「ワーカーホリックは、死んでも治らないらしいな」
 電話先でシドが言った。耳にするのもおぞましい笑い声が電子音にくるまって聞こえる。
 アルドは悪魔の笑いがおさまるのを待つ。ひとしきり笑っ⁠⁠た後、シドは切り出した。
⁠⁠ 本拠地の解体は順調だ。俺たちと狙撃手、その他大勢で叩きのめしてる。勘の良い何人かは一足先に国外に逃げたが、現地の仲間が血祭りにあげた。もう一息だ。
「太陽は平等に降り注ぐ。善人にも悪人にも。犯罪社会の太陽は、降り注いだ何人かを焼き殺す。たまにな」
 楽しげなシドの声はよく響く。彼は科学館にいる。空の目から同勤に指示を出し、アルドの電話に答え、メッセージをやりとりしている。彼はその他にも、あらゆるツールを駆使して、危険なお友達とコンタクトをとっている。
⁠⁠ モニタールームに何台ものPCを並べて、作業に勤しむシドの姿が目に浮かぶ。
――ギーク野郎。
 PCからメッセージを打つと、すぐに⁠⁠返信がきた。
――⁠⁠今やテクノロジー社会だぞ。時代錯誤の呼び方はやめろ。
――喋れるだろ。通話にしろよ。
「⁠⁠今やテクノロジー社会だぞ。時代錯誤の呼び方はやめろ」
わざわざ言い直すなよ……呆れながら、話題に上がった太陽について尋ねる。
 犯罪社会の太陽は、最前線で威光を示しているのか。⁠⁠隙のない体術を使って?
「無論、表に出るわけない」とシドは答えた。
「⁠⁠⁠止むを得ず駒に回っていただけ。ナイトを守るためにクイーンが動いた。あれは非常手段。⁠⁠そして彼女はクイーンじゃない。駒ですらない。彼女はAIより優秀なプレイヤーだ。知っているだろう、ナイトくんよ?」
――周りくどい比喩だな。巧みでもない。
 嫌味を込めたメッセージをぶつけると、シドは例の笑いで吹き飛ばした。上機嫌な笑い。寛容な喋り方。ふざけた比喩表現。それらが答えを示していたが、証拠不十分だ。
⁠⁠ 椅子を引く音が聞こえ、廊下に靴音が響く。どこに行くんだ? と投げかけた問いに返答がないのは、彼が⁠⁠PCから離れたからだ。
 シドは歌うように喋った。
⁠⁠ 未成年連続殺人事件と集団テロ攻撃。警視庁と防衛省を大混乱に陥れた事件は、進展を迎える。
 それらしい薬が発見されて、それらしい国外の麻薬カルテルが逮捕される。錯乱状態を起こすその薬について、科学者が何年も研究を行うが、結局、謎は解明されない。他害のない合成麻薬だと結論づける。
 一方で、麻薬の流通経路から、それらしいカルト教団が見つかる。彼らは未成年を捕らえて薬漬けにし、神の名の下に集団テロを企んでいた。
 数年前のあの事件は、教団に洗脳された子供たちの大反乱だったと、各組織のお偉方、専門家、研究者や評論家が結論づける。
「……以上。十年から二十年は掛かる大風呂敷だ」
なるほど、と相槌を打ちたいところだが、声が出ない。シドは続ける。
「チェスをするにはボードがいる。プレイヤーは碁盤作りに忙しい」
 携帯電話の画面が映像に変わった。
 科学館の一階。中央にあるテーブル席に座って、彼女はPCを打っていた。作業をしているのか、連絡を取っているのか。
⁠⁠ 窓から差し込む明るい光が、鏡張りの黒い部屋を白く照らし出している。
 それは古びた西洋画に似た、美しい光景だった。
 光が反射する部屋の、遠くに見える女性。
 美しいな、と思った。
 絵画を見たときと、同じ感想を抱いた。
「え」
口にした言葉に彼女が気づいた。顔を上げた瞬間、画面がブラックアウトした。
「嫌がらせじゃないぞ」
シドは言った。
「再会は、対面の方が感動的だろう?」


「嫌がらせよね」
エルザが言った。スピーカーフォンにした携帯電話で、彼女もやり取りを聞いていた。
嫉妬しっとしているのよ、シドは。今頃になって、フィオリーナの⁠⁠行動に、ショックを受けているんだわ。その腹立ちをアルドにぶつけてくるなんて。まったく大人げないったら……!」
 ぷりぷりと怒り出すエルザ。
 アルドは曖昧に頷く。
 そんな意図はないんじゃないかな、などと異論を唱えるべきではない。
 異論はトラブルに発展する。⁠⁠不毛な論争⁠⁠を、やりあう⁠⁠だけ無駄に疲れる。
 したがって、⁠⁠ご婦人が語調を強めるときは、傾聴けいちょうするに限る⁠⁠のだ。⁠⁠それがどんな内容だったとしてもクールに進めるに限る。
 嫉妬、嫉妬か。まるで愛憎劇の登場人物⁠⁠になったみたいだ。エルザの憤慨も、テレビ⁠⁠に投げかける野次やじに聞こえる。隣に座るイズンが、静かにハーブティーを味わっている。
 彼の変わりない様子を見るに、エルザは恋愛ドラマを見るのが趣味だ。
 何にせよ、ボスと影武者⁠⁠は無事に生き延びた。組織は何事もなく継続される。新しく支給された携帯電話の使い心地は慣れないが。
 ふと思い立って、携帯のテキストアプリに文字を打ち込んだ。エルザに見せる。
――リンのにおいの仮説は⁠⁠証明できなかった。それは本当ですか?
