――ネオ。
 ――兄さん。
 わたくしは、兄さんのことが好きです。
 誰よりも、いちばん、大好きです。
 もう一度。
 もう一度だけ、お話ししましょう。
 大好きな、兄さんの話を。
 屋上で待っています。

 拮抗しあった力の最中、声が聞こえた。
 彼女の声だ。
「フィオリーナ!」
フィアスとネオは同時に彼女の名前を叫んだ。
 ネオの行動は素早かった。持っていたナイフを手放し、宿敵の元から身を引いた。
 子供の手が引いた瞬間、フィアスはS&Wを発砲した。
 反射的に引き金を引いた一発目は、標的から大幅に逸れて書店の壁にめりこんだ。銃の動作反応の寸分の遅れ。その隙に、ネオはエスカレーターを登り、上階へ姿をくらました。
 跡を追って階段に足を掛けた瞬間、がらがらと家具や家電が降ってきた。
 追撃が迫り来るバリケードに封じられた。
 左側から誰かの気配がする。視界の端に映った人影に銃弾を見舞う……寸前、わずかに残った理性が左手首を押さえつけた。
 右手に逸らされた弾丸が、誰かの足先を掠め、フロアの床に穴を開けた。
 フィアスは渾身の力で、セフティレバーを上げた。これで誤発砲をまぬがれる。銃身を下げて、撃つ気はないと合図する。
 興奮状態が収まると、軽いめまいを起こした。
 耐えきれずその場に膝をつく。
 両手が小刻みに震える。身体のすべてが攻撃対象を求めて疼く。幾十にもぶれる視界に男が見える。静かな足取りで近づいてくる。
 獣は動きを捉える。
 荒い呼吸を繰り返しながら、目を閉じた。鋭すぎる五感の一つ――「視覚」を消す。
 ひとかけらの理性を使って殺人衝動を抑える。自力でできる抑止法はこのくらいだ。
 暗闇から音が聞こえる。
「……ら、なんとか言え。……ガキ……しっか……しろ」
 呼吸も動悸も鎮まらない。なんとか耳を澄ませて、聞き覚えのある低い音を脳へ叩き込む。徐々に音が言葉になる。
 正宗の声だ。
「……大丈夫か? 話、できるか?」
 言葉の意味を理解する。
 正宗は心配している。
 閉じた視界をゆっくり開き、目下の床を見つめる。動くものの影を目で追う。そして仕留める。
 フィアスは首を振る。それは現状に適さない。論理的ではない。
 ゆっくりと言葉を発する。
「はな……し……。トー……ク?」
「そう、トーク。スピーク。違いがわからんが、ジャパニーズ。OK?」
「き、き、と……れる」
質問に適した受け答えをする過程がとても長い。苛立ちを覚えるほど、簡素な単語が思い出せない。散漫する思考が文脈をぼやかす。
 思考とは裏腹に、心は崩壊から逃れるように先を急くばかりだ。
 早く跡を追わないと。
 早くネオを殺さないと。
 急がなければ、自分に殺される。
 先ほど、フィオリーナは屋上にいると通達した。
 殺し合いの最中でも、彼女の言葉は明瞭に頭の中へ入ってきた。彼女はネオを呼んでいた。自分を呼ぶ声ではなかった。
 それでも、行かなければならない。彼女を救うために。
 先に行く道は封鎖された。
 どうする? どうやって屋上へ行けばいい?
「それ、剥がしていいか?」
正宗が銃を指差す。
 フィアスは両手を見下ろす。つややかなテープの上で、丸い球になった流血が滑る。
 銃と手がテープで結ばれている。何故? と考え、先ほど実行したばかりの作戦を思い出した。
 頷く。
 1911のセフティレバーを押し上げる。
 安全装置が掛けられたのを確認して、正宗は側に腰を下ろした。
 不思議なことやってたな。銃とボクシング? いや、カンフー? こんなにぐるぐる巻きにして、誰かがいないとほどけないだろ。相変わらず手間のかかるやつだな。
 独り言をつぶやきながら、両手に巻かれたテープを剥がす。
 自由になった右手から1911を取り上げると、正宗はナイフを引き抜いて、その刃で左手のテープを切った。
「さっきの放送。アナウンス。フィオリーナ?」
頭上を指差し、ゆっくりと問いかける。
 フィオリーナ。
 名前を聞いて、フィアスは顔を上げる。
 強く頷く。
「何語?」
「ど、いつ」
「ドイツ語」
頷く。
「何を、言っていたか、分かる?」
頷く。
「教えろ」
屋上。答えは知っている。しかし、言葉が出てこない。目を閉じる。意識を集中させる。
 イントネーションも曖昧に、彼女の言葉を日本語に訳す。
「お、く、じょう」
「え?」
「お、く、じょう……」
腕の震えを感じた。手首につけた通信機が反応している。
 赤い視線の先を追って、正宗も腕時計型の通信機に目をやった。腕を取り、通話開始のスイッチを押す。スピーカーから聞き覚えのある声が聞こえてくる。自分の名前を呼んでいる。この声は……正宗の応答に、かき集めた思考が分散する。
 正宗が声の主とやりとりをする。
「今、喋れる状態じゃないんだよな」
ちらりとこちらに目をやって、通信機に告げる。
「いや、死んでねぇよ。生きてるよ」
正宗が通信機から顔を遠ざける。黒い目が強く見据える。
「ネオ。屋上にいるって。おくじょう。うえ。分かるか? フィオリーナも、うえ。お、く、じょ、う」
 強く頷く。
 既知だ。すべて知っている。店内放送で、フィオリーナが言っていただろ。ネオも放送を聞いた。そして屋上に向かった。俺は知っているんだ。
 ……伝える術を、失っただけで。
 会話の齟齬と情報の行き違いに苛立ちを感じながら、フィアスはなおも頷いた。早くしろ。時間がない。侵食される。殺される。いや、殺さなければ。
 正宗に掴まれていない手が怒りに震える。骨が軋み、爪が食い込んだ掌から、血の泉が湧き出す。
「やめろ」
正宗が血塗れの拳を掴んだ。
「ちょっと落ち着け。気持ちは分かる。俺もぶっ殺してぇ。でも、今は抑えろ。自分に八つ当たりするんじゃない」
低い声で静かに告げる。
 歯がみしながら、フィアスはネオの言葉を思い出す。
――猛獣使いと猛獣くらい違う。全然違うよ、ライニー。
 猛獣使いと猛獣の違い。
 ……そう、これが違いなんだ。
「屋上行くって言ってる。たぶん」
 通信相手と簡素なやりとりを数回行い、正宗は通信を切った。
 それから正宗は煙草に火をつけ、フィアスに吸わせようとした。しかし、喫煙はうまく行かなかった。「喫煙」という動作が一つ残らず記憶域から抜け落ちていた。
 馴染み深い甘い匂いが、床に落ちた火種から立ち上る。
 煙草はもう吸えない。
 太い命綱が切れた。
 立て膝に額を押しつけ、フィアスは溜息を吐いた。
「なんか、可哀想になってきた。俺、吸うわ。ごめんな」
 転がった煙草を拾い上げ、正宗は美味そうに三口ほど吸った。自分だけ喫煙することに気が咎めるのか、手を伸ばしてぽんぽんとフィアスの頭を撫でる。ごめんな、悪ぃな、となだめながら。
「はや……く」
「そうだな。行くか。階段使うぞ、かいだん。あっち」
 立ち上がり様、腕を掴まれた。
 進行経路が分からなくなった相棒に変わって、屋上までのルート案内をしてくれるらしい。
 歩けるか? と尋ねられてフィアスは頷く。精神変異と裏腹に、体力はありあまっている。がむしゃらに動きまわりたい衝動を抑えるために、残った理性を使わなければならないくらいだ。
 人間性がひとかけらもなくなったとき、前方を行くこの男の頭を撃つ。
 フィオリーナも他の仲間たちも見境なく殺しまくる。その焦りは、言葉にできない。その恐怖は、煙に巻くことができない。

