正宗に腕を引っ張られた。引きずり下ろされる形で、めり込んでいたルーフから助け出された。
 車のドアに背を預け、地面に座る。
 長い眠りから覚めた、とフィアスは思った。
 長い、長い、眠りから覚めた。
雨に打たれて全身がびしょ濡れていた。ここは地上だ。ネオを殺した辺りから、記憶がぼやけている。俺は何をしたんだ?
 過去を辿ろうとして、ひりつく頭痛に止められた。
 事情を聞こうと口を開きかけ、喉に手を当てる。
 言葉が出ない。
「脳幹を破壊すると死ぬ。脳幹さえ破壊されなければ死なない。心臓を潰して、頭で回復。飛び降り自殺のカラクリは、そういうことだろ。まったく回りくどいことばかりする。別の方法ならいくらでもあっただろ」
 彼の謎解きは、右耳から左耳へ、音として流れてゆくばかりだ。
「優等生のくせにイカれてんな。クレイジーだよ。良い意味で」 
 正宗はワイシャツのボタンを外すと、フィアスの身体が完全に回復したことを確かめた。関節の動きや骨折の確認も入念だ。怪我の残りがないことを確かめると、簡単な質問をした。
 お前、自分が誰だか分かる?
 じゃあ俺は?
 なんでここにいるのか分かる?
 フィアスは頷く。徐々に思い出してきた。ネオを倒した後で車の上に落下した。後天遺伝子の生き延びる力で、生き返った。
 そんなことを、簡単なハンドサインで伝える。喋れないこともつけくわえる。
 湿った地面を指でなぞって「Go home」と表記すると、正宗は強く頷いた。
「その通り」
 差し出された手を握る。そのまま、助け起こされる。雨に流されて、大半の汚れが落ちていた。銃弾を受けた場所以外、綻びもない。⁠⁠穴だらけだが⁠⁠いつものスーツだ。
「レーダー、使える?」
フィアスは目を閉じて、五感を開く。
 瞬間、怒りに似た攻撃本能が生じる。
 車のフロントドアを殴るとべっこりと凹みができた。拳に傷を負うがすぐに回復する。
 やめとこう。窪んだドア⁠⁠を見て正宗は言った。
「神経に触ることはやめとこう」
 フィアスは目を伏せて溜息を吐く。了解、とハンドサインを描くまでもない。獣の本能。屋上から落ちる以前に比べてマシな状態に回復したが、それでもコントロールが難しい。喋ることもできない。
 口を開けても発語の動作と思考が結びつかない。あいうえおの、意味のない母音を捉えるだけだ。
 赤目の存在を、正宗は察知するだろうか。
 彼らの五感は鋭い。先に存在を気づかれると不利だ。
 正宗は懐からハンドガンを取り出した。笹川邸に向かうまでの、唯一の武器。残弾が少ないことに気づき、マガジンを入れ替える。先頭を歩きながら何度も振り返り、相棒がきちんと後をついてきているか確認する。
 駐車場に溜まった水たまりを越す途中、フィアスは水面に映る自分の顔を見た。瞳は赤いままだ。
 凄惨なショッピングモールを跡にする。
「テロは鎮圧されたのかな。分かんねぇな。すまほでもありゃ、調べられるんだけどな。あんまり使い方、分かってねーけど。そのうち俺もばりばりに使いこなせるようになんのかな……なりたかねぇな。嘘だらけの機械なんて」
前方を行きながら正宗がぶつくさと文句を言う。戦いが終わってもお喋りだ。
 なあ、と相槌を求めるように背後を振り返る。その雑談は理解できる。正宗はスマートフォンを使いたくない。すごくどうでもいい。ハンドサインで何かしらの反応を示すのも面倒くさい。
 表情からフィアスの内心を読み取って、うるせー、と正宗が毒づいた。
 長い独り言のあとで、とにかく、と正宗は一拍置いた。
「出てきた獣は俺がやる。お前は絶対安静。分かった?」
背後から何の返事もしないことに苛立ちながら、返事は? と問いかける。
それから、ああ、と一人合点する。お前、喋れないんだっけ。
「俺の⁠⁠言ってること、理解できてるよな?」
頷く。
「絶対安静。戦うな」
微かに……頷く。
「うさんくせぇな」
疑いの眼差しに当てられて、フィアスはわずかに首を振る。
