横浜某所、住宅が立ち並ぶ静かな通りに笹川組の本拠地がある。ビジネスに関することは全て町田にある事務所にて幹部が執り行っていたが、笹川組第一人者にして現組長・笹川毅一ささがわきいちはこの何平米もある純和風の大家に身を置いていた。自分ももう齢七十五歳の老身、組長という座についているが組の運営は若い者に任せよう……という考えなのである。
 毎日、指南書を片手に碁を打ったり、川柳等を読んでみたりと、もはや隠居生活に近いものがあった。そろそろ、「跡目相続あとめぞうぞくはい」なるものを執り行いたいと思っていた笹川は、熱いお茶を飲みながら、ため息を吐く。
「そろそろ考えて貰わんとなぁ……」


「ここか……」
 フィアスはいかにも一昔前のヤクザ映画に出てきそうな和風の邸宅を仰ぎ見た。小さな城のような外観、周囲を囲われた焦げ茶色の塀の一角に寺院の入り口のような押し門式の正面門が構えられており、硬いヒノキで出来た表札には間違いなく「笹川」と記されている。
 昨晩、名を偽って〈ドラゴン〉の元恋人であるホステスとコンタクトを取ることに成功した。その際、〈ドラゴン〉が所属していた暴力団組織がこの「笹川組」だということを知った。笹川組を調べない手はない。だが、こそこそと周囲の人間に聞き込み調査を行うのはウンザリだった。
 〈サイコ・ブレイン〉についての事実を掴みたいだけなのに、話が随分と横道にれているのだ。これ以上余計な手間を増やす気はない。それに、ここが大物のヤクザの住まう邸宅だからだろうか、辺りは静まり返っており、人の気配もしなかった。
「ここは、堂々と正面から尋ねていくべきなのか……」
 果たして、それですんなりと事が運ぶのか。
 フィアスは一人ごちる。こんな時、ヤクザに詳しい本郷真一の手が借りたかったが、真一との共同戦線を休止状態にしたのは自分だ。なんとなく、真一の手を借りるのは自分勝手なような気がしてならなかった。
 二、三分考えた挙句、フィアスは玄関からではなく、塀を乗り越えて家の中へと潜入した。俊敏しゅんびんな身のこなしはFBI時代の賜物たまもの賜物であり、一般人より遥かに秀でた身体能力はBLOOD TIRSTYの恩寵おんちょうだ。誰にも見つかることなく、首尾よく庭先へと入れた。この際「家宅侵入罪」という言葉には目をつむる。
庭は一流庭師が整備しているのだろう、京都の庭園に負けないくらいの絶景だった。ぱっと見、庭だけで九十坪はある。四方八方を取り囲む塀に沿って松が植えられている。庭先だけで、この家の威厳が満ちていた。
 フィアスは何食わぬ顔で家の玄関へと向かう。ヤクザと戦闘になることがあっても、この庭だけは傷つけないようにしようと思った。
 玄関もまた厳かな作りだった。木で出来たスライド式のドアだが、ドアの四隅には欄間らんまに施されているような蓮の花の彫り物がなされていた。ヴェルサイユ宮殿のような煌びやかな飾りではないが、日本ならではの控えめな絢爛けんらんさだ。この扉にしろ庭にしろ、家の主は相当外観や風情というものを愛している人間に違いない。そんなことを思いながらフィアスは戸を叩いた。
数秒の後、出てきたのは派手なシャツに身を包んだ無愛想な男だった。着ているシャツの柄も悪ければ、本人自体の柄も悪い。絵に描いたようなその道の人間である。
「あれっ?」
しかしその人間は外見からは想像がつかないような素っ頓狂な声を発した。
「お客さんか? ……おかしいなぁ、カメラにゃあ誰も映ってなかったんだけどなぁ……?」
玄関先に監視カメラでも取り付けてあったのだろう。フィアスは玄関から入ってきていないので映っていない。暫く男はぶつぶつ言っていたが、威厳を取り戻して尋ねた。
「お客さん、何用で?」
「笹川氏に聞きたいことがある」
「名を名乗って貰わにゃあ、困ります」
男は逆八の字型の薄い眉を潜める。つい1ヶ月ほど前、ヤンキー相手に聞き込みの調査を行ったときの、青二才より何倍も迫力のある炯眼けいがん。一筋縄では行かないようだ。
無言の睨み合いが続く中で、戦闘の予感がした。