「その質問には、支持されていない、と答えましょうか」
エルザは言った。
「彼女の私物や血液は、Np5g被験体に影響を及ぼさなかった。五感や脳に対しても、身体機能や精神状態に対しても。私の行った実験では、凛ちゃんの仮説を証明できるものがなかった」
アルドは考え込む。「くんくん仮説」は、ドイツに送った赤目に無効だった。エルザは日本へやってきてから、テロを起こした赤目たちの血液をもらい、研究を続けている。彼らの遺伝子にも、凛の「くんくん仮説」は通用しない。
――どうして俺の侵食は止まったんだろう?
 分からない……エルザは残念そうに首を振った。
「戦いを終えた貴方は、まさに獣化する直前だった。おそらく脳にも影響が出ていたはず。ところが、凛ちゃんと接触して深い眠りに落ちた。眠っている間に、獣化に関わる言語野や運動野⁠⁠が正常化し精神状態が元に戻った」
――リンが関係しているのかな。
「それは間違いなさそう。凛ちゃんのにおいは、アルドだけに特別な反応を示すのかも知れない。実験では証明できない、特別な何かがあるのかも。個体差については研究が進んでいないし、私の元にあるサンプルも少ないから、憶測でしかないけれど。彼らの発達した五感についても、本当はもっと研究したいところなのよ。本拠地から引き揚げてくる、研究資料が待ち遠しいわねぇ⁠⁠!」
 爛々らんらんと目を輝かせるエルザ。アルドは曖昧に頷く。
 六十代か七十代か⁠⁠は分からないが、ものすごい好奇心だ。研究意欲がシワのよった目の奥で燃え盛っている。それは、記憶の中の父親にも通⁠⁠じた。研究者は、いくつになっても好奇心が衰えない。
 あら、いけない、と老婦人は我に帰り、しんみりと言った。
「ごめんなさい。アルドは辛い思いをしたのに⁠⁠。つい研究者の悪い癖が出てしまって……」
――気にして⁠⁠いないよ。少しだけ、父親を思い出した。
 そう、とエルザはつぶやき、優しげに目を細めた。
 トイレに行ってくる、と席を立つエルザをドアまで送り届け、イズンが丸椅子に戻ってきた。新しいお茶をカップに注いで渡してくれる。ラベンダーのにおいがする、薄紫色の紅茶。他にも色々なハーブがブレンドされている。
⁠⁠ 頭痛がすると言ったら、その場で数種類の薬草を調合して煮出してくれた。鐘の音が反響しながら消えるように、お茶を飲んでいるうちに頭痛も消えた。
――君はどう思う?
 ディスプレイにドイツ語を打ち込んでイズンに見せ⁠⁠る。科学者の卵にも意見を聞きたい⁠⁠ところだ。
 イズンは⁠⁠長く熟考したのち、日本語で言った。
「アンシン?」
語感を確かめるように、同じ言葉を数度つぶやく。
「アンシン」
 実感を持って、うんうん、と頷く。
――安心?
