ネオは屋上に到着する。
 この建物の最上階は庭園だ。
 煉瓦色のブロックが続き、外周を植物が囲んでいる。視界は隅々まで開けて見晴らしが良い。
 カフェやレストランといった飲食店の併設はない。ただの休息スペースだ。
 百貨店のロゴが入った立方体の看板が四角い影を落とす。
 五感を尖らせ、彼女の居場所を探る。
 すぐに見つかった。
 入り口と対角線上の位置にパーゴラがしつらえられている。柱に巻き付いたブドウの蔓は末枯すえがれ、干からびた数枚の葉が地面に落ちている。
 静かな木漏れ日の下、フィオリーナは石造りのベンチに座っている。
 ネオを見つめて、微笑む。顔色は死人のように真っ青だ。
 彼女の調子は良くない。三日前に受けた銃創が治っていない。体力も落ち続けている。先天遺伝子の回復力が機能していないのだ。
 ネオは駆ける。庭園の端へ、妹の元へと。
 距離にして五メートルほどの位置。歩道橋で再会したときと同じ距離を保って足を止めた。
 彼女が咳き込み、吐血したからだ。
 口を塞ぐ手から、細い血筋がこぼれ落ちる。フィオリーナはドレスの裾で口元を拭う。彼女に着せた白いドレスは、ところどころが血に染まっている。
 近づいてはいけない。ネオは悟る。
 殺し合いのできない先天遺伝子。殺意を持っているフィオリーナに近づけない。
 無理に距離を縮めようとすれば、彼女の身体は拒否反応を起こす。
 ネオは携帯電話を取り出す。上空にいる部下と連絡を取るために。
「兄さん」
呼び声がした。
 フィオリーナがネオを見つめた。
「お話しをしましょう」
「あいつが来ちゃうよ」
「時間がないんです」
ネオは眉を潜める。
 どういうこと? と問いかけるが、フィオリーナは答えない。
 微かに潜めた眉を緩めると、再び穏やかな笑みを浮かべる。
 女神の微笑み。
 犯罪社会の女神。犯罪社会の太陽……裏社会で囁かれるフィオリーナの異名を耳にするたび、ネオは不快感を覚えた。
 フィオリーナは「女神」でも「太陽」でもない。
 ただの、小さな女の子。
 僕の大事な妹だ。
 フィオリーナは柱を支えに立ち上がる。一歩、前に進み出る。蔓草の日陰から外に出た彼女に日差しが降り注ぐ。波打つ金髪が美しく輝く。その一房一房が、黄金でできているかのように。
「この世界を愛してる」
フィオリーナは言った。
「わたくしの恨みや悲しみを、差し引いても余りある。兄さんも、そう思うでしょう?」
「思わない」とネオは答える。
「こんな世界、愛してない」
「どうして?」
「ひどいめに遭わされた。勝手に作られて、勝手に捨てられた。世界は僕を愛してくれなかった。だから僕も愛してない」
 フィオリーナは黙っている。
 その声に静かに耳を傾けている。
「愛してくれない世界であがいた」
ネオは続けた。
「たくさんあがいた。成長しない身体で。成長しない心で。大人にも子供にも傷つけられた。裏切られた。馬鹿にされた。殴られた。凌辱された。殺されかけた。ストレスや性欲のけ口にされた。血が出た。傷口はすぐに塞がった。心の傷も回復した。僕は頭が悪かった。ひどいめに遭わされてもすぐに忘れた。何百回も誰かの笑顔に騙され続けた。怖い思い出は溜まっていくのに、分からない。痛いのに、苦しいのに、どうしてそうなってしまったのか、分からない」
「もっと聞かせて」
「同じことを繰り返した。何年も、何年も。なんとか立て直して、頭を良くしようと努力した。戦略を立てて、人を殺した。金を奪った。大人をかしずかせて、組織を作った。たくさんの大人を牛耳る立場になった。這い上がった。地獄の底から。誰かを傷つけたり、裏切ったり、馬鹿にしたり、殴ったり、凌辱したりすると楽しい。人を殺すのも楽しい。ただし、君といたときほどじゃない」
フィオリーナはそっと前に出た。
 一歩、一歩と距離を縮めていく。
 三メートルほど進んだところで、再び吐血した。
 ルディガー。
 ネオがその名前を口にしたからだ。
 独白の途中で、何の意図も持たず。
 フィオリーナはその場に立ちくらんだ。
 ごめんよ、とネオは謝罪する。
「大丈夫よ、兄さん」
唇を拭って、フィオリーナは微笑む。
「続きを聞かせて」
「ルディガー……」
確認を取るように、再びその名をつぶやく。おずおずとフィオリーナを見上げる。彼女は体勢を立て直し、その場に佇んでいた。唇の血はきれいに拭われている。
 大丈夫、というようにフィオリーナは頷いた。
「彼のこと、どう思っているの?」
「嫌い」
吐き捨てるようにネオは言った。
「僕、あいつが嫌い。殺した今でも嫌いだよ」
名前を出すのもおぞましい。
 二人の仲を引き裂き、身寄りのない自分を地獄へ突き落とした張本人。
 ルディガー・フォルトナー。
 何より、彼は妹の心を奪った。
「あいつのこと、大嫌い。ひどいことをしたんだもん。死んだ後も苦しめば良いと思っているよ」
地獄ヘルはあるのかしらね」
「知らない。死んだ後のことなんて知らない。とにかく、僕は愛してない。天国も、地獄も、この世界も。僕は、僕しか愛さない。僕の分身である、君のことしか愛さない」
頬と顎のあたりがかゆい。ネオは掌で顔をこする。微かな湿り気があった。水が手についた。
 手のひらを口に持っていき、口づけるように舐めてみる。しょっぱい。
「妹に泣かされるのも嫌い」
ネオは目をこする。


 フィオリーナはネオの元へたどり着く。
 十四、五歳から、成長が止まった兄。
 背丈は自分の胸元しかない。小さな身体。低くも高くもない声色。ネオは目をこすり続けている。涙が止まらないらしい。
 あれ、おかしいな。調子、悪いのかな。僕、男なのに。フィオの、お兄さんなのに。
 このくらいで、泣いたらいけないのに。
 しくしくと涙を流すネオの頭に手をあてる。よしよしと頭を撫でる。
「兄さん、ごめんね」
身をかがめて、ぎゅっと抱きしめる。
「一人ぼっちにして、ごめんね」

 ……それから、兄さん。
 貴方は、この世界を愛していたわ。
 わたくし以上に、愛していたのよ。
 よほど深く愛していないと、こんなに長く恨み続けることなんて出来ないわ。
 
 その言葉を告げる必要はない。こうして、大好きな人の元にたどり着いたのだから。
 大丈夫。いつまでも側にいてあげる。
 貴方がうんざりするくらい、たくさん、たくさん、抱きしめてあげる。
 両腕に力を込める。
 目を閉じる直前、視界にルディガーの姿が見えた。