凛はガラス戸を開き、外へ飛び出す。裸足のまま、霧雨の中を抜け、橋へ向かう。
 凍てつく外気が全身を刺すのも気にならない。
 彼がいる。橋の上に。なんで? どうして? いつの間に、帰ってきたの?
 息を切らして、太鼓橋にたどり着く。ふもとで凛は立ち止まる。橋は無人だった。木造りの古びた橋が、向こう岸に続いている。池から漂う霧にまみれて、向こう側に建てられた石碑が霞んでいる。
 凛は橋の中央まで歩き、立ち止まる。
 誰もいない。人がいた気配もない。
 ただの見間違い? ぼやけた視界に映った何かを錯覚しただけ? 
 よろよろとその場に腰を下ろす。全速力で橋へ向かって、息が切れている。白いワンピースの裾が泥で茶色く染まる。厚い生地にどんどん水が吸収される。霧雨は勢いを増し、大粒の雨に変わる。
 そう、見間違い。こんなところにいるわけない。
 笹川邸に戻るのであれば、正門か裏門をくぐる必要がある。護衛中のヤクザたちが気づかないはずがない。
 橋の上にしゃがみこんだまま、呼吸を整える。
 心が落ち着くと、あまりの非現実さに、微かな自嘲が漏れた。
「馬鹿ね、ずぶ濡れじゃないの……」
頬を伝う水。雨なのか涙なのか分からないそれをごしごしと袖で拭う。庭園を守るヤクザたちは、外界からの侵入者に目を配っている。部屋を飛び出した自分の存在に気づいていない。
 ふぅ、と息を吐く。
 繰り返す波紋の水底に、錦鯉が泳いでいる。朱色や赤ぶち、金色や黒。色も大きさも様々だ。人間を脅かす大規模テロなどどこ吹く風で、優雅に尾びれを振りながら、揚々と水中散歩を続けている。
 凛は朱色の高欄に両手を乗せ、ぼんやりと鯉の動きを眺めた。
 笹川邸にやってきてから、持て余した時間の慰みに、庭先を散策した。その大半は茜と一緒に。時には笹川毅一と連れ立って、鯉に餌をやりに行ったこともある。フィアスや真一とはそういうことが出来なかった。この一ヶ月間、彼らは忙しく動き回っていて、日本庭園のワビサビを堪能する余裕がなさそうだった。
 本当は、こういうことがしたかったのにな。
 わがままな願いと承知の上で、彼らもまじえて、平和な一時を味わいたかった。
 餌をくれないと知った鯉たちが橋の下からいなくなると、鏡面に変わった水面が曇天を反射した。雨粒の丸い波紋が尽きないのに、池を覗く自分の姿がくっきりと映っている。その首にかかった、銀の指輪も。
 大丈夫、と凛は言った。
 水面に映る自分の顔。
 凛は胸元の指輪に触れる。虚像の自分も指輪に触れる。同じように。
 その姿は自分。水が反映した自分。
 にっこり微笑むその顔に、懐かしさを感じ取る。
 行ってあげて、と凛は言う。
 彼を救って、凛ちゃん。
 ハッとしたとき、大きな波紋がもう一人の自分をかき消した。
「なに、今の……」
震た声でつぶやくと、凛は両腕を抱きしめた。最初は自分の心の声だろうと思った。不安定な自分を、無意識に鼓舞しているのだろうと。
 でも、その声は話しかけてきた。具体的な要求をしてきた。
 彼を救って、凛ちゃん。
 その声は、本当に自分のものだったのか。
「行くってどこへ……」
声に出してつぶやくも、思い当たらない。行く場所なんてどこにもない。
 そして、一つだけ言えることは、行かなければならないのだ。
 胸元の指輪を握りしめ、凛は立ち上がる。
 雨水に弾ける水面に、自分の姿が白い塊となって映る。
