「で、どこに行く?」と真一は聞いた。
 顔をあげて、きょろきょろと辺りを見回す。
 凛は指差した。あっち。三叉路を右に曲がって、少し歩いた先を右に曲がる。角を曲がった先にある光景が目に入る。この道は直進する。突き当たりの角を右。
 どこに向かっているのか、自分でも分からない。しかし、見るだけで分かる。どの道を辿れば良いのかが。
 合ってる。
 絶対に、合ってる。
 迷いなく先に進む。
「どこに向かってんだ?」
「分かんない」と素直に答える。
「でも合ってる」
真一は訝ることもなく、感心したように頷いた。
「そういう友達がクラスにいたよ。勉強しなくても、マークシートの問題がだいたい合ってるやつ」
「マークシートってなに?」
「ええっと、説明が難しいな。答えを鉛筆で塗るの。テストで。黒く塗りつぶすやつ」
答えを黒く塗る? 凛は首を傾げる。なんで? 塗り絵のテストってこと? 知的好奇心が疼いたが、生きるか死ぬかのサバイバル中に、その質問は的外れだ。学校って面白いところだなぁ、という感想だけに留めておく。
 真一を支えながら、時折、凛は胸元の指輪に触れた。その指輪が、答えを示してくれているように感じたから。
 一之瀬が懸念していた赤目たちは先の道に出現しなかった。さくさくと前へ進めた。
 笹川邸を出て一時間。凛も真一もスタミナが切れてきた。特に怪我を負っている真一は息も絶え絶えだ。途中で何度か休憩を挟んだが、二人とも疲労を隠せない。
 自販機が目についたところで凛は言った。
「あそこまで行って、休憩しましょう」
自販機の隣でへなへなと腰を下ろす。豪雨の中、真一も凛もびしょ濡れだ。真一が携帯電話を取り出して、自販機で飲み物を買ってくれる。防水された液晶画面を二人で覗き込む。ニュースを見ても、テロの鎮圧状況が分からない。外出禁止令が政府から公布されている。会社や学校、お店やコンビニも閉鎖せよ。そんなことが書いてある。
 頻繁に掛かってくる着信は一之瀬の携帯電話だ。ごめんよー、と言いながら真一は通話を拒否する。それから少し考えて、凛に問いかけた。
「フィアスに電話してみる?」
「出ない気がする……」
「正宗さんも、電話すんなって言ってたしなぁ」
凛は俯く。行かなければいけない。その目的地が、うっすらと分かりかけてきている。胸のざわめき。なにか、良くないこと。
 凛は立ち上がる。
「真一くん。あたしと一緒に、もう少しだけ頑張れる?」
差し出された手を大きな手が握る。
「もちろんだよ」
真一も立ち上がる。
 さらにそこから十分ほど歩いたとき、銃声が聞こえた。フルオートの射撃音。
 その音に対抗する、ハンドガンの⁠⁠銃声も。
 うるさい撃ち合いはすぐに収まった。しかし、ライフルとは違う、オートマチック・ピストルの太い連続射撃音⁠は響き続けている。
 凛は真一を見て頷いた。⁠⁠激しい銃声は曲がり角の向こうから聞こえる。
 やめろっ! もう死んでる! 聞き慣れた声がする。数秒経って、正宗が転がり込んできた。
「お、お父さん!?」
傷だらけの父親の元へ二人は駆けつける。
 正宗は右頬に深手を負い、右肩を撃ち抜かれていた。痛々しげに二人を見上げる。苦痛に呻きつつ、⁠⁠ドスのきいた声で問いかけた。
「てめぇら、どうしてここにいる」
凛も真一も言い淀む。
 石垣に身をもたれて、正宗はぜいぜいと息をつく。地面を指差し、座れと命じる。
