鎮座するかと思われた沈黙を撥ね退けるように、真一の携帯電話が震えた。真一が気だるそうにポケットから携帯電話を取り出す。ディスプレイには見慣れた名前。
「うわっ!」
電話に出た瞬間、真一は小さく悲鳴を上げた。通話ボタンを押した真一の耳に、この世の終わりかと思われる程破壊的な、改造バイクのエンジン音が突き抜けたのだ。相当のスピードが出ているらしい、激しい向かい風の音も通話ボタンの先から聞こえてくる轟音に拍車をかける。
 しかし電話先の相手の声も風やバイクのエンジン音に負けないくらい猛々しいものだった。真一の真向かいで腕を組んでいるフィアスにも、電話の主の声は耳に届いた。
――真一さあぁぁーんっ!
叫ぶように名前を呼ばれた真一は、電話から耳を5cmほど遠ざけて返事をする。
「なんだ、直樹か?」
――真一さぁぁーん、俺のアンナが、俺のアンナが、立てこもり事件の人質になっているって情報が入って来たんスよぉ! 真一さん、助けてくださいよぉ、真一さぁぁーん!
「お、落ち着けよ。お前、どこにいるんだ?」
――どこって、今アンナの高校に向かってるところッス! アンナを捕まえている犯人に交渉しようかと思って、俺……俺……。
「ホンゴウ、電話を代わってくれないか」
そう申し出たのは、傍で二人のやり取りを傍で聞いていたフィアスだ。真一が携帯電話をフィアスに渡すと、フィアスは通話口を押さえながら、「ナオキというのは、この前の川に落ちたヤンキーか?」と聞いた。川に「落ちた」んじゃなくて「落とした」んだろ、と思いつつも真一は頷く。フィアスは電話から聞こえてくる騒音が気にならないのか携帯電話をごく普通に耳に当てると言った。
「おい、ナオキ、俺の声が聞こえるか?」
――ああ? オマエ誰だよ?
「俺が誰であろうと、そんなことはどうでもいい。それより、お前の恋人がたてこもり犯の人質になっているのは、確かなんだな?」
――ああ、そうだよ。恋人つっても、2週間前に、別れたけど……。
「そうか。じゃあ〝惚れた女〟だな」
フィアスは器用にも携帯電話を肩に挟んで、ポケットから煙草を取り出し、火を付けた。JUNK&LACKをくわえた口の端がつり上がっている。
 笑ってる、と真一は思った。フィアスが珍しく、面白そうに笑っている。フィアスはライターをしまった手で携帯電話を持ち直すと、もう片方の手で煙草をはさむ。口から甘い香りのする独特の煙を吐き出した。
「助けたいか?」
――助けたいに決まってるだろ! だから俺は今、走ってるんだ!
フィアスは短く、乾いた笑い声をあげた。
「勇敢だな。そんなお前の手助けをしてやろう。警官を二人、高校の近くに張られたバリケードまで向かわせる。現場に着いたらまた電話しろ」
フィアスが電話を真一に返すと、真一は何が起こったのか分からない様子で、口をあんぐりと開けていた。フィアスは肺に浸透した煙を口から吐き出す。どこか遠くの方を見つめながら、フィアスはフィルター近くまで煙草を吸い続けた。真一は何か不思議な生物を見るような目で、フィアスの見慣れた仕草をずっと眺めていた。
「これでいいんだろ?」
やがて、煙草の吸殻を地面にすり潰しながらフィアスは聞いた。
「あ、ああ……ありがとう」
「礼には及ばない」
短く切り返してフィアスは不機嫌そうな警官たちのいるテントへ足を向けた。真一もおずおずとその後をついて行く。
「一悶着起こるから、覚悟しろ」
テントに入る直前、フィアスは小さな声で真一に言った。


 一時間後、岸本警部の部下に連れられて派手な金髪をあちらこちらにウェーブさせた、少年ともいえるあどけなさを残した青年がやってきた。
 その男――瀬谷せや直樹なおきの着ている洋服は胸の部分に三つ星、背中に流麗な筆記で喧嘩文句が書いてある黒いツナギだ。ニッカボッカから飛び出た足には先の尖ったいかめしいブーツがのぞいている。左腕には赤い腕章わんしょうをまきつけ、腕章の中央にはナチス軍を彷彿させるハーケン・クロイツが金に輝いている。首にしているチェーンネックレスの先にも鉤十字の威厳がぶらさがっていた。今日の直樹は、自身が「一張羅」と呼んでいる、宵闇色の特攻服を身にまとっている。
 直樹の意気込みは背中に描かれた刺繍ししゅうの如く、「散りて滅びるこの華を、愛する貴方に捧げます。今が時、咲かせて魅せるの命」。
 体育倉庫の裏側で待機していたフィアスを一目見て、直樹は「うわっ!」と悲鳴を上げた。すぐにこの場から立ち去ろうと後ずさるが、小石につまずいて地面に尻もちをつく。
「し、死神!」
直樹は震える手でフィアスを指さした。尻もちをついた体勢のまま背後へ後ずさろうと両足をもがくが、中々思うようにいかない。真一は直樹の傍らに立ちながら、曖昧な笑みで直樹を見ていた。直樹はそんな真一にすがるようにジーンズの裾を引っ張った。
「真一さん! 助けてくださいよ!」
「まあ、ちょっと落ち着けよ、直樹。ソイツは取って食やしねぇよ」
「真一さん真一さん! く、来るんじゃねーよっ! うわぁぁぁっ」
直樹はいっそう派手に騒ぎたて、真一に助けを求めたが、しびれを切らしたフィアスが重い拳骨を直樹の頭上に落とすと、すぐに大人しくなった。フィアスに胸倉を掴まれ、半泣きになりながら立ち上がる。フィアスは眉間にしわを寄せ、開口一番に言った。
「なんだその格好は。お前はネオナチか」
「ち、違うよ。これはトップクだよ」
「そんなことはどうでもいい。そんなに派手な格好をしていたら、捜査本部の警官達の不満を煽ることになるだろ。やっと指揮下に置けたのに、また厄介なことになる」
「指揮下?」
内容のつかめない直樹に真一が説明する。
「今、須賀濱高校立てこもり事件の捜査本部は、俺たちの指揮下にあるんだよ。つまり、俺たちの思うように警官隊の各機関が動くわけ。詳しく説明すると時間がかかるんだけど、とにかく俺たちがこの事件を解決するんだ。あのテントの中にいる警察のお偉方を納得させるのに、かなり時間がかかったけどな」
にこやかに事情を話す真一の横でフィアスは嘆息した。
「横から割り込んできた俺達が主導権を奪うような真似をして、警察が不満に思わないわけがないだろ。フィオリーナや警視長が介入しても、このやり方は強引過ぎる。捜査本部の警官たちがクーデターを起こす前に、早く終わらせるぞ」
それでも、未だ状況をつかめず目を白黒させている直樹を見てフィアスは両腕を組んだ。直樹はたった今現場に到着したばかり、立てこもりの状況も、犯人の人数も要求もまるでわからないのだった。これから自分がどうやって庵奈を救出するのかさえ、知らされていない。しかしその方が都合がいいと言ったのは、フィアスである。立てこもり事件の情報を何も持っていない者の方が、この配役は丁度いい。
困惑しきった顔の直樹にフィアスは言った。
「三十分後にお前を人質として現場に潜入させる」