「何がBeaucoup d'Amour,よ……」
その日、従業員待合室で自分よりも何歳も年若い娘達の他愛ないやり取りをBGMにしながら、みさとは小さく毒づいた。煙草でも一服吸いたいところだったが、仮にも今は勤務中。いくら暇だと言えども、その辺りの区別は当の昔についている。大きな真珠(これは確か十数万するブランド物だったが、どことなく玩具のような品のないものである)の付けられた耳にはエンドレスで小娘達のキャピキャピした会話が耳についている。とても耳障りだ。こんな時、一睨みをきかせればたちまち女どもの話し声は小さくなる……のもこの店で天下を取っていた頃の話だ。今は露骨ろこつに嫌な顔をされるのがオチである。


「Beaucoup d'Amour,」
フランス語で「愛を込めて」と名のつくキャバクラ。六本木に店を構えて二十年余り。六本木の店全体から見れば、まあそこそこの年季の入り具合ではないだろうか。築二十年といえども、過去六回にも及ぶ改装工事のため、「Beaucoup d'Amour,」は今尚新築のような外観がいかんを保っている。
 みさとはかつて、この店の№1ホステスだった。本指名客を常に十数人構え、一時間に八回もテーブルからテーブルへと移動する、てんてこまいな日もあったほどだ。
しかし、それも今から十年ほど前の話……年を取るとともに顧客数こきゃくすうは減り、ついには本指名は愚か、場内指名まで取れない日もある。とっくに同期の女たちは自分のホステスとしての寿命を見限り、次々と辞めていった。今では彼女がこの店のホステスの中でも最年長である。
「潮時を知らない女」。
若い同僚達が陰で自分のことを噂しているのは知っている。人気順位も下から数えた方が早いくらいなのに、オーナーから解雇願いが来ないのは、かつて栄華を極め、店の売り上げに貢献していたみさとへのお情けからなのだと言うことも当にお見通しだ。だけど、自分にはこの道しか残されていないのだ。
みさとは十八でこの道に入ってから、酒の作り方は上手くなっても、女としての家事全般はしたことがない。全て自分に付き従うようにして付き合っていた男達にやらせていたのであった。
三十八歳、無免許無資格家事も苦手。到底、そんな自分がホステス以外の職に就けるはずもなかった。自慢だった美白は、今や都会の喧騒にまみれ、土気色。段々と化粧の壁は厚くなっているが、それに対抗するかのように皺の数も増えている。まさに四面楚歌しめんそか
みさとはため息をついた。ふと、頭の片隅に「ため息をつくと皺が増える」とかいう変なジンクスがよぎった。
ふざけるんじゃないわよ、と小さく毒づく。


「みさとさん、指名入りましたんで準備お願いしまーす」
気だるいボーイの声に、みさとは自分の耳を疑った。同席しているホステスたちも各々化粧をする手を止めて、えっという表情で客間を見る。私じゃなくて、あのおばさん……!? 口には出さずとも、言いたいことは彼女たちのきらびやかな化粧の塗られた顔に書いてあった。みさとは日ごろの恨みをこめて、彼女たちに、ふん、と鼻を鳴らしてみせた。
なんとみさとにとって、二ヶ月ぶりの本指名である。飛び上がりたい気持ちをどうにか堪え、いつもどおりのすまし顔でボーイの元へと向かった。その歩き方もパリコレモデルさながらの妙に気取った感じだったので、ボーイは眉をひそめることを禁じ得ない。何か言いたそうなボーイの顔をいつもなら睨み付けているみさとだったが、今日は気にならなかった。
早速お客のテーブルまで案内されるのかと思いきや、ボーイは声を低くして言った。
「今回のお客様、ちょっと妙なんですよね。見たことのない顔だから、一見いちげんさんだと思うんですけど“金原由美さんはいますか?”って……」
「え?」
みさとは怪訝な顔でボーイを見返す。
「金原由美って言ったの……?」
金原由美。みさとの本名だ。殆どののホステスは源氏名げんじなという、芸名で仕事をする。みさとも「由美」と呼ばれるのは親や学生時代の旧友だけで、お客にはどんなに親しい関係になろうとも本名は一度として名乗ったことはなかった。そんなみさとの本名を知っているというのは、確かに妙だ――もしや、友人の誰かが店に来たのだろうか。だったら、嫌だなぁ……。
 しかし、そんな事くらいでせっかくとれた本指名をナシにするわけにはいかない。みさとは大丈夫よ、と満面の笑顔でボーイに言った。
「最近、スナックの従業員やホステス絡みの凶悪事件が多いですから、変な客には気をつけて下さいよ」