ドイツ語で尋ねる。
 そう、その言葉のこと。熱心に頷くイズン。
「ぼくはエルザと一緒にいると安心する。アルドは凛ちゃんと一緒にいると安心する。安心すると、眠くなるよね」
なるほど、とアルドは頷く。
⁠⁠ これまでになくシンプルな回答だ。
「アンシン、イイコトバ」
⁠⁠ イズンはハーブティー を飲みながら言った。
エルザが戻ってくると、イズンは老婦人の隣で小さなあくびをした。腕を組んで、こくり、こくりと舟をぎ出す。確かに科学者の卵が提言した仮説は支持されている。そんな彼をヘーゼルの優しい瞳で見ながら、エルザは言った。
「初めてルディガーに会ったとき、彼は二十八歳だった。⁠⁠ちょうどイズンと同じ年。アルドより少し年上ね。……彼の話は、しない方が良いかしら」
――聞かせてください。
 ディスプレイに表示された文字を見て、エルザは話し出す。
「ルディガーは、突然やってきた。私たちの部署に配属されて、研究員になったの。研究に必要な知識や才能を持っていたけ⁠⁠れど、その素性は謎だらけ。彼自身は、各⁠⁠国の大学を転々として、遺伝子学の知識を吸収したと言っていた。私たちのところには、高額な報酬と引き換えにヘッドハンティングされて来たと⁠⁠……ちょっとうさんくさいでしょう⁠⁠? あのルディガーに、そんな野蛮な生き方ができると思う?」
 アルドは首を傾げる。記憶の中の父親は優しげに笑うばかりだ。覚えている限りでは、怒られたこともない。
⁠⁠ 彼は様々な分野に造詣ぞうけいが深く、疑問になんでも答えてくれた。子供に分かりやすい、優しい言葉を使って。彼の道徳や倫理に関する考えは、ごく一般的でまっとうなものだった。
 訝しげなアルドを見て、エルザは続ける。
「私はね、別組織の研究員だったんじゃないかと思うの。あるいは、政府から特別要請を受けた研究員。産業スパイかエージェント。いずれにしても、彼は大爆発を起こして、研究施設を破壊した。火事になって、施設中が大混乱。どこからか戦闘員が現れてね、大虐殺が始まったのよ。とっても怖かったわ」
 エルザは震えるように両手を組み合わせた。ああ、怖かったわ、と小さな声でつぶやく。
⁠⁠ イズンが目を覚まし、しわがれた両手に触れた。ハーブティー、飲む? とドイツ語で尋ねる。
「心が落ち着くお茶をいれるよ」
「ありがとう、イズン。でも大丈夫よ。トイレが近くなっちゃうから」
――エルザが助かって良かった。
「助かった……いえ、助けられたの。フィオリーナに。私たちは、その頃から仲良しでね。フィオリーナが戦闘員と戦って、私のことを守ってくれた。私たちは生命からがら逃げ出して、そのまま他国に亡命したの。そこから先は、長い昔話になっちゃう。フランスに行って、イギリスに長く留まって、再び故郷に戻ってきた。色々あったけど、ルディガーとはついぞ合わずじまいだったわね。訃報ふほうを知るまで、行方がまったく分からなかったのよ」
――俺はつい最近まで、マフィアだと思っていた。ルディガーはヨーロピアン・マフィアの下っ端。組織と⁠⁠の関係がこじれて殺されたのだと。
 マフィア! エルザはぷっと吹き出した。
「ルディガーには難しい配役ね。一体、誰がそんなデマを流したのかしら?」
穏やかに笑うエルザは、その誰かを知っているように見えた。アルドは何も聞かなかった。かなり昔の話だ。自分⁠⁠があずかり知らない過去の話。
 PCと一緒に借りたブルーライトカットの眼鏡が⁠⁠机の上に乗っている。手にとってかけてみる。
 ブラックアウトしたPCのディスプレイに、眼鏡をかけた自分の顔が映る。
――俺は、ルディガーに似てる?
「そっくり!」とエルザは手を叩いた。
「すごく似てる! ……けど、違うのよ。そっくりだけど、全然違うの。アルドの方がたくましいし、負けん気が強いでしょう」
――そうかな。
「そうよ。とても男っぽい。ルディガーとは真反対。彼は争いごとが大嫌いで、同僚たちが喧嘩を始めるとスッといなくなっちゃう、とても可愛い人だった。致命的な弱点よね。美しい理想を掲げて、強い正義感を持っていたけれど、彼は現実に立ち向かえなかった。可愛いがり過ぎたのね、自分を」
なるほど、とアルドは頷く。
 に落ちた。
 ルディガーが、なぜあんなに優しかったのか。
 とても残酷だが、比類ひるいない愛情だ。
⁠⁠ 自分と同じ灰青色の眼差しは、思い出の中でとても優しい。
 その事実だけで十分だ。
 父親は優しく、愛情深かった。⁠⁠
 考察も洞察も必要ない。ただし、自分は同じ道を歩まない。少なくとも、意識的には。
 アルドは眼鏡を外して元の位置に置く。

 ルディガーとは真反対。そっくりだけど、全然違う。

 その言葉は、思いの外長くなる先の人生で、糧になるかも知れない。
 母親似か、とアルドは思った。
 声色や喋り方、言葉遣いをエルザが聞けば、違いは明確になるだろう。明確にしたいわけではないが、そろそろ電話が掛けられるようになりたい。不便だ。
 無意識に、喉元に手を当てていた⁠⁠。エルザのヘーゼルの瞳をイズンは読み取る。新しいお茶をいれにいく。先ほどとは違う種類のハーブがブレンドされたにおい。喉に効くハーブティーをいれてくれる。
 喋れるようになったら、とアルドは考えた。
 喋れるようになったら、誰に何を伝えよう。