寝室とリビング


 ――十八年前――

「ひゃああぁ!」
 少年の叫びは小さな部屋に甲高く響いた。反射的に飛び起きる。布団をめくって、胸を抑える。小さな心臓がばくばくと鳴っている。痛い。痛くて、苦しい。全身、汗だらけ。
 水を浴びたように、パジャマが濡れている。
 あたりを見回す。
 薄暗い寝室。
 肌をさす、冷たい空気。ひとりぼっちの静寂。何もかもが自分を攻撃しているように感じられる。
 染みついた恐怖が抜けない。
 大きなベッドから飛び降りる。扉から漏れ出す光。
 微かな物音が聞こえてくる。
 飛びつくようにドアノブに手をかけ、扉を開く。
 寝室の隣はリビングルームだ。橙色のランプの下で、父親がパソコンを打っている。
「父さん! 父さん!」
 ⁠⁠大慌てで少年は駆け込む。そして父親の両腕に飛び込む。ぎゅっと⁠⁠白衣の裾を握りしめ、胸に顔を埋める。
⁠⁠ 小さな身体は、すぐに抱えられた。
 父親は息子を膝の上に乗せ⁠⁠た。
⁠⁠「大丈夫、大丈夫だよ。落ち着いて」
 ⁠⁠それでも少年の手は、父親にしがみついて離れない。
 突然泣き出して、どうしたというのか……父親のわずかな動揺が、少年の敏感な心をさらに揺さぶる。
 しゃっくりをあげながら、少年はぽろぽろと涙を流す。大丈夫だよ。何も怖くないよ。頭上から響く優しい声が、混乱した心と身体を徐々に鎮める。
⁠⁠少年の涙が、父親のワイシャツに吸い込まれる。まるで恐怖そのものを、吸い取ってしまうかのように。
 ぎゅっとシャツを握り締めたまま、少年は父親の顔を見上げた。
 父さんだ。
 さっき「おやすみ」と言って、にっこり微笑んだ父さんがいる。
「怖い夢を見たのかな?」
父親は穏やかな声で尋ねる。
 うん、と鼻声で少年は答える。
「怖い夢を見た」
「そうか。それは怖かったね」
 そう。すごく怖かったんだ。答えようとして口をつぐむ。
 言葉にするのも恐ろしい。
 びっくりした。怖かった。
 怖くて、痛くて、苦しい夢だった。
 ……でも、それだけじゃない。
 怖いだけじゃない。別のなにか。
 子供の僕にはわからない、なにかがあったんだ。
 温かい身体にもたれかかる。右耳から聞こえる、心臓の鼓動。
 穏やかに脈打つ、唯一の肉親の生命の音。
 その音に耳を澄ませていると、肩の力が抜けた。緊張がほぐれた。
⁠⁠恐ろしく感じながらも、少年は夢の内容を振り返る。
 落ち着いて。落ち着くんだ。大丈夫。
「怖かったよ」
「うん、うん」
「でも、それだけじゃない。すてきなこともあったんだ」
「すてきなこと?」
うん、と頷⁠⁠く。⁠
すごく怖かったけれど、悪夢じゃない。すてきなこともたくさんあった。
⁠⁠少年は思いを巡らせる。
 真っ先に思い浮かんだのは、明るい光を放つ存在。
 ⁠⁠おしゃべりで、食いしんぼうな男の子。
「友達がいた」
少年は言った。
「夢の中で、友達と遊んでた」
「どんなお友達かな?」
「ええっとね、すごくおしゃべりな子だった。その子のことうらやましいなって思った。僕と違って、いつも元気で、明るくて。こんな弟がいたら楽しいのになって」
弟かぁ、と父親は苦笑する。難しいなぁ、それは。
 首を傾げる少年に向かって、良いお友達だったんだね、と⁠⁠父親は微笑む。
 うん、と少年は強く頷く。
⁠⁠ その記憶に引っ張られて、もう一人の存在が思い起こされる。
 夏の庭で見かけた、蝶のように美しい存在。
「好きな女の子もいた」
少年は俯いた。
 照れた顔を、見られないように。
 小さな声で密やかに続ける。
「すごくかわいい女の子なの。泣き虫で、怒るとちょっとこわいんだ。でも、優しいの。良いにおいがして、僕はいつもその子の力になりたいって思ってた。たくさん、笑わせてあげたいなって」
 笑わせてあげられた? と父親に尋ねられ、少年は首を傾げる。どうかな。笑ってくれたかな。女の子って、よく分かんない⁠⁠な。
 困り顔の少年の頭を優しく撫で、他にすてきなことはあったのかな? と父親は⁠⁠尋ねる。
 少年は思い出す。思い出そうとすればするほど、夢の記憶がぼやけてゆく。
 友達のことも、好きな女の子のことも。忘却の靄の中に滲む。
 すべてが霞んだ記憶の中に、一人。
 大切な人の存在が残っていた。
 優しい人。
 たくさんのことを教えてくれた人。
 どんなときも変わらずに、僕を受け入れてくれた人。
 宝石に似た、赤い目の持ち主。
「お母さんみたいな人に会った」
⁠⁠少年は言った。
「すごく年上の、優しい女の人。僕のこと、ずっと守ってくれていた。いつも心配してた。父さんみたいに」
「僕みたいに……?」
「うん。赤い目の、すてきな女の人」
そう、と父親はつぶやいた。
 ⁠⁠長い沈黙に、くっつけていた頬を剥がして少年は父親を見上げる。
 灰青色の目が暗く陰っている。
 父さん? と声をかけると、父親は⁠⁠我に帰って微笑んだ。
「すてきな人たちに会ったんだね」
「うん。みんな大好きだったよ」
「それは、良い夢を見たね」
 少年は微笑んだ。
 夢の恐ろしさは、夢中でお喋りをしているうちに、どこかへと消えてしまった。
 再び眠気が訪れた。小さく欠伸をする。
 このまま寝室へ引き返すのは、やっぱり恐ろしい。
 ひとりぼっちの寝室は、とても恐ろしいものだ。

 父さん、と少年は声をかける。
「もう少し、ここにいても良い?」
 尋ねつつも、少年は安堵している。
 父親の答えは決まっているからだ。
「もちろんだよ。ライニー」
 灰青色の目を細めて、父親は微笑んだ。