社交辞令しゃこうじれいを感情のこもっていない声でボーイは述べ、みさとを後方に客間へと歩き出した。
心配する気なんてこれっぽっちもないんだから、わざわざそんな事口に出さないでよ。自分より十歳は年下のボーイの背中をみさとは睨みつけた。そして、こう怒りっぽくなっているのも年のせいだろうかとすぐに後悔した。これから仕事だと言うのに、心中はすでにぐだぐだだ。
客間へと続くドアを開けると橙色の光と喧騒が体中を刺激した。広い店内、360度どこを見回しても人、人、人だらけである。それも一様にスーツを着たサラリーマン。似たような格好の男が多くとも、女の子が一つのテーブルにどれくらいいるかで、その人間の金銭的、社会的ポジションは一目瞭然いちもくりょうぜんだ。
様々な色の背広を着たサラリーマンの横を会釈えしゃくしながら通り抜け、目的のテーブルへと辿り着く。ボーイは「お待たせしました、みさとさんです」と特に感情のこもっていない声でみさとを紹介し、すたすたと店裏へ戻っていった。つくづく、愛想のないヤツであった。
テーブルはがらんどうとしていた。本指名が来るまで食いつないでくれるヘルプの子もいなかった。ただ、半分に切ったバームクーヘンのような形をした7人掛けソファーの中央には、一人の男が足を組んで座っているだけ。その男の来ている服は黒のスーツだがその辺りのくたびれたサラリーマンとは違い、のりの張ったきれいなそれである。そでから伸びた白い手首には銀の腕時計が輝いている。みさとのお水としての勘が、この客は相当の金持ちであることを見切った。
「指名ありがとうございます。みさとでーす」
年も顧みずややカワイコぶりすぎたかと自覚するくらいのみさとの丸い挨拶で、テーブルと睨みあいを続けていた客が顔を上げた。閉じていた瞼が開かれる。
 青い瞳の、外国人だった。それも、結構な器量良しである。
 彼の色素の薄い金髪を見たときから、まさかヴィジュアル系まがいのホストではないだろうなとは思っていたが、海外の人間だとも思わなかった。即座に言語の問題がみさとの頭をよぎったが、彼は形の良い眉をわずかに潜めながら(みさとの馬鹿っぽい挨拶を訝かしんだのかも知れない)、「どうも」と挨拶したので、大方の日本語は話せるのかも知れなかった。
 さっきのこびを売りまくった挨拶を後悔しながら、みさとは大人しく席に着いた。長年の経験から、この客には馴れ馴れしく接しない方が良いと直感し、少し距離を保って座った。
男は切れ長の目を上下に動かし、まじまじとみさとを眺めた。そして、落ち着いた低い声で、
「貴女が、カネハラユミさんですか……?」
ボーイの言っていた通り、本名でみさとを呼んだ。勿論、みさとに外国人の知り合いなどおらず、この男とは初対面だ。なのに、何故……?
心の中で違和感が頭をもたげつつもみさとは笑顔でそれを隠し、「そうです」と答えた。
「そうか……」と男は呟く。
今まで眉間に寄せていたしわがなくなり、初めてほっとしたような表情になった。最も、いぶかしんでいた時の彼も今の彼も、顔のベースは「無表情」らしく、安堵した表情といっても些細な顔の変化でしかないのだが。
「会えて光栄です」
男が右手を差し出す。何だか良く分からないまま、みさとはその手を取り握手した。男の手は、日本人の男の手と比べると少し大きい気がした。色の白い皮膚に似合わず手の中はごつごつしている。何か、手を使う仕事でもしているのだろうか。あとで聞いてみよう。
「噂が本当のようでよかった」
男は安堵の息ともため息ともつかない吐息を吐いた。疲れているようだった。
確かに、キャバクラに通う大半は仕事帰りのサラリーマン、もしくは接待中のサラリーマン。常に、心身ともに疲労感が漂っているのだが、彼はそんな商業マンのような疲れとは種類が違うような気がする。仕事疲れというよりは、肉体的な疲れ。丁度、ハリウッドのアクション映画の窮地きゅうちに立たされた主人公のような、ちょっとニヒルな雰囲気なのである。まあ、彼の見てれが俳優張りに優雅だからそう思えたのかもしれないが……。
「何か飲みませんか?」
一段落着いたところを見計らってみさとは酒を勧めた。
男のテーブルには、氷のボトルも酒のグラスも置いてなかったのだ。もしかすると、男の注文で敢えて置かれなかったのかも知れない。
男は首を振って、
「酒は飲みすぎた。それ以外のもので適当に何か欲しい」
酒を飲む場にしては、珍しい事を言う。しかし、確かに男の付けている香水の匂いの中に酒の匂いも混じっている。どこか他のところで飲んできたらしかった。