 七階から八階の間に敷かれたバリケードを、フィアスと正宗は慎重に超えた。
 ささやかな靴音で、聴覚を刺激しないためだ。積み上げられた家具が倒壊すれば、反射的に倒れたものに向けて攻撃を放ってしまう。
 数分前、正宗が蹴り落とした小箱を、フィアスは穴だらけにした。意思の力で再び安全装置を掛け直すまで、無機物に対する無意味な銃撃は続いた。
 すべての生命が息絶えているレストランフロア。厨房に滴る水滴や油の爆ぜる音を感じとる。嗅覚で感じとる食材の焦げつきや腐った料理のにおいは吐き気を催す。
 三十分前まで何事もなく過ぎ去っていた空間が極彩色に色づき変貌している。知覚という過酷な自然に身を晒されながら、なんとか自制心を保つ。
 八階から外に出る階段を正宗は見つけ出した。
 屋上へ続く八階の扉はロックされていないのに開かない。外側からバリケードが張られていて、ドアの開閉ができないらしい。
 どうしようかな、と頭を掻く彼に銃を預ける。
 フィアスはドアを押し開ける。
 蝶番が外れて、ドアそのものが破壊される。
 力を入れていないのに、バリケードが内側の圧力で崩壊した。瓦解の音は轟音となって鼓膜に激突する。
 反射的に懐のホルスターを探る。二分前に正宗に預けた銃を忘れたまま。
 不快感を覚えながら、壊れたタンスやキャビネットを外階段から突き落とす。大人が二人がかりでようやく持ち上がる家具たちが、空箱のように呆気なく浮き上がり、目下の駐車場へ落ちていく。
 嫌だな、と思う気持ちだけを感じた。
 何が嫌なのかうまく説明できない。
「後天遺伝子、便利だな。引っ越し屋でもやったら?」
背後で正宗の声が聞こえる。
 これは、じょうだんってやつだろう。架空の面白い話。その程度の理解でもういい。
 強い風が吹きすさぶ。その風に乗っておぞましい先天遺伝子のにおいが伝わってくる。とても濃い。赤い視線は屋上へ向いたまま、目を逸らすことができない。

 殺さなければ。今すぐ。二人いる。皆殺しはいけない。どちらかだ。どっちだ? 二人のうち一人? 一人を殺せばいいのか? どっちを殺す? 男か? 女か? まずいな、混乱してきた。二人まとめて殺すか?
 それは駄目だ。絶対に駄目だ。なんで駄目なんだ? どちらとも殺したくてたまらないのに。
 なぜ殺してはいけない? そんなルールあったか? いや、ルールじゃない。あれ? るーるってなんだっけ?
 ……いや、そんなことはどうでも良くて。

 誰かが言ったんだ。

 殺したくない、と。
 守りたい、と。

 俺は、それを、受け継いで……。
 誰かを……。

「フィオリーナ」
 背後で、男が言った。

「フィオリーナ、助けるんだろ」
左手に銃を握らせてくる。

「行けよ。愛してるんだろ」

 グリップを握りしめ、階段を駆け上がる。
 フィオリーナ、と名前をつぶやく。
 頭の中で。繰り返す。祈るように。

 すべてを終わらせる。
 獣化する前に。
 愛する人の名が、力になる。