「行ってきます」
 揺らいだ自分に挨拶して、凛は笹川邸の正門へ向かう……その前に縁側へ引き返す。高い縁をよいしょと登る。
 笹川のお爺ちゃん、大事な屋敷を泥だらけにしちゃってごめんね。帰ってきたらお掃除するから、今だけ許して。
 心の中で詫びながら、泥の足跡をぺたぺた残し、部屋へ向かう。
 真一の療養している奥の間。障子の向こう側から漫才に似た、茜と真一の雑談が聞こえてくる。
 引き戸を開けると、両者の驚愕の目が泥だらけの凛に向いた。
「ど、どうした凛……どっかでコケたの?」
見当外れの真一の言葉に、凛はふるふると首を振る。あまりの勢いにスカートの裾についた泥が飛び散る。
「お部屋、汚しちゃってごめん。あとでお掃除するからね」
「その前に、自分の部屋、掃除した方が良いと思うよ。すげぇ散らかってるじゃん……」
凛の真剣な目に、真一も困惑しているようだ。とんちんかんな返事をする。
 姉ちゃん、風呂入る? と心配そうな茜の問いにもふるふると泥を撒き散らす。
「あたし、行かなきゃ」
「行くってどこに?」
「分からないけど、とにかく外」
ええっ! と真一と茜の声がハモる。泥まみれの凛が告げる意味不明な宣言。
 説明する時間もなければ、説明することもできない。ごめんね、と謝って部屋を飛び出す。
 そのまま廊下を走り抜け、ハイヒールを引っ掛けて玄関扉を開けた。傘を差せば視界が陰る。雨水ならかぶるほど濡れた。傘なんて必要ない。
 凛は広い庭園を駆け抜けた。
 正面門には一之瀬がいた。ライフル銃を構えながら、外界の侵入者に目を光らせている。
 凛に気づくと気張った顔が驚きに変わった。
「凛さん、どうなされましたか? そんなお姿で……」
「一之瀬さん、門を開けてください」
 かなり控えめだが、一之瀬は真一や茜と同じリアクションを取った。
 すぐさま冷静に立ち返り、隻眼を鋭く光らせる。どのようなご事情で? と尋ねる声は、大人びた⁠⁠⁠⁠冷淡さと、凛を懸念する気持ちが混ざっていた。
「笹川組を守るのが世話人の役目。若や親父っさんだけでなく、凛さんや茜さんを含む⁠⁠屋敷の人間を守ることが俺の使命です。正宗からも家を守れと言われています。そこには、貴女様を⁠⁠も守って欲しいという強い想いがあったはず。破門されたとはいえ、古縁の頼み事を、無碍むげにできません」
静かな声で、一之瀬は諭すように告げる。
「どうかお戻りください、凛さん」
父親とは違う、真面目で優しい、頑とした強さがある。
 そう、そうなの。凛も頷く。それが真っ当な人の意見なの。支離滅裂なことを言っているのは、あたしの方。
 おかしいの。分かって⁠⁠る。
 目的も理由もない。⁠⁠説得もできない。
「それでも、行かなきゃいけないんです」
「何処へ?」
「それは、分からないけれど……」
「分からない?」
凛とは違った理由で、一之瀬も困惑した表情を浮かべる。行く先は分からないが、行かなくてはいけない。そのようなことを必死に訴える凛にささやかな同情を示したあと、毅然と首を振った。
「大切な人たちを案ずる気持ちは⁠⁠よく分かります。しかし、この門は開けられません。屋敷へお戻りください」
ぐっと両手を握りしめ、凛は唇を噛んだ。
 こんなところで泣いたら駄目だ。精神状態がおかしくなっているのだと、誤解されてしまう。門は固く閉ざされたまま、警戒命令が解除されるまで開⁠⁠かなくなってしまう。