フィアスは微かにため息をつくと言った。
「BLOOD THIRSTY……」
名を名乗れ、と言われても自分は偽名をたくさん操っているので、軽々しく偽った名前を口に出来ない。どこで矛盾が生じるかわからないからだ。仕方ないので、フィアスはBLOOD THIRSTYの名前を持ち出した。この組織名を男が知っていて、戦慄してくれれば、幾分か事が楽に運べる。その一縷いちるの望みにかけてみたのだ。
 しかし、「BLOOD THIRSTY」という言葉がまるで合言葉だったかのように、男の目が細まった。訝しがるでも、怯えるでもなく……なんと喜んでいるのである。
 ぽん、と手を打って男は一言。
「嗚呼、貴方が例の! 噂は親父おやっさんからかねがね伺っております」
「……はあ」
いきなり消失した男の殺気にフィアスは拍子抜けする。怪訝な顔のフィアスとは反対に、男はそのいかつい顔をほころばせたたままだ。招くように家の中へ片手を指すと、
「ささ、どうぞ旦那。親父っさんにお取次ぎ致しやしょう」
まるで時代劇のような持て成しで、あっさりと家の中へと通されてしまった。ハロウィーンではあるまいし、外部の人間にこんなに開放的で良いのだろうか。まして、ここは大物ヤクザの住居である。あらゆる警備会社のセキュリティーを駆使しても尚、用心があってもいいくらいだ。
これは何かの罠か、と勘繰りたくなるフィアスだが、笹川組の意図が分からないことには動きようがなく、男の後に付いていくより術がなかった。
「ヤクザは、ミステリアスだ」
その呟きは前方を行く男の耳には届いていないようだった。


「そんな事言ってもなぁー世の中はそんな甘っちょれぇモンじゃねぇんだよ」
笹川はうーんと呻きながら額を掻く。
 つい甘やかしたくなるが組の死活問題を懸念すれば、ここは心を鬼にしなければいけない所だ。一つ、世の酸いというものをこの若造にピシリと言ってやろうかと笹川が着物の裾を正した時、運悪く若衆の一人が僅かに障子戸を開けて入ってきた。邪魔が入ったなと心中で舌打ちしつつも、その合いの手に感謝していることも確かだった。
「失礼致しやす」
「おう、どうした?」
「親父っさんに、お客さんです」
若衆の言葉に笹川は眉間に皺を寄せる。
「客? そりゃあ、確かな筋からなんだろうな」
この隠れみのに客人とは珍しい。しかし、それは本当に客人なのか? 組に害を及ぼす輩等であっては断じてならない。家の中に通す前にはっきりと相手の身元を確認するように若衆に言っておいたのだが、その判断基準が鋭敏えいびんかどうかは笹川の知り得るところではなかった。
 しかし、顔面にいくつもある縦に長い刃物の切り傷を歪ませて、若衆はにこやかに言う。
「親父っさんの言っていた、例の……BLOOD……BLOOD……えーっと、申し訳ない」
最後の謝罪は、障子しょうじの向こうに発せられていた。もうそこまで客人が来ているようである。若衆が言いたかったのは、恐らく「BLOOD THIRSTY」。危険な組織には違いないが今は敵ではない。むしろ借りがある種の人間であった。
 招いた覚えはないが、「招かねざる客」の類でもないので、笹川は安堵した。笹川の前に座っている若いのも、「BLOOD THIRSTY」と聞いて気もそぞろに障子に目をやっている。
「客人を待たせるんじゃねぇ。お通ししろ」
「へい」
 若衆は返事をすると、ふすまを全開にする。
 直接会ったことはないが、仕事を頼めば一騎当千の武力を持つ「BLOOD THIRSTY」。いかほどの屈強な肉体の大男かと笹川は期待していたが、現れたのは青い瞳に金色の髪を持つ、年若い青年だった。いかつい顔でもなければ、屈強な体つきでもない。むしろ、線の細いような印象である。
 BLOOD THIRSTYの青年は冷たい色の瞳で部屋を見渡した瞬間、その目を少しだけ見開いて驚きの表情を浮かべた。


「何……」
