「息つく間もない展開! 異能力バトル! どんどん強くなる敵! 女の子も可愛い! 単行本、読んでくれた? 別の漫画も持ってこようか?」
にこにこしながら真一が言った。
 素早く断りのタイピングを打つ。
 広々とした個室の一角を、漫画が占領し始めている。ベッドの周りはゲーム機と漫画だらけだ。自分の病室が、真一の趣味の部屋に変わりつつある。
「三巻まで読んだらハマるのに」
不満げに漫画本をぱらぱらめくる。
「絶対、面白いって」
――その本なら、全部読んだぞ。
「えっ、読破したの? マジ?」
――ああ。だから返却する。
 面白かっただろ? と目を輝かせる真一に頷きを返す。
「どこが面白かった?」
目の輝きは最高潮に達している。オタク野郎は語りたがっている。架空の人物、架空の出来事について議論を交わしたがっている。
 ベッドから立ち上がると、隅に寄せていた漫画類を段ボール箱に詰め込む。退院日が迫ってきた。見舞いにきた人間が置いていった物を、徐々に片していきたい。
 借りたものは返す。食い物は真一に食わせる。使わなくなったものは捨てる。
 真一は丸椅子に座ったまま、架空の人物、架空の出来事について熱く語っている。
⁠⁠ 手伝えよ、と文字を打つのも面倒くさく、黙々と作業を続けた。重い箱をベッドの上に置くと、金属パイプがわずかに軋んだ。
 本当にもういいの? ⁠⁠まだまだ面白い漫画あるよ? いくらでも貸すよ? 心配そうに問い続ける真一。漫画を読まないと人間は死ぬと思っている。
⁠⁠ 箱の上にゲーム機と充電器⁠⁠を載せる。ゲームはあまりやらなかった。各ゲームのルールやシステム、プレイヤーが熱狂するポイントを発見したら飽きてしまった。
「漫画もゲームもハマらないなんて。本当に二十代?」
――ハマったよ。面白かった。
「なんつーか、熱量が違うんだよ。俺とお前じゃ」
――マイチがオタクなんだろ。
「オタクなんて言葉は死語だ。漫画やゲームが嫌いなやつなんてこの世にいないじゃん」
 すごいな。シドと同じことを言っている。オタク野郎とギーク野郎は考え方が似ているんだな。
 アルドが感心する傍、真一が頭を掻く。段ボール箱から漫画を取り出してぱらぱらとめくる。
「本当に、面白かった?」
――疑り深いな。面白かったよ。
「どの辺が面白かった?」
先ほどと同じ質問をされる。
 真一の好みはバトル漫画で、作中人物が不思議な力で宿敵と戦っていた。アメリカン・コミックと同じ善と悪の対立。たまに内輪揉めが起こる。敵側も信念を持っていたりする。
⁠⁠ 何が面白かったかというと、上手く説明できない。
 文字で表現できないわけではなく、感想が思い浮かばない。
――面白かった。ただ、説明が難しい。得意じゃないんだ。
「漫画が?」
――物語が。
「物語?」
真一はディスプレイに表示された言葉を読み上げる。
アルドは頷く。
――物語の起源は神話だ。すべての物語は、何万年も前に出来た神話の形式をアレンジしてできている。その構造を読み解くのは面白い。予定が調和すると楽しいと感じる。ただ、登場人物の視点に立って盛り上がれない。自己投影や感情移入が⁠⁠、どうしても出来ない。
「また難しいこと言ってる」
――そうだな。難解だ。
真一が首を傾げる。理解できなくて当然だ。自分でも上手く言えない。万人とは違う感覚を、ただ自覚するだけ。これはシナリオが良い、とすすめられたゲームも途中でやめてしまった。
⁠⁠ 架空のものに心を移せない。夢の中に入り込めない。この感覚は、どうしようもないものだ。
 真一はゲームを起動させ、画面を操作する。
 これはどう? とすすめられたタイトルは、シンプルなパズルゲーム。延々と得点を稼ぎ続ける古くからあるタイトルだ。ゲーム機の中にデフォルトで備わっていて、配給会社からダウンロードせずに無料で使える。
――それがいちばん面白かった。
「どこが面白いんだよ。ブロックを延々と積み上げていくだけだろ」
――無心になれるところがいい。