みさとは男の注文に素直に従い、ウーロン茶をボーイにオーダーしてあげた。その際、みさともレモンスカッシュを頼んだ。間もなく、ボーイがそれらを持ってくると、男は一口だけ口を付けてテーブルの上に置いた。
男の表情はどこか切羽詰せっぱつまった面持ちだ。苦しそうな顔で時間などを確認するところから、全然この状況を楽しんでないことが伺えた。一刻も早く終わらせたい……そんな感じなのだ。ウーロン茶ではホステスの重要な仕事の一つともいえる酒の調合もできない。
私相手じゃ不満なのかしら……。みさとは一瞬不安に駆られたが、指名をしてきたからには自分でないといけないことがあるに違いないと思い直し、自信をつける。
「あの、まだ名前聞いてなかったわよね? 貴方、名前は?」
少しでもこの場を盛り上げようと、努めて明るい声でみさとは言ったが、男の声は今までと変わらず単調だった。名前を聞いただけなのに、何故か少しだけ考え込むような素振りを見せてから、男は言った。
「ジャック。ジャック・テイラー」
「ジャック? いい名前ね。ハリウッドスターに、よくいそうだわ」
取り繕ったみさとの明るい声も、ジャックの「そうか?」と言う低音に、たちまち温度を失う。
何て扱いにくい客だろう……みさとは内心、そう思っていた。久しぶりの指名なのに、つくづく自分も運に見放された女だ。唯一の慰めは、そのお客が若くて、スター顔負けの美男だというところだろうか。
表面上ではそんな思いをおくびにも出さないようにしていたみさとだったが、何となくえた空気をジャックは読み取ったらしい。うんと沈んだ表情で、
「こういう場所は、苦手なんだ」
と弁解するように言った。
それじゃあ、何でこんなところに来たのよ!? と叫びだしたくなるみさとである。
「……ひょっとして、何かの罰ゲーム?」
「え?」
少し困惑した顔でジャックが眉を曇らす。みさとは慌てて、なんでもないです、と謝った。
 いやいや、まさか罰ゲームの類ではないだろう。こんな娯楽施設、罰ゲームの舞台になるはずもないし。
 それでは一体何だろう……?酒を飲みに来たのでも、女の子を目当てに来たのでもないのだとすれば、もっと別に目的があるはず。
 そう、目的だ。
 よくよく観察すれば、このジャック・テイラーという男は、他の酔っぱらい客とは一線を画した雰囲気がある。酒の匂いをはべらせていても、酔っている様子もない。青い瞳はまるでサスペンスドラマに出てくる刑事のように鋭い光を絶やさない。明らかにこの場に場違いな雰囲気なのだ。
「私に、何か用があって来たわけではないんですか……?」
みさとは聞いてみた。彼がここに来た理由は私。それも性的な目的ではない。もっと他の、重要な何か。これが男を洞察して出たみさとの結論だった。
「さすが、貴女は察しがいい……〈ドラゴン〉が好いていただけのことはある」
 暫くの沈黙の後、鋭い目つきの外国人は言った。懐から黒い煙草の箱を取り出して口に銜える。みさとは思わず自分の耳を疑った。
 〈ドラゴン〉。確かに彼はそう言った。かつての男の名前を、口にした。
 みさとは思わず眉を潜めた。自分のホステスとしての立場を忘れるくらい、顔が露骨に嫌な表情を作るのも止められなかった。みさとはやっとの事で、震える声で言葉をつむいだ。
「どうして……〈ドラゴン〉のことを……」
〈ドラゴン〉との関係は、当時・・の知り合いにも伏せていたはずである。みさととドラゴンの間柄を知る者は今尚数えて5本の指に収まるほどしかいない。
「少し、〈ドラゴン〉の事について、聞かせて欲しいことがある……だが、この場所では話しにくい」
ジャックが辺りを一瞥しながら言った。勿論、みさとも同感である。〈ドラゴン〉の事は昔も今もおおっぴらには話せないことばかりだ。
しかし――、
「貴女の仕事が終わり次第、連絡してくれないか?」
みさとは、話すつもりはなかった。
「ちょ、ちょっと待って。私、OKなんて出してないわよ! そもそも、貴方は何者なの!?」
みさとは思わず語尾を荒げる。
今やジャックは普通の人間――いわゆる「一般人」と呼ばれる人間とは全く違う雰囲気を醸し出していた。
血の滴る、〈ドラゴン〉と似たような世界に生きる男――暗くて冷たいオーラと煙草の匂い。紛れもなく闇に身を潜める種類の人間であった。
しかし、ジャックは懇願するような目で、みさとを見る。
「悪いが、俺の事は詳しくは話せない。だけど、どうしても〈ドラゴン〉の情報が必要なんだ……どうか、協力して欲しい」
プラチナブロンドの髪を揺らしながら、ジャックは頭を下げた。