後編

 体良く凛と茜を小麗に任せて、場外退場させた。
 四人での会話の最中に携帯電話をいじっていたのは、小麗と打ち合わせていたからだ。いつの間に仲良くなったのか。
 テロ事件が終わってから顔を合わせていないはずだ。アルドも凛もたびたび笹川邸にやってきたが、小麗は奥の間に引っ込んで顔も見せなかった。
 そのうちに彼らはドイツへ旅立ち、あっという間に二年が過ぎた。小麗との交友も気になるが、もっと気になるのは、この現状だ。
 わけを尋ねると、「⁠⁠お前とサシで話したくてな」とアルドは答えた。
「ここだけの話にしたい」
「二年前みたいに、凛を託す気じゃないだろうな? 説明書みたいな遺言つきで」
冗談半分の真一の言葉に、アルドは驚いたようだった。全然違う、と珍しく憤慨して答える。
「聞きたいのは⁠⁠シャオレイのことだよ」
「小麗?」
「彼女の子供について」
灰青色と紫色。オッドアイが真一を捉える。その眼差しは真剣だ。
 小麗の子供、私生児について聞きたがっている。
 仲良くなったわけだし、直接本人から聞けばいいだろ? と言いたくなる。
 同時に、聞きづらいんだろうな、とも思う。とてもセンシティブな問題だ。アルドはその子供の父親らしき人物を殺害している。
 真一は頭を掻く。その困惑を、アルドも感じ取っている。
 念を押すように言い添えた。
「その子供に何をしようと言うわけじゃない」
「当たり前だろ。妙なことをしたら、笹川一家に復讐されるぞ」
「そしてお前にも絶縁される」
「そうなるね」
「リンが悲しむことはしない」
「俺も悲しませないでくれよ」
「その通り。それが担保だ」とアルドは言った。
「どうか教えてくれないか」

 二年前、小麗は狙撃手に撃けた怪我の回復のため、笹川邸で療養した。
 数ヶ月が経ち、大規模テロ事件も落ち着いたところで妊娠が発覚した。彼女は臨月まで笹川邸で暮らし、近隣の病院で子供を産んだ。身寄りのない母親と子供は、引き続き笹川邸に身を寄せることになった。
 あれから二年。小麗は笹川邸で些事をこなしながら子供を育てている。笹川毅一はその子供を孫のように可愛がっている。真一の存在を忘れるほどの溺愛ぶりだ。
 祖父だけでなく、笹川邸に住むヤクザたち全員が、いかつい顔をとろけさせて子供の面倒を見ている。見目麗しい小麗も含めて、笹川組のアイドルの地位をほしいままにしている。真一も甥を愛でる感覚で可愛がっているものの、わずかな嫉妬心が湧いている。
 王子様の座を奪われた。年甲斐のないことは分かっている。あれだけ嫌がっていた若君の座が恋しいなんて、ないものねだりのわがままだ。
 ただ、兄のように慕っていた一之瀬さえも子供を優先させるのが、思いの外、寂しいのだ。
 おっと、俺のことはどうでも良いか。真一は我に帰る。そして悩む。
 これは、小麗のプライバシーにも関わることだ。いくら友達の頼みと言えど、ぺらぺらと内情を喋るわけにいかない。
 煮え切らない真一を見かねて、アルドは口火を切った。
「俺から話すか」
「何を?」
「⁠⁠シャオレイと友達になった話」
そう言ってアルドは話し始めた。

 一年ほど前、日本に帰ってきたときに小麗と会った。
 一之瀬に連絡をとって仲介してもらった。彼女は子供を産んで数ヶ月が経っていて、心身ともに安定していた。
 俺は一人で笹川邸に向かい、縁側近くの客間で小麗に会うことができた。穏やかに挨拶する彼女をひと目見て分かった。チャイナドレスの右太腿に小型の銃。長袖の裏に毒針や指弾の鉛玉を仕込んでいる。暗器というやつだな。
 彼女も俺の懐に隠された大型拳銃とヒップホルスターのバックアップ・ガンに気づいた。

「ちょっとストップ!」真一は割り込んだ。
「友達になった話をしてるんだよな? なんで戦う気満々なんだよ」
「パラ・ベラムだ」とアルドは答えた。
「俺にはリンがいる。⁠⁠シャオレイには子供がいる。守るもののために備えは必要だ」
 そう言ってアルドは話を続けた。