 途方に暮れる凛を見つめる一之瀬の視線が外れた。彼がハッと息を呑んだのが分かった。
「若!」
凛の背後から聞き慣れた足音が聞こえてきた。いつもより遅い歩調の、スニーカーが石畳を歩く音。
「歩くと痛いな。腹減ってるから、余計に痛く感じる」
「あんた、食欲以外の話できへんのか。空腹と満腹以外のメーターないんか」
真一と茜がやってきた。そろそろと歩く真一の横で、茜が傘を差し向けている。
 痛ぇ、と言いながら脇腹を抑える真一。慌てた一之瀬へ、大丈夫、というように手を挙げる。
「慶兄ちゃん、門を開けてくれる? 一瞬で良いからさ」
「いけません、若! 屋敷へお戻りください!」
取り乱す一之瀬を見ながら、うーん、と真一は頭を掻く。凛を見て、どこに行く? と改めて問いかける。一之瀬に言ったことと同じような答えを返すと、真一はますます深く唸った。
「行き先が分からないのは大変だな。いつものごとく、出たとこ勝負で乗り切るか」
「真一くん、一緒に来てくれるの?」
「約束したじゃん、三人で⁠⁠。俺の約束は凛を守ること⁠⁠」
真一はにっこりと笑った。
「一緒に行こうぜ、お姫様!」
青ざめた顔の一之瀬が、「若!」と割って入る。
「いくら若でも許容できません。療養におつとめください」
真一は微かに悲しそうな顔をした。目を瞑り、一気入魂にぱんぱんと頬を叩いた。
 目を開いた真一は、毅然と胸を張り、鋭い語調で命令した。
「一之瀬、扉を開けろ。これは笹川毅一の孫である俺の絶対命令だ。俺の言うことは聞けないのか」
その迫力は、茜さえも後退るほど、威圧的なものだった。ぐっ、と一之瀬は言い淀んだ。彼の隻眼を鋭い眼差しで睨むと「扉を開けろっ!」と真一は怒鳴った。凛が聞いたこともない、薄暗い、太い声で。
 重い扉が微かに開く。
 その隙間から、凛と真一は⁠⁠外へ出る。
 後を追おうとした茜に「お前は駄目」といつもの調子で真一は止めた。
「茜はご飯作ってて。俺たち、腹空かして帰ってくるから。お好み焼きもよろしく!」
茫然と立ち尽くす茜と一之瀬に、またな! と明るく声をかけ⁠⁠、大きく手を振⁠⁠った。
 凛の手を掴んで、揚々と真一は歩き出す。
 背後で軋む音がして、重厚な門が閉ざされた。
 笹川邸が見えなくなるまで遠ざかると、途端に脇腹を抑えて真一は痛がりだした。
 よろめく肩を凛は支える。
「真一くんは帰った方が良いよ。怪我してるもん。痛いでしょう?」
「痛い。痛いけど⁠⁠……慶兄ちゃんに命令しちゃったことの方が痛いな⁠⁠、俺は」
 ははは……、と痛みと苦みが混じった顔をして、真一は⁠⁠自嘲する。
 確かに、ものすごい迫力だった。一国を統治する王様、あるいは軍隊を指揮する司令官を、彷彿ほうふつさせる喋り方だった。真一の変貌ぶりに気の強い茜さえ怯えていた。
 凛に肩を支えられて歩きながら、真一はぽつぽつと話をした。
「俺はじーちゃんの孫だけど、笹川組の部外者だし、今は慶兄ちゃんが組長で、立場は上だと思うんだよね。よくよく考えるとね。でも、命令を下せちゃうんだ。俺は極道の重鎮でさえ有無を言わせない、ああいう喋り方が出来るんだよ。でも、そういうこと⁠⁠ができる自分が嫌になるの。なんか辛くなるんだよ。⁠⁠俺は、みんなと仲良くしたい」
「真一くん……」
「今回は特別。激レアの必殺技は、こういうときに使わなくちゃな」
黒い目を細めて、真一は笑った。