 角の向こうに目を向けながら、銃持ってるか? と⁠⁠問いかけた。真一は懐から小さな護身銃を取り出してみせ⁠⁠⁠⁠る。アジトで武器を調達した際に、フィアスがくれたものだ。
 よこせ、と奪い取ろうとする手を避け、真一は後退る。
「そいつを俺によこせ」
「い、嫌だ……」
「殺さねぇから安心しろ」
「お父さん、やめてよ」
今にも真一に掴みかかりそうな正宗を、凛は抑える。
「殺さねぇって言ってんだろ」
 ⁠⁠苛立ちを抑えた低い声。⁠攻撃的な目が凛に向くと、微かに陰りを帯びた。⁠
 ⁠正宗は溜め息を吐いた。
「……六発撃ってる。残り三発だ。俺が撃たせに行く。弾切れしたら、お前らで取り押さえろ。いいか、三発だ」
全てを察していると承知した上で、大胆に省略した説明を、凛は茫然と聞いた。隣の真一も絶句している。
「そういうことだよ」
凄みをきかせて正宗は二人を睨んだ。
「よこせ」
再び差し出す手。
 砂利を踏み締めるスニーカーの音。
「俺が行く」
「待って! 真一くん!」
 銃を構えて駆け出そうとする真一を、慌てて凛は引き止める。手の早い父親が、素早く凛の前に出て、真一に拳骨を落とした。負傷していない方の手で。容赦ない一撃を。二撃を。三撃を。
 何してんのよ! やめてよ! 凛は革ジャンの裾を強く引く。
 娘の声より引っ張られた洋服の、撃ち傷を刺激する痛みで⁠⁠我に帰ったようだ。患部に手を当て、苦々しげに正宗は言った。
「おい、任侠王子。そいつは⁠⁠義理人情でも⁠⁠勇気でもねぇ。愚かな自殺行為だ。てめぇが死ぬと、けーいちが悲しむ。兄貴も、あの女子高生も悲しむ。それでも行くのか? ⁠⁠てめぇの生命とあいつら⁠⁠の想いを、ちゃんと天秤にかけたのか?」
「俺、死なないもん……」
「死ぬに決まってんだろ。⁠⁠あいつは⁠⁠殺しのプロなんだぞ」
「俺たち、友達だもん!」
「その友達に殺されてぇのかって聞いてんだよっ!」
悔しさと悲みが入り混じって真一が泣く。それでも銃は渡さない。駄目だよ! 正宗さんが死ぬのも駄目だよ! と涙声で抵抗している。戦い慣れている正宗も、怪我のせいで⁠⁠思うように立ちいかない。
 父親の苛立ちは募り、友達の悲しみは募る。
 揉み合いになっている⁠⁠二人を後ろ背に、凛は立ち上がる。⁠⁠ハイヒールを脱ぎ捨てる。足の裏に雨の冷たさ⁠⁠ーー笹川邸の庭先で感じたものと同じ冷たさが刺さる。
 彼を救って、凛ちゃん。
 橋の上で聞いた声が、頭の中でこだまする。
 あたしは行く。
⁠ 彼⁠⁠を助けに。
 裸足のまま、凛は駆け出す。
「てめぇ、何やってんだ!」
「凛! 行っちゃ駄目だ!」
 背後から聞こえる声を振り切る。戦場を伺うことなく、曲がり角を曲がる。
 真っ先に見えたのは⁠ボロボロの車。
 そして、その隣に跪く、傷だらけの人。
 周囲を見回しながら、苦しげに呻いている。彼が追う視線の先には何もない。
 ⁠⁠おそらく幻覚を見ている。
 恐怖を煽る幻覚を。
「フィアス!」
 走りながら、大声で呼びかける。彼が声のする方へ向く。血に染まったワイシャツとスーツ。死線をくぐった戦いの痕跡が至る所に見受けられる。後天遺伝子⁠⁠を発動した証拠。彼の⁠⁠両眼は血色に染まっていた。
 左目から、血を流してもいる。
「フィアス!」
 凛は叫ぶ。もう少しで辿りつく。
 そのとき、渾身の力で押さえつけていた銃身が上がった。