笹川がいるという居間に通されたフィアスは思わず呟いた。和室の向かって左側にいる老齢の男は恐らく笹川だろう。黒だが所々白いものが混じっている髪の毛をバックに纏め、薄い紺色の着流しに身を包み、手にはキセルを持っている。一見すると、何の変哲もない隠居の老爺だが、鋭い眼光が彼の歩んできた険難の道からくる威厳を湛えていた。さすが、職業がヤクザだというだけある。着流しの袖を捲り上げたら見事な刺青いれずみが顔を現すだろう。
……そんなことは、いいとして。
その隣、笹川と焦げ茶色のテーブルを挟んで向かい合っている男が問題だ。彼は大きく目を見開き、驚愕の表情を露にしている。平静を装ってはいたものの、内心でフィアスも同じくらい驚き、混乱していた。
茶にちかい金色の坊主頭に、純黒色の目、ヤンキー風情のファッションは六日前も今も代わり映えがない。
「どうしてホンゴウがここにいるんだ……?」
なんと、笹川と一緒にいたのは本郷真一だったのである。二日酔いから復活したようで、驚いた表情だが顔色も良く、うな垂れてはいない。今日も真一はナイロン製の昇り龍の派手な青いスカジャンを羽織っていた。
「なるほど」
数秒の沈黙を経て、フィアスは一つの結論にたどり着いた。
「お前も〈ドラゴン〉の事が分かったのか」
「はぁ?」
しかし、真一は素っ頓狂な声を上げる。そして訳が分からないと言うように、眉間に皺を寄せた。
「フィアス、お前何か勘違いしてねぇか?」
フィアスも眉間に皺を寄せる。
「勘違い?」
真一は大きく頷いた。そして和室の畳を――この家を指差した。
「ここ、俺の実家」
「実家?」
『じっか』という日本語が実家という単語以外にこの状況下で当てはまるものはないかと瞬時にフィアスは思考を巡らせたが、どう考えてもこの状況に相応しいのは『HOME』という意味合いしか見つからなかった。
 つまり、ここは本郷真一の育った家だと考えて相違ないということだ。
「何だと?」
ただ驚いただけのフィアスの声に怒気のようなものを感じたらしい、曖昧に真一は笑ってやや身を引く。そのまま暫く、冷戦ともいえる鋼鉄の時間が流れた。凍てつくような静寂が腰を下ろす。
その間、笹川毅一は睨み合う二人の男を交互に目を走らせていたが、やがて自分の存在を顕示けんじするかのように、または空気の流れを変えるように大袈裟に咳払いをした。フィアスを見ながら、笹川は静かに言った。
「まあまあ、兄さん。落ち着きなすって。いつまでも敷居の上におらんと、ここへお座りなせぇ。……若松、下がってええ」
その言葉に、フィアスの背後にいた若衆は、笹川に黙礼してから廊下を引き返していった。
納得がいかないながらもフィアスは厳かに一礼をして、真一の隣に腰を下ろした。笹川も頷き、場が静まったところを見計らうと今度は真一に顔を向けた。
「して、真一。この状況から伺うところ、こちらの兄さんはお前の素性ってヤツを知らねぇみてぇだな? お前から聞いたところによると、こちらさんは命の恩人だそうじゃないか。そんなお方に無礼な態度をとっちゃならねぇ」
「いやぁ、でも……さあ……」
追求された真一は曖昧に笑うと頭を掻いた。その仕草を見て、笹川はピシリと言う。
「笑って誤魔化そうとすんのが、ガキの頃からのオメェの悪ぃクセだ」
「そんなこと言ったってよぉ、じーちゃん……」
笹川は真一から視線を外してキセルをふかす。真一の弁解など聞く耳も持たないと言った態度である。そんな些細な行動で十分祖父と孫のコミュニケーションは図れたらしい。真一はため息をつくと、渋々といった感じで口を開いた。
「話すっていってもよぉ、もう分かっているだろうが……俺はちゃんと血を引いた笹川毅一の孫だ。養子でも、妾の子でもねぇってこと」
「こら真一、めっそうもねぇ事を抜かすな!」
笹川にまた一喝されて、真一は気だるそうに頭を掻く。
「じーちゃんが言えって言ったんじゃねぇかよぉ……」
笹川組長血縁者は居心地の悪そうな顔をフィアスに向けた。怖いもの無しの真一でも、祖父には頭が上がらない様子である。それと、アカネという少女にもか……、およそ二週間前に出会った妙な地方言葉を操る高校生をフィアスは思い出した。あの借金取り紛いの威脅いきょうはまだ記憶に残っている。