ランキング形式のスコア表を見て、
⁠⁠「俺の名前が、全国三位に入ってる……」
真一は⁠⁠愕然がくぜんとした。

 凛は面会制限のぎりぎりまで病室にいた。
 毎日お見舞いにきて、身近に起こった出来事を報告してくれる。
 彼女はエルザと共同生活を続けていて、研究にも手を貸しているらしい。自身の遺伝子が先天遺伝子や後天遺伝子にどんな影響を及ぼすのか。答えを見つけられたら良いが、発見の過程も面白いと言う。
「エルザ、英語も教えてくれる。手の空いた時間に、授業を開く。教え子が二人。あたしとイズン。学校って楽しいところね」と凛は⁠つたない英語を使って感想を述べる。
 笹川邸で茜と暮らしていた時と同じく、彼女は毎日楽しそうだ。日を重ねるごとに英語も上達している。
 ハーブティーの入れ方は、イズンから教わった。病室に置いてある薬草箱から、いくつかの種類をブレンドして、お茶を煮出してくれる。初めのうちは渋すぎて飲めなかった。回数を重ねるうちに、バランスの良い調合ができるようになった。その過程も、凛は楽しんでいた。
「アルドのところに来る前に、お父さんの病室に寄ったの。ハーブティーを作ったら、そんな女っぽいもん飲めないって。ハーブじゃなくてハッパ持ってこい⁠⁠って。……まったく、お喋りを止めるハーブはないのかしら」
彼女の雑談は、正宗の近況⁠⁠報告とセットだ。一般病棟に寄った後で、この病室にやってくる。彼の無茶苦茶な言動が、新聞に載っている四コマ漫画のように毎日届く。
――君は、父親と一緒に暮らしたい?
「まさか!」と凛は驚いたように言った。
「あり得ない。絶対に嫌よ!」
青ざめた顔で首を振る。話の流れで聞いてみたが、とてつもない拒否反応を示した。笹川邸で見せていた親子の会話は、正宗の言う通り演技だったのか。見事に騙された。
 ⁠⁠……あの子に俺の存在は重すぎる。
 正宗が言っていた言葉を思い出す。
 ⁠⁠……俺の存在だって重い。
 ショッピングモールに潜入する前、感じたことを思い出す。
 ティーカップを手にする。ゆっくりとハーブティーを飲む。
 凛にプランはあるのだろうか。これからのことについて。
 厳密に言うと、二人の関係について。
 いつの間にか、空になったカップを見つめていた。
「あたしのこと考えてる。そして困ってる」
空のカップにお茶を注ぎ足しながら、凛は言った。
「あたしのことを考えるとき、だいたい困ってる。そうでしょ?」
赤色のお茶が白いカップを満たす。
⁠⁠ ローズヒップティーは彼女のお気に入りだ。
――父親の勘の良さが遺伝したな。
「やめてよ。お母さん似だってば。一途な清純派」
凛も自身のカップにお茶を注ぎ足す。両手でカップを抱えて、親指で金色の縁をなぞる。爪に塗られたマニキュアとローズヒップティーの赤さの濃度を見比べている。
 ⁠⁠しばらくして、彼女⁠⁠はゆっくりと話し始めた。
「エルザがね、良かったらドイツに来ない? って言ってるの。あたしたちの遺伝子について、もっと知りたいんだって。この話、聞かされていない? タイミングを見計らっているんだと思う。あたしたち、その遺伝子のせいで、ずっと傷ついてきたから。もう関わりたくないって思っても不思議じゃないから。無理強いはしないって言ってた」
 凛はなみなみと注いだカップを見る。その中に映る自分の表情をぼうっと見つめる。
 俺のことを考えている⁠⁠。アルドは⁠⁠思った。
 俺のことを考えている。そして困っている。
 PCで文字を打つ。
――リンはどうしたい?
「あたし?」
――君の考えが聞きたい。
「そうね……ちょっとだけ興味があるかな。〝くんくん仮説〟の続きが。ちょっとだけね。⁠⁠でも、そのことで誰かを傷つけるなら、他に興味があることはいくらでも見つけられる」
 例えば、理屈っぽい貴方の可愛さとかね。
⁠⁠ そう言って、凛はアルドの手を握った。
「お互いに、無理するのはやめましょう。もう困らなくて良いのよ、あたしたちは」