〈サイコ・ブレイン〉動く


喧嘩・喧嘩・喧嘩・ヤクザからヤクザへと何かを運ぶ・喧嘩……
ここ、二週間で行った何でも屋の仕事は大体こんな感じだ。ほぼ二日に一回は喧嘩という肉体労働。手に持つ銀色のナックルは、細かな傷がやたら目立ってきており、光にかざすと血色に輝いて見える。
二週間で、総勢二十人にものぼる暴力団関係者を叩きのめしたところで、フィアスの限界は頂点に達した。体力の限界ではない。我慢の限界だ。これだけ裏の世界に巣食う人間を相手にしても、なんの成果も得られなかったのだ。
七月も半ばに差し掛かった木曜日、馬車道にある真一の事務所ドアを開けると、丁度真一が部屋の奥のソファーに寝転んでいた。クーラーをきかせた室内は、秋の中旬くらいの快適な気温に設定されている。
「おい! 起きろ、ホンゴウ」
怒気を含めた声で真一を呼ぶと、真一は片目だけ開けてフィアスの方を見た。そして、また何事もなかったかのように目を瞑る。手探りで、テーブルに手を伸ばすと、机の上にあった音楽雑誌を取り上げて顔にかぶせる。薄っぺらな紙束一冊で、世界から隔離かくりされた気にでもなって安心したのか、やっと雑誌の下から真一は言った。
「昨日、夜中の一時くらいに〈美麗〉の直樹から、隣町の族の連中とモメているから助けて欲しいって電話きてさぁ……仕方ないから、問題解決しに行ってやったんだよ。喧嘩自体は大したことなかったんだけど、その後に何か飲み会始まっちゃってさぁ……」
「飲み会?」
「そ。飲み会。“真一さんの分のビールもありますよ”なんて言われちゃったらさぁー年輩者として後に引けないだろ?」
真一は頭を抑えていた手を離すと、力なくテーブルの上を指差した。そこには軟水のペットボトルと二日酔いの薬が置いてあった。
「頭痛と吐き気と眩暈めまいで、死にそうなんだよ……この倦怠感けんたいかん、アンタにも分かるだろ?」
残念なことに、フィアスには二日酔いの気持ちは分からなかった。大体、酒で酔ったことも少ないのだ。特にアルコール濃度の弱い日本の酒では、水を煽っているような気にさえさせられる。真一の呻き声を当然の如くフィアスは無視する。
「それより、ヤクザから何の情報も得られていない事の方が問題だ」
「酷ぇ。鬼だな、お前……」
「ここ2週間、ヤクザと接近する機会が多々あったにしても、〈サイコ・ブレイン〉を知るものが皆無なのはどういうことだ?」
「うー……、あんまり大きい声で喋んないでくれる?」
「ヤクザから、路線変更を考えるべきではないのか?」
「あー、頭痛えー。それに胃から何かがせりあがって……」
「聞け!」
話の噛みあわない会話に痺れを切らしたフィアスは、僅かながら声を大にして言った。瞬間、うぐっと言う悲鳴をあげて真一が耳を塞ぐ。
「た、頼むから、大きい声出さないでくれ……。ただでさえ頭の中にエコーがかかって聞こえるんだから……」
苦しそうに呻きながら、雑誌を防災頭巾のように頭にかぶる真一。顔色は血の気が引いて真っ青だ。
酒の飲めない人間が敢えて酒を飲むという自虐行為に、同情するというよりは呆れた。
フィアスはため息をつくと言った。
「……もういい。俺一人で捜査する」
「え、何?」
「当分の間、ヤクザの聞き込みは休止ってことだ」
なおも額と目頭の中間辺りを抑えて呻く真一に背を向け、フィアスは何でも屋を後にした。
事務所を出ると、辺りはむっと熱気が立ち込めて蒸し暑かった。躊躇することなくフィアスは早足で雑踏を抜けていく。
運任せの情報収集など、生ぬるい。起死回生、ここからは攻めに転じなければ。
「不良も、ヤクザも無駄なら……」
フィアスはヤクザ御用達ごようたしの店が集まる繁華街へと足を向けた。