 ざっとお互いの隠し武器を確認して、座卓に向かい合わせになった。一之瀬は気を利かせて席を外してくれた。場が静まって、初めに俺は詫びた。小麗の恋愛事情は凛から聞いた。
 仕事とは言え、彼女の慕っていた人物の生命を奪った。子供においては父親の生命を奪ったかも知れない――そのときも、⁠⁠彼女は父親の素性を一切明かさなかったがな。とにかくその非道を詫びた。過去の殺人を蒸し返して、彼女を傷つける恐れもあったが、ここは笹川毅一のフィールドだ。郷に入って筋を通した……というよりも、個人的なけじめかな。
 許すと申し上げました、と小麗は言った。一年前に、龍頭凛に伝えたはずです。お聞きになったでしょう?
 障子を隔てた向こう側から、子供の声が聞こえた。笹川毅一と遊んでいるようだった。
 小麗は素早く俺と、声のする方へ視線を向けて、元に戻した。
 怒る暇もなく私は忙しいのです、と小麗は言った。
 私怨は今もくすぶっております。そして、土に覆われている。恨みの炎は、絶え間なく続く忙しさと安らぎの日々に埋もれています。いつかすっかり埋れきって、わずかな火種も見えなくなる日が来るかも知れない。それは時間をかけないと分からないことです。
 「私自身でさえ、何とも申し上げられません。それよりも、今日は別の用事でお見えになったのでしょう? 単刀直入にお話いただけませんか?」
 彼女は真面目な合理主義だった。そこで俺も、子供の状態を確認させて欲しい、とストレートに切り出した。もちろん、断られた。貴方⁠⁠を子供⁠⁠に会わせるわけにいかないと。
 想定内の答えだった。食い下がってもしょうがない。俺は自分の名刺の裏に、エルザの研究所につながる電話番号を書いて小麗に渡した。
 子供の様子――特に虹彩に異変が顕れたら、この番号に電話してください。老婆か青年が応答するはずです。彼らは子供の抱える問題の解決策を考えてくれる。もちろん、倫理道徳に則った形で。君の大事なものを損なわないやり方で助けてくれるはずだ⁠⁠から、心に留めておいてください。
 小麗は名刺を手にとってしげしげと眺めた。
 私の子供は健やかです。他の子供と変わりなく元気に育っています、と小麗は言った。
 しかし、もし貴方が懸念する問題が生じた折には、頼らせてもらうかも知れません。わざわざありがとうございます。
 対面はそれで終わりだった。一応の手は尽くしたつもりだ。それが贖罪に値するかは分からないが、やれることはやった。小麗とはもう会うこともないだろうと思った。
 ところがその数ヶ月後に、なぜか俺のビジネス用の携帯に電話がかかってきた。
 名刺の裏面ではなく、表面の番号にかけてきたんだ。
 アルドさんが日本に滞在中とお聞きしたので、ご連絡を差し上げました。ご都合が宜しければ、凛さんもご一緒にお食事に行きませんか? と誘われた。彼女の意向はよく分からなかったが、凛を連れて食事に行った。
 その後も何度か食事に行き、とりとめのない話をしている。
 戦いや遺伝子や過去の因縁とは関係のない世間話を。
 彼女たちはすぐに打ち解けた。笹川邸に小麗が舞い込んできたときから、友情の兆しはあったみたいだ。
 とりとめのない会話の中で、小麗はたまに子供の話をする。慎重に慎重を重ねて、あらかじめ伝えようと決めた情報だけをくれる。
 俺は軽く聞き流すふりをしながら、かなり真剣に話を聞いている。彼女の話し方や仕草からも、その子供は虹彩の変化も精神錯乱も来さずに、すくすくと育っていることを感じ取る。
 年齢平均の一.五倍の食事を摂取して、腕力は強いらしい。平均的な身長と体重で、知能は年相応。活発に動き回って、不快を感じると赤ん坊らしく泣き喚く。食事量と腕力以外は、いたって普通だそうだ。
 後天遺伝子を、遺伝子注入以外の方法で継承した人間は初めてだ。
 俺はその子供に会っていない。
 小麗が小出しにする情報を紐付けて色々なことを考えたが、あくまで机上の空論だ。
⁠⁠
「そこでマイチの所感を聞きたい」とアルドは言った。
「所感って、俺の感想でいいの?」
「そうだ」
「本当に何もしない?」
「何もしない。子供の未来は奪えない。どんな大人も、親でさえも⁠⁠……」
アルドの目が「そうだろ?」と訴えかける。
 色の違う双眼の、謎めいた強さに押されて、いつの間にか真一は喋っていた。
「目は黒い。髪も黒い」
顕性遺伝けんせいいでんが働いてる」
「目鼻立ちがくっきりした、男の子だよ。気が強い割に泣き虫だ」
真一は軽い足取りで、笹川邸の廊下を走り抜ける子供の背中を思い出す。
 よちよちしながらも、すばしっこく角を曲がる。あまりの速さにコントロールが効かず、角を曲がった先でいつも障子に激突する。顔を真っ赤にして、大声でぎゃんぎゃん泣き叫ぶ。
 獣っぽい行動だが、二年前に大量出現した獣とはまったく違う。獣というより怪獣だ。
「その子の名前を聞いても良いか?」
⁠⁠慎重にアルドは尋ねた。
「ジェロくん」
「愛称かな。小麗の母国語だと小名ってやつか」
「そうかも。みんなが呼んでるから俺もそう呼んでる。本名は別にあるらしい」
