凛はフィオリーナに会っていた。
エルザとともに科学館へ行ってきたそうだ。
互いの無事を喜び、一時間程度の雑談をした。彼女の怪我の具合を聞いて、入院中の恋人の近況を語った。
その時点で、フィオリーナの受けた傷は快癒しており、精神状態も健やかだったという。辞する際、女神の微笑みで、優しく抱きしめてくれた。
凛はショルダーバッグから、緑色の本を取り出した。大判の本で、厚みがある。表紙は蔓草の紋章に似た模様が縁取られている。額縁みたいな装丁の本だ。
「フィオリーナがくれたの」
膝の上に本を広げ、ページをパラパラとめくる。細い指がびっしりと並んだ英語の文字をなぞる。拙い発音だ。
「読めるのか?」
「読めない」
「なんでもらってきたんだ」
「貴方と一緒に読みたいから」
一緒に読みたい? 言っていることの意味が分からない。よく分からないまま、差し出された本を受け取る。
美しい本だ。背表紙にタイトルが記してある。
「Wuthering Heights……これをプレゼントされたのか」
「有名な本なの?」
「嵐が丘」
携帯電話で調べた日本語のタイトルを伝える。
聞いたことある、と凛は言った。
「アルド、読んだことある?」
「ないよ。恋愛小説なんて、読んだことない」
「恋愛小説なんだ!」
凛の顔がぱっと輝く。
肩を寄せて、読めない英文を覗き込んでくる。
確かに恋愛小説ではある。しかし、凛が期待する代物ではない。一般的な知識として、ざっくりとあらすじを知っているアルドは苦笑する――フィオリーナは、好きそうだな。
そういえば……ふと、アルドは思い出す。NYにある我が組織の拠点、ボスにアポイントを取るためのパスコードに作中人物の名前が使われていた。
微かに日焼けしたページの隅を指で撫でる。色々な感情が籠もっていると感じるのは、気のせいだろうか。
科学館での雑談の最中、凛はフィオリーナに相談したそうだ。
アルドと共通の趣味を作りたいの。あたしたちが一緒に楽しめるものって何があるかしら。
すると、フィオリーナは私物の中からこの本を取り出した。
読み終わりましたので、差し上げます。彼は本が好きですし、凛さんは恋愛話がお好きのようですから、ご一緒に読まれてみてはいかがです? とすすめられたそうだ。
「その、一緒に読むってなんなんだ?」
アルドは尋ねる。
先ほども出てきた、不思議な言葉遣い。
一緒に読みたい。
本は閉じられた世界の、個人的な趣味じゃないのか。趣味というか、勉強というか、ツールというか。書籍や論文を、誰かと一緒に読んだことはない。やり方も分からない。感想を言い合うということか?
いまいち飲み込めないアルドの膝に本を広げ、凛は言った。
「読み聞かせてほしいの」
「読み聞かせ? 日本語で?」
「そう」
「翻訳して、朗読するってことか?」
「うん。声が出なかった期間の、発声練習にもなると思うんだけど……駄目?」
悲しげに問いかける凛。駄目かと問われれば、駄目じゃない。試したことがないだけで。
平和だな、と思いながら、平和ではなさそうな本のタイトルを読む。嵐が丘。
うんうん、と凛は相槌を打つ。わくわくしている。子供みたいに。
アルドが英文を精読して、日本語を吟味するタイムラグさえ楽しみに待っている。
アルドは物語る。お喋りではない自分の声が滔々と流れる。それを他人事のように聞いている自分がいる。なんとも不思議な心地だ。
戦いが終わって、平和になって、夢にさえ見なかった最近だ。地獄を切り抜けて、執念深さも頑なさも消え失せた。
抱え込んでいたきつさがなくなると、個人的な好き嫌いもどうでも良くなる。人前で文章を朗読しても、羞恥心は感じない。
彼女が喜ぶと、ただ純粋に、幸せを感じる。
しかし、そんなに楽しいかな。ちらちらと横目に凛を見ながらアルドは思う。
俺の声で、恋愛小説を聞いて、楽しいのか?
この本の日本語訳を読んだり、原作の映画やドラマを一緒に見た方が、理解が深まらないか? クオリティも担保できないか? そういうベクトルの話じゃないのか?