本郷真一という人間の周囲には、このように一癖ある人間(それも悪い意味で個性的なのである)が多い。自分もその類に所属しているのだろうか、と考えた途端頭の髄が痛んできた。フィアスは頭を微かに振り、むりやり思考をシャットアウトさせた。
「もう俺のことはいいだろ」
とことん、自分の事について尋ねられるのは勘弁して欲しいといった様子である。真一がウンザリしたように身を引いた。それから、横流しにちらりとフィアスを見て、
「さあ、お次はアンタの番だ。なんで俺んちに来たんだよ?」
この部屋に来たとき、〈ドラゴン〉の名を口にしても大して突っかかりを見せなかったところから、どうやら真一は自分の実家――それも笹川毅一が〈ドラゴン〉に関係しているとは思っていないようだった。ヤクザ稼業といえども、自分の実家に突然来訪してきたフィアスを首を傾げて見ている。
「ていうか俺の実家なんて、アンタは知らないはずだぜ」
「ああ……」
 言葉を濁しつつ、フィアスは笹川を伺う。笹川は神妙な顔つきでキセルを片手にもてあそんでいる。真一と違って、フィアスがここに来た目的を理解しているように見えた。先ほど少しだけ口にした〈ドラゴン〉という言葉を、この貫禄かんろくある老人は聴き零してはいなかったようである。
「笹川氏に聞きたいことが」
「おう、なんだぃ?」
だが、笹川は机の灰皿にキセルを置くと神妙な顔つきを渋みのある笑みに変えた。腫れぼったい目蓋が覆いかぶさった灰色の瞳がフィアスを見据える。紛うことなく、強い者の目だった。ややいとまを持たせてから、フィアスは言った。
「〈ドラゴン〉の事を知る限り教えていただきたい」
一瞬の間。
真一は腹に銃弾を受けたような顔をして、笹川とフィアスを交互に見回した。結局いつも蚊帳の外にいるのは真一なのであった。笹川は「ふむ……」と唸るとキセルを灰皿に置いた。あごに手を添える。
「はて……、兄さんは我が元・義弟とは縁のある人間かね」
「直接、関わりはないが……今、ある事件を捜査していて〈ドラゴン〉の名が挙がった」
「ふむふむ……」
「どういうことだよ、じーちゃん!」
呆気にとられていた真一が、我にかえったように挙手した。そのまま、まだふむふむと唸っている祖父に突っかかる。
「〈ドラゴン〉と知り合いだったなんて、俺、知らないぜ!」
「当たり前じゃ、ハナからお前には話してなどおらん」
憤慨ふんがいしている真一に笹川は静かに告げる。そして、ニヤリと悪どいが自嘲的な笑みを浮かべて、
「人の道を踏み誤った狂龍くるいりゅうなぞ、とっくに絶縁してやったわ」


 笹川毅一は中々話し出そうとはしなかった。部屋の開け放たれた障子の向こうにある「日本の美」と煽りがつきそうな広庭を眺めながら、キセルをぷかぷかとくゆらせていた。畳の上で真一はいごこち悪そうにそわそわと周囲を伺っている。この部屋の中で、一番話がつかめていないのは本郷真一だ。そして一番〈ドラゴン〉に関しての情報が乏しいのも彼である。
 笹川がだんまりを決め込んでいる間に、フィアスはホステスから聞いた〈ドラゴン〉のことについて、その前途も交えて真一に説明してやった。真一は呆然とフィアスの言葉を聞いていた。
 一部始終を説明したところでようやく真一はため息をついた。
「成る程、つまり〈ドラゴン〉が所属していたのは、うちの組だったってわけか……灯台元暗しってヤツだな、身内には目が行ってなかった」
笹川が庭から視線をはずして、真一を睨む。
「あいつはわしら一族の恥さらしだ。真一、軽々しくその名を口に出すんじゃねぇ」
やっと笹川は持っていたキセルを灰皿に載せた。大きなため息をつくと眉間の皺をむ。それからやっと笹川はフィアスに向き直った。
「本来なら、兄さんみてぇな他所モンにゃぁ号外できねぇ事なんだが、真一の義理もある……仕方ねぇ、包み隠さずに話してやらぁ」
