事には焦りの色が見えない。
 フィアスには、この現場組の刑事があのテントの中にいるキャリアより、大物の素質を備えているように思えた。
 荻野刑事は煙草の煙を吐きながら、ぽつりと吐いた。
「本庁で毎日書類にハンコを押しているだけの輩にゃ、現場のタイミングなんてものは分からねぇのさ。俺に言わせれば犯人確保は、瞬発力が命よ。このまま長期戦に持ち込めば、益々ホシはイラついて、攻撃的になってくる。ああいったタイプは日が翳らないうちにとっとと捕まえちまうのが得策さ」
「ああいったタイプというのは?」
「おれが見た限りでは、犯人は格下のチンピラだ。奴らは本来上からの指示を仰いでいる。それが今や自分たちの判断だけでここに立てこもっているんだ。パニックに陥らせれば、奴らは指示を求め、混乱するだろう……兄チャン、アンタは犯人の情報を知りたがっていたようだが、本庁の奴から、話は聞いたのかい?」
フィアスはわずかに首を振った。どこの土地も警察内部の人間は繋がりが強い。上部からの命であろうが、10分前、突然事件に介入してきた自分に、あの刑事達が易々と情報を開示してくれるとは思えなかった。
 荻野刑事は、はははっと豪快に笑った。そしてもう一本、煙草に火を貸すことを条件に、荻野刑事は立てこもり事件の情報を教えてやる、と言いだしたのだ。

 荻野刑事によれば、立てこもり事件の犯人は二人とも、不良に毛が生えたような、格下のチンピラだ。彼らがなぜ夏休みの高校に立てこもったのかは、明らかになっていない。偶然、高校二年生の数名の生徒が補講の授業を受けていなければ、学校は人っ子ひとりいなかった。薄々、フィアスも疑問に感じていたところだ。コンビニでも民家でも、横浜には立てこもるのに最適な場所はいくらでもある。何故、学校を選んだのか。
 犯人の人質解放条件は、「二年前から刑務所に服役中のある男を解放せよ」というものだった。犯人からその男の名前を聞いて、刑事が調査したところによると、服役中の男は犯人二人と同じグループに属する人間だったらしい。二年前、横浜市内のコンビニを襲った際、その男だけ逮捕されてしまったのだ。
 二年前のコンビニ強盗というところで、真一があっと声を上げた。
「それ、知ってるぞ。本牧のコンビニ強盗殺人事件だろ。図書館の新聞記事に載ってたよ。記事には単独犯の犯行だって書いてあったけど、仲間がいたのか」
「そうみたいだな。仲間をかばって自分だけが罪を被り、やがて仲間が恩を返しに来たか。泣かせる話だ」
フィアスはさもくだらないと言いたそうな顔で目を閉じた。荻野刑事も鼻で笑いながら、フィルター近くなった煙草をひと思いに吸い切ってしまうと、吸殻を地面に落とす。
「そういうことだ。事件の進行状況は説明するまでもないよな、兄チャン」
フィアスは頷いた。荻野刑事は「火、ありがとよ」と言い捨ててテントの中へ帰って行った。
 フィアスはその後、新たに1本煙草を吸って、テントへ向かった。真一は未だに地面に尻をついてふてくされた顔のまま、横眼にフィアスの動向を探っていたが、外灯の前を通りざま、フィアスにスカジャンの襟首を掴まれると、「うぎゃっ」と素っ頓狂な声を上げた。
「何するんだよ!」
教師に反発する不良生徒のような声をあげつつも、真一は立ち上がる。しかし、スカジャンのポケットに手を突っこんだまま、その場から動こうとしない。暗い目つきでフィアスの碧眼を睨んでいる。フィアスは直下型頭痛の波が、今にも脳髄から押し寄せてくるような気がした。
「いい加減にしろ……俺は疲れてるんだ。大人しく言う事を聞いてくれ」
「俺は何も、不可能を可能にしろなんて、言ってないぜ。銃を持ってるけど、相手はただのチンピラだ……やろうと思えばやれるんだろ?」
「さっきから何度も言っているが、人質の救出はしない」
フィアスのいつもよりいっそう鋭利な眼光にあてられて、真一は悲しげに地面を見つめた。
「……アンタなら分かってくれると思ったんだけどな」
真一がぽつりと呟いた。
「アイツが死んだら、俺は困るんだよ……本当に、困るんだ。こんな時に何もできない自分が、すごくイラつく」
真一は頭をぐしゃぐしゃと掻いた。
「アンタだってこの気持ちは、知ってるだろ?」
無感情とも思われる瞳で真一を見つめたまま、フィアスは答えない。