「⁠⁠……アンジェロ」
アルドは言った。
「天使という意味のイタリア語。その子の本名は、アンジェロだと思う」
「よっ、名推理! ……ただ、解決編はないな」
「そうだな。憶測の域を出ない」
アルドは質問をやめた。
 満足した? と真一は聞く。
 最後に一つだけ。可否の代わりに、アルドは言った。
「その子供は幸せか?」
「え?」
「マイチの目から見て、その子供は幸せに見えるか?」
アルドは丁寧に言葉を補足し、静かに問いかける。
 難しい質問だ。なんと答えたら良いものか。真一は考える。
 ジェロくんは二歳になったばかりだ。毎日元気に遊んでいる。
 笹川邸はのどかで、強面のヤクザたちが可愛がっている。衣食住も確保されているし、小麗も愛情をかけて育てているようだ。
 しかし、幸せかどうかと問われると分からない。それはジェロくん本人にしか分からない。
 いや、彼自身でさえ分からない気がする。幸せの意味を考えられるほど大人じゃない。
⁠そもそも人間は、永遠に幸せを感じ続けられるほど、単純には出来ていない。幸せを感じていても、次の瞬間に不幸が訪れたりする。
 ジェロくんは、大笑いした瞬間に、気に食わないことがあるとすぐに泣き出す。彼だけでなく、ほとんどの人間が大なり小なり幸不幸の浮き沈みを繰り返している。
 ⁠⁠したがって、その質問には答えづらい。
「楽しそうにしてるよ」
熟慮の末、真一は言った。
「少し前に実家の庭先を散歩したんだ。小麗とジェロくんと俺で。ジェロくんは池の鯉に興味津々で、何度呼びかけてもその場を離れなかった。カサナ! カサナ! って変な日本語を喋りながら、身を乗り出して池を覗き込んでいた。色々なことを知っていく過程が楽しいみたいですって、小麗は言っていたよ。幸せかどうかは分からないけど、毎日が楽しそうだ」
「幸せではなく、楽しいのか」
「そう。俺たちが見飽きたものに驚いている。驚いて⁠⁠、楽しんでいる」
「その気持ちはよく分かる」
「お前は二歳児の気持ちが分かるのか」
 真面目な顔で相槌を打つアルドに、思わず真一は笑ってしまう。
 年齢は関係ないだろ、とアルドは言った。
「子供でも大人でも、発見の過程は楽しいものだろ。興味の対象物が、池の鯉か犯罪学かの違いがあるだけで。未知が既知になる瞬間は、驚愕と愉悦の連続だ。なるほど⁠⁠……それが子供の世界の見方か」
 曖昧な相槌を打ちながら、まったく理屈っぽいヤツだな、と真一は思う。
⁠⁠ 仕事を変えて学者気質が加速してないか? 言い方も小難しくて眠くなりそうだ。
 アルドらしい変な納得の仕方だが、とにかくこの回答で満足したようだ。
⁠⁠ 今聞いたことは誰にも話さない。シャオレイが語ってくれるまで心の中に留めておく、と友人は約束した。
「ひとまず安心した。子供が楽しそうで何よりだ」
「今の話、エルザにもオフレコで頼むぜ」
「エルザ?」
「後天遺伝子の子孫の研究。そのための調査なんだろ?」
「まさか。個人的な興味だよ」
「知的好奇心?」
「少し違うな」
ふぅん、と真一は相槌を打った。
 他人に深入りしないアルドがここまで根掘り葉掘り問いただしてくるなんて珍しい。しかも会ったことのない友達の子供に。てっきりエルザのお使いかと思ったが違うようだ。
⁠ 殺す気も⁠⁠目をかける気も研究する気もないのなら、なぜここまで関わろうとする?
 そのとき、アルドの携帯電話が鳴った。
 着信元は凛からで、お昼は中華にしようと思うけど、二人も来ない? という内容だった。
⁠⁠ささやかな疑問が吹き飛び、颯爽と真一は挙手する。
「はい! はい! 天津飯食べたい!」
 真一の声と空腹音が電話を通して凛にも伝わったらしい。ハンズフリーになっていないのに、明るい笑いが聞こえてくる。
 真一くんの声よく通るね。お腹の音まで聞こえたよ。
 凛の賑やかな声もよく通る。
 穏やかに相槌を打ちながら、アルドはちらと真一を見た。
「ああ、その話なら言ってないよ。はいはい、サプライズだな。分かってるよ……声がでかい? 普通に喋っても気づかないだろ。おい、気づいていないよな?」
「何が?」
「ほら、気づいてない。また後でな」
そう言って電話を切る。
 切った後にディスプレイを見て、もう昼か、とつぶやく。
「中華街、行くか」
「今回はごちになります!」
「いつもそうだろ」
真一は社長椅子の向こうにあるコート掛けから、スカジャンを羽織る。
 二月といえどまだ寒い。身支度を整えながら尋ねる。
「さっきの電話。サプライズって何さ?」
「秘密にしろって。時期に分かるよ」
「凛のサプライズの怖さ、お前も知ってるだろ?」
「安心しろ。今回は怖くない」
「本当?」
「俺としては怖い」
「や、やっぱり怖いやつじゃん! なんだよ、教えろよ。先に知っておいたらショックも和らぐだろ。友達のよしみで教えてくれよ!」
真一はアルドの周りをくるくる回る。飼い主にまとわりつく犬みたいに。
「心配するな。大丈夫だから」と言い聞かせ、アルドは扉を開けた。

                                         終