その言葉を聞いて、フィアスは安堵の息をついた。凶悪な犯罪を犯した〈ドラゴン〉は、到底組からは忌み嫌われる存在として祭り上げられているはずだった。いくら笹川が真一の血縁者であるとも、安直には聞きだせないだろうと構えていた。しかし、一年前の真一のガードの仕事が思わぬところで貸しを作っていたらしい。
「〈ドラゴン〉と義兄弟だったというのは、本当ですか?」
改まってフィアスは尋ねると、笹川は渋顔で頷いた。
「ああ。もう十数年前の話だけどな。事実だ」
やはりあのホステスの言っていたことは真実だったようだ。笹川と〈ドラゴン〉は兄弟の契りを結んだ仲だった。
フィアスは視線を真一の方に泳がせる。真一はまだ放心状態が治っていないのか口を半開きにして祖父の話を聞いていた。
「〈ドラゴン〉が十人以上の人間を殺害したという話も……」
「ああ、事実だな。但し、その半年ほど前に〈ドラゴン〉とは縁を切っておったわい。……だから、それ以降の事は詳しくないことを念頭に置いておいてくれ」
〈ドラゴン〉は犯行を行う半年前から、既に常軌じょうきいっした行いをしていたのだろうか。ヤクザの家から――それも、この義理に厚い笹川毅一から破門されるくらいだ、並大抵の非道徳な行いではない。
そう考えたフィアスに、〈ドラゴン〉のある所業が浮かんだ。NYにて、真一に聞いたあの噂……それがもし〈ドラゴン〉の、笹川一家追放の理由であったら。
「〈ドラゴン〉がその殺人事件を執行する半年前に、何があったんですか?」
段々と激しくなる動機を抑えながら、フィアスは聞いた。
「それは、もしや〈ドラゴン〉の“父親”としての責務に反する行いだったのでは?」
フィアスの言いたいことに気づいたのか、真一も身を乗り出さんばかりに笹川を見据えた。
――〈ドラゴン〉は〈サイコ・ブレイン〉に一人の女を売り渡した。それは他ならぬ、自分の娘。――
笹川はキセルを一口吹かし、神妙な顔をして言った。
「あいつは、人間として……それ以前に一端いっぱしの親父としても、最低なヤツだったわ……」
やはり、そうだ。フィアスの瞳に渇望の色がみなぎる。
「〈ドラゴン〉の娘の名は? そもそも、〈ドラゴン〉の本名は、龍頭ではないのか?」
抑えきれない情報への渇望。思わず、その質問が口をついた。笹川は微かに目を大きくして、切望の濃い色をしているBLOOD THIRSTYの目を見た。そしてすぐに、目を細めた。
「ああ、確かに〈ドラゴン〉の名は龍頭――龍頭正宗りゅうとうまさむねじゃが……娘の名前は何て言っておったかな。何せ十何年も前の話だ、この老いぼれの記憶に留まっているかどうか……」
笹川が考え込むそぶりを見せたので、すかさずフィアスは言った。
「アヤだ。龍頭、彩」
「おお。そうだ、彩だ。彩ちゃんだ。ふぅむ……兄さんはどうも、娘の方と繋がりがあるらしいな」
納得のいった顔で笹川は頷いた。キセルを一口吸い、吐き出した煙とともに笹川は言った。
「それで、彩ちゃんは元気なのかぃ?」
笹川が言ったすぐあとに、誰かが息を飲んだ。横を見れば真一がこの部屋の誰とも視線を合わせようとしないで、ただ机との睨み合いに従事している。今度は自ら進んで蚊帳の外へと出たようだ。
一瞬の逡巡しゅんじゅんの後、フィアスは笹川に告げた。
「アヤは、五年前に死んだ」
言いながら、息が詰まるような居心地の悪さに襲われた。まだ彩の死の衝撃は自分の中で通過点になっていないのだということに気づかされる。
 「清算された過去」なんてとんでもない、まだ「過去」にすらなっていなかったのだ。
 笹川はキセルを灰皿の上に載せると、厳粛げんしゅくに数秒間合掌した。長い数秒間。静寂が痛かった。厳しい顔を伏せて束の間の黙祷もくとうを終えると、笹川は重いため息をついた。
「もう、仏さんだったとはな……人の世なんぞ、儚ぇモンだな」
まるで他人事のような言い方だったが、笹川は暫く黙ったまま目頭を押さえていた。
「……やりきれないねェ」
やがて笹川が呟いた一言でフィアスは気がついた。
「やり切れない想い。」この五年の間、自分がずっと抱えてきた虚無感は、言葉で表すとこういう気持ちだったのではないかと。