鈍い打撃音が屋上まで届いた。ぐしゃっと潰れる音。それは死ぬまで耳に残る、グロテスクな人間の物理。
 正宗はフェンスに飛びついて、目下を見下ろす。駐車された車の上に、血塗れの人間が見える。反射的に顔を背けた。
 強烈だ。これはきつすぎる。
「暗示が解けた」
背後で声がした。
「フィオリーナは助かるよ」
正宗は振り返る。激烈な怒りの矛先を、向ける相手は姿を消した。どこにもいない。銃を構えたまま、屋上を走り回って標的を探した。
 腹立たしい狙撃手の姿は見つからなかった。
 女の捜索を諦め、ネオの死体へと引き返す。子供の顔面と身体は穴だらけのままだ。
 死んでいる。確かに。生き返る余地もなく死んでいる。
 フィアスと俺が殺した。
「脳幹を狙え。眉間の真ん中。脳の司令塔を破壊すれば、回復は止まる。こいつらもネオも、弱点は同じだ」
 アサルト・ライフルの射撃訓練中に教わったことを思い出す。それが赤目退治の秘訣だと、フィアスは言っていた。そして二人は、その通りにやり遂げた。
 死者は二度と蘇らない。
 正宗は「ああ」と息を吐いた。ここへ来てようやく理解が追いついた。
 屋上から飛び降りる前に、フィアスが伝えたかったこと。
 遅まきながら、察知した。
 正宗はネオの死体を探る。念には念を入れて、武器を回収しておこうと思ったのだ。しかし、ネオは武器を所持していなかった。毒針一つ見つからない。フィオリーナを抱き上げたとき、彼女も銃やナイフを装備していなかった。敵の死体からいくらでも奪取することができたのに、それをしなかった。
 ……いくら肉親とはいえ、裏社会のおさ同士が丸腰で抱擁するなんてな。
 ネオが確かに死んだこと――その死に様を目に焼き付けて、フロアの階段を下る。
 行きはよいよい帰りは怖い。口寂しさに童話を口ずさむ。実際は、歌詞と真逆。あれだけきつい思いをして登ったフロアが死体だけになると楽々と通り過ぎることができた。バリケードを超えるところと、動かないエレスカレーターを下るところが面倒くさいだけだ。
 スプラッター映画さながらの、エントランスから外に出る。建物に沿いながら、フィアスが落下した場所まで歩く。
 身体の重さに重力がくわわって、車のルーフは潰れていた。その上に、血塗れの死体が大の字に乗っかっていた。血だらけなのがありがたい。グロテスクな怪我の詳細を見なくて済む。正宗は手を伸ばして、心臓にあたる部分に触れた。鼓動は感じられない。ねじ曲がった腕を取って脈を測る。無論のこと、脈がない。
「死んでるな、紛うことなく……」
 ふぅっ、と息を吐く。
 ポケットから煙草を取り出し、火をつける。
 一口吸って、吐く。
 荒れ狂っていた心が凪いだ。
 意を決して、ボンネットへ回る。胴体より上の部分。首の骨は折れているが、頭蓋は損壊していない。見た限りではきれいだ。
 おそらく、計算して⁠⁠落ちた。最後の最後でお得意の数式やら学識やらを総動員して自らを殺した。
 血に染まった金髪は、胸を中心とする破裂した臓器の返り血だろう。
 死の直前の眼差しから発せられたメッセージに確信を得る。
 クソガキはまだ一縷の望みに賭けている。
 光を失った赤い目に手を当て、目蓋を閉じる。
 死体から、数歩離れて煙草を吸う。
 この賭けは、上手くいくのか。いかないのか。
 見切りをつけるタイミングはいつだ?
 ……いや、時間ならたくさんある。
 俺たちがもたらした平和な時間は、余りあるほどにある。箱の中の煙草もそれなりに。
 吸い尽くしても、遺品になりかけているこいつの分がある。
 煙草の吸殻を、地面に投げ捨てる。
 足で押しつぶして、もう一度。
 彼の元へ向かう。
 左手首を握り、無音の脈動を感じ取る。
 死んでいる。死んだままだ。
 手首から手を離し、正宗は冷たいフィアスの手を握った。
 握りしめていない方の手で、器用に二本目の煙草に火をつける。
「父親の代わりに」
 紫煙を燻らせながら、正宗は言った。
「お前のこと、褒めてやるよ」
 

 霧雨が小雨に変わり、やがて大粒の雨になった。降り頻る天水は勢いを増す。土砂降りに近い大雨。ゲリラ豪雨で終わるだろうか。
 黒いロン毛がびしょ濡れになる。正宗は額に掌をつけて即席の軒を作り、煙草の火種を守った。頭のてっぺんと手の甲へ、叩くような雨が痛い。吸い終わった煙草を捨てる。黒いフィルターが足元に四本転がっている。新たな一本に火をつけ、車上の死体を見上げる。
 雨水がルーフの血を洗い流す。血と水が混ざった薄い赤が、白い車に幾本もの細い筋を作っている。
 車からだらりと垂れ下がった、傷だらけの左手からも赤い血が滴っている。
 正宗は目を凝らす。
 手が、動いた。
 間違いない。左手指が、ぴくぴく、と動いている。反応している。
 生命という空気を入れるように、潰れた身体が微かに膨らむ。粉々になった骨が、破裂した臓器が、ねじ曲がった四肢が、あるべき形状へと形を取り戻し始める。皮膚についた深い傷も、浅い傷も、止血され、結合し、線のように塞がった後で消える。
 まるで、時間を巻き戻しているみたいに。
 首の骨が折れる前の位置に戻る。すると、微かに口がひらいた。わずかに喀血したあとで、か細い呼吸が始まる。正宗は眉をひそめる。フィアスの目は閉じたままだ。意識が戻っていない。それでも、色褪せた唇を動かし、何か言っている。
 正宗は側へ近づいた。
 潰れた声帯が回復すると、無声は音を伴って、フィアスの口から発せられた。
「ラ……イ、ニー……」
 正宗はごくりと唾を飲み込んだ。
 たどたどしい呼び声が何度か繰り返される。
 ラ、イ、ニー、ラ、イニー、ライニー。
 チューニング。あるいは発声練習。
 発声が上手くいくと、声の主は穏やかに話し出した。
「ライニー。君は、すてきな人たちに、会えたんだね。とても、引き離すことなんて、できないよ。彼らの元へ、帰りなさい。大好きな友達と、大好きな女の子のところへ」
金属の冷たさを帯びた低い声は、間違いなくフィアスのものだ。しかし、話者はフィアスではない。語彙の選び方も、言い回しも、発語する温度さえ違った。明らかに彼ではない。別人のものだ。
 誰だ、てめぇ? と聞き返す前に、異国の言葉が独白を閉じた。
 Ich hab’ dich lieb,Reine.
 正宗は理解した。
 言葉の意味はわからないが、深く理解した。
 呪文に似たその言葉を話し終えたとき、身体が震えた。全快した鼓動の一声が脈打つと同時に、全身に生気が宿った。咳き込みながら、激しい呼吸を繰り返す。潜っていた水の底から、地上へ出たときのように。
 荒い呼吸を繰り返しながら、フィアスは正宗を見た。
 赤く染まった目で。微かに困惑した顔で。
 正宗はニヤリと笑った。
「おかえり」