文章を読み上げながら、もやもやと考え込むうちに、もたれた肩に重みを感じた。
隣を見ると、ふっくらした目蓋が見えた。微かに開いた唇から、穏やかな寝息が聞こえてくる。
「寝てる……」
驚きのつぶやきは、凛の耳に届かない。一度熟睡すると起きない性質だ。
テーブルの上に本を置き、細い身体を抱き上げる。
ベッドに横たわらせて、布団をかけた。凛はすやすやと眠っている。小さな唇から静かな息を吐き、小さな胸を微かに上下させて。
その寝顔は、いつもと違う。
彼女が過剰に身につけている、「女の子」という感じがしない。
ベッドの前に腰を下ろす。
生まれ持った性質で、つい観察してしまう。
抱き合った後と、少し違う。
なんだろう、この違いは。
数分ばかり寝顔を眺め、ぼんやりと感じ取ることができた。
おそらく、こういうことをしたかったのだろう。子供時代に。
「恋人と共通の趣味を作りたい」という理由も本心からだ。
本人さえ気づいていない。
なるほど、とアルドは思う。
複雑な事情はあったものの、自分の幼少期は幸福だった。橋から突き落とされる前も、突き落とされた後も。
ルディガーと、サユリとアラン。親か里親が側にいて、いつも優しく接してくれた。身の安全も、常に保障されていた。
彼女はサバイバルの連続だったのだろう。物心のついたときから、大人になるまで。
母親か父親に、して欲しかったこと。
無意識のうちに、願っていたこと。
アルドは手を伸ばして、凛の頭を撫でた。白い額にキスをして、子供の頃に何度も聞かされた声色で「おやすみ」を言った。
リビングに戻って、ソファに腰掛ける。置いたばかりの小説本をパラパラとめくる。ざっと斜め読みをする。
物語は苦手だが、「嵐が丘」は苦手ではないかも知れない。彼女の寝顔を見ていたら、なぜかそんな気がしてきた。装丁も美しい。奥付を見ると、七十年代に出版されている。ヴィンテージ品とは思えないほど、保存状態も良い。
なんでも乱雑に読み漁って、余白にメモを残したりする自分とは違い、フィオリーナは丁寧に書籍を取り扱っている。
彼女の物腰、言葉遣い、銃器の扱い方と同じく丁寧だ。経年劣化以外の汚れがほぼない。栞代わりに、ページを折った痕もない。きれいだ。最終ページ以外は。
裏表紙の見返しに、走り書きがしてあった。
さらさらと流れる、ドイツ語の走り書き。
――僕の宝物へ。
一目見ただけで、ルディガーの筆記だと分かった。記憶に残る、父親の筆跡と同じだ。
それに、この文章表現。
Schatz――宝物。
父親が好んで用いた言葉。子供の自分が何度も聞かされた言葉。
万年筆で書いたのであろう、ところどころ滲んだ文字を指でなぞる。
強い筆圧で、でこぼこしている。
「これは重すぎるよ、父さん」
思ったことが、そのまま口をついて出た。失笑と苦笑の間の、不思議な笑いが唇から漏れた。
父親は、どこまでも大真面目だったんだろう。
フィオリーナは、その真面目さを引きずりすぎたんだろう。
めぐりめぐってこの本が、凛に健やかな眠りを与えるとは不思議な因果だ。
ソファに背を預けて、アルドは続きを読んだ。
三時間が経った。寝室の扉が開き、静々と彼女が戻ってきた。
寝起きの温かな身体が肩に触れる。
「眠ってしまった」
恥ずかしそうにつぶやく。生あくびを噛む姿は、未だに眠そうだ。キッチンから炭酸水を持ってくると、凛は舐めるように飲んだ。鼻を通る炭酸の強さに、時折顔をしかめながら。
目が冴えると、机の上の本を手に取った。
冷たい、とつぶやきながら、読めない英文を指でなぞっている。
アルドは言った。
「ドイツに行くか」
凛は顔をあげた。
ポカンとした顔で、アルドを見ている。フリーズしている間に、今聞こえた言葉が幻聴であるかを検分しているようだ。
唐突に切り出しすぎたか。
アルドは頭を掻く。
「……前に言っていたよな。〝くんくん仮説〟の続きが気になるって。俺も気になる」
「〝くんくん仮説〟、謎めいているよね」
「それも、気になるけれど……」
アルドは凛を見る。
「君のことが気になる」
「あたし?」
「そう。リンが好きなこと。興味を示すもの。価値観や物の考え方。俺たちは、生き延びるという条件付きの環境下で知り合った。条件が変わった今、君の様々な側面を見ている。環境も変われば、さらに変化する君が見られるだろう。エルザの誘いは、君のことを知る、最良の機会になるはずだ」
話を聞き終えると同時に、彼女の顔がぼっと赤くなった。
ぎゅっと本を抱きしめて、顔を隠すようにうつむく。照れてる。何故? 女の子はよく分からないな、と思いつつ、もじもじされるとこちらも気恥ずかしくなってくる。
沈黙に耐えきれず、アルドは言った。
「俺はおかしなことを言ったか?」
「科学者みたいなこと言った」
「そうかな」
「あたしのこと、分析してる?」
「興味の対象は、分析するだろ」
「普通はしない」
「父親の遺伝かな……」
「いっそのこと、エルザのところで修行して、科学者になっちゃったら?」
イズンとあたしとアルド。科学者の卵たち。凛はくすくすと笑う。
「向いていると思うわよ」
「マッド・サイエンティストの素質はあるかもな」
「実験器具から遠ざけておこう」
くすくす笑い続ける凛。その響きは心地よい音楽のように部屋を流れる。
アルドは窓際に置かれた、キャビネットに目を移す。二番目の引き出しの中に、銃とホルスターがしまってある。
「意識の断絶」が起きてから、一度も手にしていない仕事道具。凛と暮らすようになってから、引き出しを開けていない。馴染み深いグリップの感触を思い出すと、恐れすら感じる。
できることなら、二度とあの引き出しを開けたくない。
それでも……。
俺はまだ、「こちら側」の世界にいる。