 辛うじて、理性は保てている。しかし、ひとたび戦いが始まれば、どう転ぶか分からない。赤い目を⁠⁠元に戻す睡眠「意識の断絶」も起こっていない。
 獣と人の境界を、曖昧に彷徨っている。
 自分でも、分からないのだ。
 この状態をなんとか伝えようと、口を開く。
「え」
正宗が振り返る。
「え?」
「え」
「え……だけじゃ分かんねぇ」
 フィアスは額に手を当てる……駄目だな、相変わらず喋れない。簡素な単語すら出てこないとは。
 落胆が正宗に伝わったらしい。とにかく歩け。お前のことは帰ってから考える。淡々と告げて、先を行く。時折、顔についた傷を痛がりながら。
 長い道のりに、正宗は注意深く周囲を伺った。獣の動き以外にもパトカーやサイレン、警察機関の動向にも気を配った。彼らは赤目を鎮圧する。見つかれば、赤い目のフィアスに向けて攻撃を放つだろう。彼はそれ以外にも電話ボックスを探そうと躍起なってもいた。もちろん、公衆電話は見つからなかった。
 まったく、十七年後の世界は不便だな、と愚痴を漏らす。
 唯一便利だったのは、彼の記憶力だ。正宗はここへ来るまでの道順を覚えていて、迷うことなく笹川邸までの道を辿った。長い道のりをぶつぶつと独り言を呟きながら進む。その道中、獣は出てこなかった。
 笹川邸まで十五分程度。乗り捨ててきた自車へたどり着くと、肩の荷を下ろすように息を吐いた。
「これ、分かる?」
頷く。
「そう。お前のレクサス」
首を振る。レクサスじゃなくてBMW。ロゴを指す指先を正宗は無視する。
「乗って帰れるかな」
 正宗が車の中を覗き込んだそのとき、フィアスの五感が警報を鳴らした。革ジャンパーの首根を引っ張り、二人同時に車の影へ身を伏せる。連続射撃が、ただでさえボロボロの自車を、さらに損壊させる。今度はフロントガラスもちゃんと割れた。
「ちっ、残党か」
頭上からの襲撃。敵は塀の上にいる。笑いながら銃を乱射している。戦闘開始の合図。左手が咄嗟とっさに懐に伸びる。しかし、ホルスターには銃がない。
「やめろ! 戦うなって言っただろ!」
怒鳴りつける声が、豪雨に紛れる。
 盾にした車から、敵に向かって発砲する正宗。ライフルでの戦いに慣れた分、拳銃での狙いが狂う。飛距離も届かない。
 正宗はマガジンを補填する。一瞬の隙に、散弾が身を貫く。拳銃が手を離れ、鮮血が飛び散る。
 ぐあっと歯噛みに似た悲鳴を発しながら、正宗は地面に倒れた。
 ライフル弾によって貫かれた肩からどくどくと血が漏れ出している。
 今が刻とばかりに、笑い声が間近に迫る。フィアスは転がった銃を拾い、敵に銃弾を放った。精密射撃で右肩を瞬時に撃ち抜く。ライフル銃を取り落とす男。すぐに塞がる銃口。そうだ、こいつらを倒すには脳を破壊……と思うまもなく、額に弾丸を撃ち込む。反動でひっくり返る獣に追撃をくわえる。
 一発、二発……引き金を弾く指が止まらない。脳幹を撃ち抜かれ、既に相手は死んでいる。それでも止まらない。本能が理性を突破しようとしている。
 三発、四発。白い雨の中、マズルフラッシュが鋭く光る。
「やめろっ! もう死んでる!」
霞のかかった思考に飛び込む怒声の方向へ発砲する。やめろ! それでもまだ聞こえる、生き物の声。
 途端に風景が変わる。
 なんだ……これは……。
 フィアスは辺りを見回す。
 そこには、見知った顔すべての人間の死体が地面に転がっている。真一と凛とフィオリーナとシドと茜と正宗と一之瀬、そして笹川組で面識のあったヤクザたち。彩までもがうつぶせに倒れている。
 俺は、何をしたんだ……?
 フィアスは手にした銃を見下ろす。銀色の古い型の銃。これは、彩を殺した犯人が現場に置いていったものだ。それを俺が持っている。
 銃を持つ手が震える。
 俺が殺したのか? 彩を、ここにいる全員を?
 ぽたぽたと血痕が銀色の銃に滴る。円状の滴下血痕。それは、自分の目から滴っている。溢れている。
 血の涙とともにこみ上げる恐怖、衝動。
 bloodthirsty血に飢えた――後天遺伝子の「生き延びる反動」。
 今まさに、顕現けんげんした。